片倉守信(真田大八)
プロフィール
読み仮名
かたくら もりのぶ(さなだ だいはち)
生没
1612(慶長17)~1670(寛文10) 享年59才
出生
真田信繁(幸村)の次男。母は利世(竹林院)。
別名
(真田)大八、(真田)四郎兵衛、(片倉)久米之助、(片倉)沖之丞
移籍
真田信繁(幸村)の次男→片倉氏の養子
 
子供
真田辰信(片倉辰信)(辰信の時に真田姓に戻す)
当信寺(宮城県白石市)
備考
 
経歴
大坂の陣後、片倉氏に引き取られる

1612(慶長17)、片倉守信(真田大八)は真田信繁(幸村)の次男として、父信繁(幸村)の幽閉先である九度山で生まれました。

幼少期は京で暮らしました。
某年5月5日、印字打ち(石合戦)で石が当たり、守信(大八)は亡くなったことになっていますが、実は生きていました。

大坂夏の陣の戦場で、信繁(幸村)は伊達政宗の重臣である片倉重長に子供を預けたと言う系図(仙台真田系図)があり、そこには保護された信繁(幸村)の子供として大八(守信)・梅・おかね・菖蒲・女子(名前不詳)の名前が記されています。

伊達政宗から真田信繁(幸村)の子供達を引き取って良いと許可をもらった、片倉重長は信繁(幸村)の子1男4女を保護しました。
豊臣方の男子は処刑の対象だったことを考えると、守信が生き残れたのは異例でした。
守信は、姉である梅やお菖蒲と共に片倉氏に育てられました。
("おかね"は滝川一積によって育てられました。)

これは真田信繁(幸村)の男子が生きていることが幕府に知れれば、処刑の対象になると言う危惧から、このような偽装工作をしたのです。

片倉守信として生きる

白石藩の片倉氏のもとで育てられた大八は、片倉久米之介守信を名乗り始め、重長所領13000石のうち1000石(360石説有り)を与えられていたようです。

1636(寛永13)年5月24日、伊達政宗が亡くなりました。(伊達政宗 享年70才)
政宗存命中に守信が仙台藩士になることはありませんでした。

伊達忠宗が2代仙台藩主になった後、1640(寛永17)年に守信は真田四郎兵衛守信(さなだ しろうひょうえ もりのぶ)を名乗り、知行300石・召出(めしいだし)二番座で初めて仙台藩士として召し出されました。
この時、守信は仙台城下の五ッ橋通りに間口40間・奥行き30間の屋敷を与えられました。

仙台藩で真田氏が藩士に採用したことを知った江戸幕府は、その真田氏の素性に神経を尖らせました。
これは、1638(寛永15)年に終息した「島原の乱」で豊臣氏の家臣だった牢人が結集し、戦力として侮れないことを幕府方に強く印象づけたため、真田氏の生き残りともなれば幕府にとって不安定要素であるとう認識が働いたようです。
1640(寛永17)年3月、豊臣残党生き残りの一斉捜索が行われ、明石全登の子である明石内記らが身柄を確保されました。

幕府の調査に対して、「真田信繁(幸村)の二男である大八は7才の時、印字打ち(石合戦)で石が当たり、守信(大八)は亡くなった。」とし、守信の素性に関しては真田信尹の子に「真田政信」という架空の人物を登場させ、その子としました。
この時、守信は真田姓から再び片倉姓に戻し、片倉沖之丞を名乗りました。
守信の肖像画で守信が着用している羽織には「結び雁金」の紋が描かれているように、守信は六文銭の家紋の使用を控えました。

1670(寛文10)年6月晦日、片倉守信が亡くなりました。(片倉守信 享年59才)
当信寺に葬られました。
墓には幕府に遠慮して六文銭ではなく一文銭が刻まれています。

守信の死後、家督は長男である片倉辰信が継ぎました。

のちの子孫

守信の長男である真田辰信(片倉辰信)辰信の時に真田姓に戻しましたが、幕府に遠慮して本当の家系図は明治維新後まで秘密にされました。

幕末には真田喜平太(真田幸歓、さなだ ゆきしげ)が洋式兵学者として活躍しました。
喜平太は幕末から明治維新にかけて仙台藩の軍事政策に深く関与し、維新後は石巻で余生を過ごしました。

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