真田信綱
プロフィール
読み仮名
さなだ のぶつな
生没
1537(天文6)~1575(天正3)5月21日 享年39才
出生
真田幸隆の長男。母は武田信玄の家臣である河原隆正の妹。
別名
源太郎、源太左衛門尉、
法号
信綱寺殿大室道也大居士
正室:御北の方(高梨政頼の娘)
子供
長男:真田信興、次男:真田信光
長女:名前不詳(真田信吉の母)
子供は2男1女で、いずれも御北の方との子。
信綱寺(長野県上田市真田町長8100)
供養碑
設楽原 真田氏墓所(愛知県新城市)
備考
 
沿革
海野合戦で敗退し、父幸隆と共に上野へ逃亡

1537(天文6)年、真田信綱は真田幸隆(25才)の長男として、真田の庄にある松尾城で生まれました。信綱の母は河原隆正の妹です。

真田氏は海野氏の家臣として上田小県の一角である真田の庄を治めていましたが、1541(天文10)年5月、「海野平の合戦」(神川合戦)で武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に敗退した父幸隆と共に海野一族が暮らす吾妻郡で逃亡生活をした後、箕輪城主である長野業正(ながの なりまさ)を頼りました。(信綱5才)
長野氏が真田氏悲願の真田の庄への復帰に協力的でないことに失望した幸隆は、1544(天文13)年頃、海野一族を率いて武田氏の下で旧領復帰を目指す事を選択しました。
武田氏は信濃の事情に明るい真田氏が傘下に入った事で、急速に信濃で領土拡大をしていきました。

元服した時、父幸隆が仕えていた武田信玄から「信」の字を賜り、信綱を名乗りました。
1551(天文20)年、15才迎えた信綱が初陣を果しました。
この年の5月には父幸隆が砥石城を攻略したので、この時だったのかも知れません。

川中島の合戦などで、武田氏の下で父親譲り才能を発揮

元服した信綱は、父幸隆の下で武勇を身に付けるとともに、親譲りの才能を開花させていきました。

1561(永禄4)年、25才を迎えた信綱は第四次川中島の戦いで、信玄の本陣を固める旗本組の一員として参陣しました。
武田方が上杉の本陣がある妻女山へ奇襲攻撃を仕掛けた時には幸隆を補佐し、信綱は武田氏家臣団の中でも次代を担う若武者としての実力をアピールしました。
啄木鳥(きつつき)戦法を行う部隊にいたと言う説もあります。

1568(永禄11)年12月6日、信玄は駿河侵攻を開始し、信綱は信濃先方衆として弟昌輝と共に参戦しました。
1569(永禄12)年6月、伊豆韮山城の戦いで北条氏康と戦いました。

1570(元亀元)年10月、勢いの乗る織田氏と同盟関係だった徳川氏と、上洛を考え始めた武田氏とが対立し同盟は解消されました。

徳川家康は上杉輝虎と同盟を結び武田氏への攻勢を強めました。

武田氏は北条氏との対立を解消して徳川氏への攻撃を始めるために北条氏に和睦を持ちかけました。これに対して、北条氏は当主である北条氏康が1571(元亀2)年10月に病死し家督が北条氏政に継がれたことと、上杉氏がいつまで経っても煮え切らない態度が変わらないことに嫌気がさしてこれまでの方針を転換し、1571(元亀2)年12月、武田氏と同盟を結びました。

武田氏と北条氏が同盟関係になったことにより、信玄にとって上洛し易い状況になりました。
1572(元亀3)年、信玄は上洛作戦を展開し始めます。
9月末、信綱は山県昌景とともに西に向かう先発隊(先鋒)として出発しました。先発隊に選ばれたと言うことは、これまでの戦功を信玄から評価された証であり、信綱にとっては大きな名誉でした。
1572(元亀3)年12月、三方ヶ原の戦いで武田軍が徳川軍に圧勝したことに貢献しました。

信綱は父幸隆とともに武田二十四将の一人になっています。
合戦では青江貞次が鍛えた三尺三寸の陣刀を振り回して戦いました。

長篠合戦で弟昌輝と共に戦死

1574(天正2)年5月19日、父幸隆が岩櫃城で亡くなりました。(幸隆享年62才)
父の死により、信綱が真田氏の家督を継ぎました。

1575(天正3)年5月、武田勝頼は父信玄の死により凍結されていた徳川攻めを再開し、これに信綱と弟昌輝が随行しました。武田方は徳川方である奥平信昌が籠城している長篠城を包囲しました。
信綱と昌輝は、2000人の前備えに一条信龍と土屋昌次らと共に参加しました。

奥平氏の籠城が限界に近づいてきた5月18日、奥平氏が待ち望んでいた織田・徳川方が設楽原に到着しました。これを知った武田方は設楽原に進軍しました。
信綱と昌輝は右翼を担うことになり、織田方の佐久間信盛隊と対峙しました。

5月21日、戦闘が開始され、馬場隊に続き真田隊200人も連吾川を越えて、柵を巡らして柵の中から鉄砲を連射してくる織田徳川方に突入していきました。
織田・徳川方は、当時最強と言われた武田騎馬軍団を陣地に近寄らせない様にするために馬防柵を張り巡らし、1000丁の鉄砲を駆使した先進的な戦法を展開しました。
この馬防柵により、武田氏が得意とする騎馬での戦闘ができず、鉄砲による攻撃を受けた武田方の戦況は不利になっていました。
信綱と昌輝は馬防柵を切り崩す為に、最前線へ突入しました。
信綱は織田・徳川方からの猛攻撃に遭い、柵を一重破ったところで弟の昌輝と共に戦死しました。(信綱享年39才)

信綱の首は白川氏の兄弟によって真田へ持ち帰られ、信綱寺に埋葬されました。

設楽原には、この地で信綱と昌輝が戦死したことを記す碑があります。
信綱寺(長野県上田市真田町)に信綱の墓があります。

未亡人になった正室のに対して、真田氏の家督を継いだ昌幸が領地を与えました。
信綱との間にできた長女信之の側室になり、信之の長男である信吉を産みました。

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