真田信尹
プロフィール
読み仮名
さなだ のぶただ
生没
1547(天文16)~1632(寛永9)5月4日 享年86才
出生
真田幸隆の四男、母は不詳
別名
源次郎、加津野市右衛門、信昌、隠岐守
正室:馬場信春の娘
(馬場信春の別名は信房、氏勝、民部少輔、美濃守)
子供
長男:長兵衛幸政
龍岸寺(山梨県北杜市長坂町長坂上条1666)
備考
弟の高勝は生年不詳であるため、高勝を四男、信尹を五男とする説もあります。
長男幸政の妻は昌幸の娘。
沿革
真田信尹の沿革

1547(天文16)、真田信尹が真田幸隆の四男として生まれました。母は幸隆の側室です。

1551(天文20)年5月26日、父幸隆が武田方の悲願だった戸石城を攻略を果たし、これにより幸隆は本拠地である小県の領地に復帰しました。この時、武田氏への忠誠を誓うために1553(天文22)年8月10日、信尹は兄の昌幸と共に甲府の武田氏へ人質として出されました。(信尹7才、兄昌幸7才、信尹と昌幸は腹違いの兄弟)
武田氏の家臣である加津野氏の養子となって加津野市右衛門信昌を名乗りました。加津野氏は武田氏一門の勝沼氏の親戚筋でした。
信尹は槍奉行として騎馬15騎、足軽10人の戦力を与えられました。

武田信玄の下で信州先方衆として活躍し、 1569(永禄12)年に深沢城(静岡県御殿場市深沢)の北条左衛門大夫綱成を攻めた時、綱成の指物である黄八幡旗を奪いました。

武田氏滅亡後は北条氏・池田輝正・徳川氏・蒲生氏郷の順に主を転々と変え、1582(天正10)年には徳川氏の家臣になり、その頃から真田姓に復帰し真田信尹を名乗り始めました。

武田氏滅亡後、信濃は徳川・北条・上杉の草刈り場と化しました。
信尹は真田の当主になっていた兄昌幸を依田信蕃とともに徳川方に必死に勧誘しました。
1582(天正10)年9月下旬、兄昌幸は家康の家臣になり、信尹は徳川からその褒美として五十両を賜りました。

その後、使い番に抜擢され、甲斐国巨摩(こま)郡内に3000石を与えられ、 大蔵村(現在の山梨県北巨摩郡須玉町大蔵)に屋敷を構えました。

関ヶ原の戦い・大坂の役では徳川軍として参戦しましたが、大坂の役で信尹は本多正純を通じて家康から豊臣方に属した甥の信繁(幸村)を勧誘する役割を与えられました。度重なる勧誘工作の後、最後には信濃一国を与えると言って幸村を勧誘しましたが、幸村はそれを突っぱねました。大坂の役での働きを評価され、旗奉行に格上げ、1000石(1200石説もあり)を加増され、4000石になりました。

信尹の屋敷は山梨県巨摩郡大蔵村にありました。

1632(寛永9)5月4日、真田信尹が亡くなりました。(信尹享年86才)
龍岸寺(山梨県北杜市長坂町長坂上条1666)に葬られました。
妻は馬場氏勝の娘で、墓は信尹と共に龍岸寺(山梨県北杜市長坂町長坂上条1666)にあります。
信尹夫妻以下3世の墓があります。

信尹の家系は、幕府旗本として存続しました。

 

※「使い番」とは「使い役」とも呼ばれる江戸幕府旗本の役職の一つです。
若年寄の管轄に属し、戦時には主に陣中での伝令などを担い、平時には大坂や京都などの主要都市への出張や外様大名が治める諸国への視察や監視を任務としました。

長男幸政

信尹の長男である幸政は、昌幸の六女清光院が嫁いだ妻木重直の次男幸頼を養子にし、家督を継がせました。
(幸頼の母が清光院なのかどうかは不詳です。)

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