山手(寒松院)
プロフィール
読み仮名
やまて(かんしょういん)
生没
生年不明~1613(慶長18)年6月3日 享年不詳
出生
正親町実彦の娘または姪説、今出川春季(菊亭春季)の養女説、 宇田頼忠の娘説、など諸説あります。
別名
山手之殿、山手、山手殿、山手の方、京の御前(きょうのごぜん)
法号
寒松院殿宝月妙鑑大姉、喜山理慶大姉、恭雲院
移籍
正親町氏の一族か、正親町氏に近い京の公家、武田信玄の養子、真田昌幸の正室
真田昌幸(正室)
子供
長男:信幸(信之)、次男:信繁(幸村)
大輪寺(長野県上田市)、大林寺(長野県長野市松代町)
備考
 
沿革
山手の出自

山手殿の出身については資料が無く分かっていません。

山手殿の生い立ちについての諸説一覧
 1.正親町実彦の娘で、武田信玄の養女(綱徳家記)
 2.正親町(おおぎまち)実彦の姪で、菊亭晴季の養女(滋野世記、取捨録、樋口系図)
 3.今出川(菊亭)晴季(はるすえ)の娘(滋野世記、真武内伝)
 4.宇田下野守頼忠の娘(真武内伝、諸家高名記)
 5.宇田河内守頼次の娘(真田秘伝記)
 6.遠山右馬亮の娘(沼田記、続武家閑談)

 

山手殿の出身については主に6つの説がありますが、この中で可能性が低いものから見ていきましょう

<6の説について>
滋野世記では幸隆の娘(昌幸の妹)が遠山氏に嫁いだことになっており、真田軍功家伝記では昌幸の弟である信尹の娘が遠山氏に嫁いだことになっています。
この説は真田氏の娘の一人が遠山氏に嫁いでいったことの誤伝によるものである可能性が高いです。

<4と5の説について>
宇田頼忠と宇田頼次は親子です。
頼忠の娘は石田三成に嫁いでおり、頼次と三成は義兄弟ですが頼次はさらに三成の父である正継の養子でもありました。
つまり頼次と三成は義兄弟ながら2つの縁で結ばれていました。
石田氏と親密だった頼次は昌幸の娘と結婚していますので、その娘、つまり昌幸にとっては孫に当たる頼次の子を昌幸の夫人にすることはあり得ません。
この説は宇田氏を中心とした石田氏と真田氏の関係に、後世において関ヶ原合戦での武勇伝などが語られるうちに誤伝してしまったのでしょう。

1~3のように有力な公家から昌幸が妻を娶ることは可能だったのでしょうか?

昌幸は1553(天文22)年8月10日、11才の時に弟の信尹(信昌)とともに甲府の武田氏へ人質として出されました。しばらくして、武田家ゆかりの武藤氏の養子になって武藤喜兵衛と名乗り、これより以降しばらく甲府にて暮らし、元服(成人)した後は昌幸は父譲りの才能を開花させ、信玄の旗本として、戦いでは使番・検使を務めました。信玄の正室は公家の三条公頼の娘ですが、三条氏は藤原氏北家閑院流の嫡流であり、今出川氏は庶流西園寺氏からさらに分かれた家でした。そして、信玄の妹の一人が晴季の妻になっています。
こうした関係を見ていくと、昌幸を高く評価していた信玄が公家の娘との縁談を昌幸に勧めても不自然ではないでしょう。

<3の説について>
今出川晴季は後に右大臣も務め、武田氏滅亡後には秀吉の関白就任などで武士と朝廷のパイプ役を果たしていくことになる大物で、いくら武田氏の仲介があったとしても、まだ武田氏の一家臣だった真田氏が一足飛びに今出川(菊亭)氏ほどの公家の大物の娘を嫁に迎えることはまず不可能だったと考えます。

<2の説について>
正親町実彦(おおぎまち さねひこ、別名:正親町季秀(おおぎまち すえひで))は天文17年生まれで、昌幸より1才年下です。
実彦と山手殿それぞれの親子関係が実の親子と言うことなら山手殿の親と実彦が兄弟というのは難しい事ですが、異母兄弟や養子と言うことになれば従兄弟同士が30才以上離れていても可笑しいことではなく、この説の可能性は否定できません。

<1の説について>
「高野山蓮華定院過去帳」によると、1607(慶長12)年9月21日に昌幸とその室(山手殿)の生前供養の日牌が上げられています。
これに昌幸は「一翁千雪居士逆修」、山手殿は「宝月妙鑑信女逆、武田信玄養子、真田房州簾」と記されています。これは「綱徳家記」の信玄養女説を裏付けるものです。

山手が昌幸と結婚した経緯における現時点での最も有力な説

昌幸の嫁探しをしていた信玄が、妹の婿である正親町実彦に相談を持ちかけ、そして正親町氏の親戚だった女子か、正親町氏のごく親しい間柄の女子が信玄の養女という形で昌幸と結婚させたと言う説が現在では最も有力とされています。

正親町娘説が出てきた背景は、長い間で行われた言い伝えの最中に「近親者である女子→娘」に情報が変化してしまったか、「正親町の娘」である方が真田氏にとって都合が良かったからかも知れません。

山手殿は「京の御前」とも呼ばれていましたが、これは山手殿が京都出身の身分の高い家の出身だったことの表れであり、山手殿は正親町氏または公家に近い階層の出身者だった可能性が高いようです。

山手の経歴

山手殿の生年など出身に関することは分かっていません。「山手の出自」の項目にもありますように、自出については諸説あります。

いつ頃か詳細は不明ですが、真田昌幸と結婚しました。
昌幸は7才の頃、1553(天文22)年から甲府の武田氏へ仕えていたので、これ以降の元服後にに武田信玄から縁談を世話されたものと思われます。

1566(永禄9)、山手殿は昌幸との間に信之を産みました。

1567(永禄10)年、山手殿は昌幸との間に信繁(幸村)を産みました。

関ヶ原の戦いの直前、山手殿は大坂にいました。
徳川方が合図の上杉景勝を討伐する為に北上した時を狙って、挙兵した石田三成によって山手殿は人質になりました。
この時、河原綱家(山手殿にとって姑の兄弟)により、拘束から逃れました。

夫昌幸と次男信繁(幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍の秀忠軍の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は大敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。

家康は西軍として上田城に籠城し、将軍秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた夫昌幸・二男信繁(幸村)に切腹を言い渡しましたが、信之が井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。これに秀忠が最も抵抗をしましたが 、家康は助命嘆願を受け入れて、康政に秀忠も説得されて、昌幸・信繁(幸村)の切腹は回避されました。そして、 家康は1600(慶長5)年12月上旬に昌幸と信繁に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。

1600(慶長5)年12月13日、昌幸は近い立場にあった16人の家来、信繁(幸村)とその妻子や家来らと共に上田を出発しました。この時、山手は九度山へ行かず上田に留まりました。
出家して寒松院を名乗りました。

一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた長男信幸に対し、幕府は本領である吾妻郡を含んだ沼田領に加え、家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。
9万5000石の大名になった信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前から幸の字を消して、信幸を信之に改めたのです。

1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。
上田城の中枢部は徳川氏による破壊により利用できる状態ではなかったため、信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。
城主が城の戦略的な中枢部ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配体制と言います。
この頃から、山手殿は寒松院として大輪寺で生活を始めたようです。

九度山に幽閉された真田氏の邸宅ができた後に、寒松院は九度山を訪れた事もあるらしいですが、真偽は不明です。

1613(慶長18)年6月3日、昌幸の三回忌にあたるこの日に山手殿は自害しました。(山手殿享年不詳)

墓は長野県上田市の大輪寺と長野県長野市松代町の大林寺にあります。
法号は寒松院殿宝月妙鑑大姉です。

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