小松
プロフィール
読み仮名
こまつ
生没
1573(天正元)年~1620(元和6)年2月24日 享年48才
出生
本多平八郎忠勝の娘
別名
於子美(おねみ)または於小亥(おねい)、稲姫、小松姫、小松殿
法号
大蓮院殿英誉皓月大禅定尼
移籍
徳川家康の養女(秀忠の養女説もあり)
真田信幸(関ヶ原合戦後、信之に改名)
子供
真田信之次男:信政、三男:信重
長女:まん、次女:まさ
勝願寺(埼玉県鴻巣市)、正覚寺(群馬県沼田市)、芳泉寺(長野県上田市)、大英寺(長野県長野市)
備考
信之(信幸)の長男である信吉は小松殿の子供では無いと言うのが通説。
沿革
幼少期

小松殿は1573(天正元)年、本多忠勝の娘として生まれました。
幼少期は於子美(おねみ)または於小亥(おねい)と呼ばれました。

真田信幸に嫁ぐ

1590(天正18)年、家康の養女として信幸に嫁ぎました。 (小松殿17才、信之25才)
夫である信幸は前年の1589(天正17)年2月13日に徳川家康の家臣になっており(信幸24才)、この時に徳川氏と真田氏に縁談の話が出たようです。これは第一次上田合戦後、徳川と真田の仲裁をしようとしていた秀吉が家康に話を持ちかけたようです。家康の養女としての輿入れということで、真田氏の格式が尊重されました。小松は家康ではなく秀忠の養女であると言う説もあります。

徳川氏にとって真田氏は北条・上杉との国境で縦横無尽に振る舞う存在であり、1585(天正13)年に起きた第一次上田合戦では少数の真田方に対して大軍を送り込みましたが、上田城を陥落させる事はできませんでした。
小松姫は徳川氏にとって、スパイ的な存在でしたが、真田氏に嫁いだ小松姫は徳川方で力を持っている実家の本多氏の力をも利用して、夫の真田信幸と真田氏を支えていきました。

朝鮮出兵

結婚した翌年の1591(天正19)年、秀吉による朝鮮出兵の計画が動き出し、1592(文禄元)1月には夫信幸にも兵を出すように命令が来ました。

1594(文禄3)年11月、夫信幸に従五位下伊豆守の官職が授けられました。
1595(文禄4)年1月、秀吉は草津での湯治を計画し、真田氏などの信濃諸大名に座所の普請や経路の警戒を命令しましたが、入湯は実現しませんでした。草津は真田氏の領地だったので、真田氏が前田氏を受け入れる準備をしたようです。

1597(慶長2)年、朝鮮出兵(慶長の役)(~1598)。

1597(慶長2)年、小松は信之の次男である信政(のぶまさ)を産みました。

1598(慶長3)年4月、秀吉が計画して実現できなかった草津での湯治を前田利家が行いました。

1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉が伏見城で病気の悪化により亡くなりました。このとき信幸は伏見城にいました。(秀吉享年63才)

関ヶ原合戦

秀吉が亡くなった後、家康が権力を掌握していきました。上杉氏以外の五大老は事実上屈服しましたが、それでも徳川氏と対立していったのは五奉行の一人だった石田三成でした。

1600(慶長5)年6月16日、家康は会津に籠もって上洛命令に従わない上杉氏を討伐するという名目で、大坂を出て経由地の江戸を目指しましたが、家康は自分が近畿から離れれば三成が反徳川の軍隊を集めて挙兵する事は分かっていました。
7月上旬、石田三成は大坂城へ入り、秀頼を擁立して兵をあげました。
7月19日、西軍は東軍が守る伏見城を攻撃し、関ヶ原の決戦に向けて大きな戦闘が始まりました。
7月21日、父昌幸へ石田三成から密書が届き、義父昌幸と義弟信繁(幸村)は西軍にはいる事を決めました。

昌幸と信繁(幸村)が徳川方から離脱し、豊臣方として体制を整える為に上田へ向かう途中で、沼田城に寄りました。小松姫には将軍秀忠の本隊にいた夫信幸(信幸)から義父弟が豊臣方に入ったことを手紙で伝えられており、沼田城内で昌幸への離反者が出て混乱が起きないように、沼田の家臣達から妻や子を人質として出させました。昌幸が「これからは敵味方に分かれるので、孫の顔を見る事ができるのは今回が最後になるかも知れない。だから、城内に入れて欲しい。」と申し出ましたが、小松殿は沼田城を乗っ取られる事を警戒して、開門する事はありませんでした。この事は後に家康から高く評価され、義父弟が豊臣方に入った事で徳川方で苦しい立場になった夫信幸にとって救いになりました。(小松殿27才、信幸35才)

9月2日、夫信幸が案内役を務める将軍秀忠の徳川本隊が小諸城に着陣しました。
9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する関ヶ原の戦いが起こりましたが、この1日で勝負が付きました。裏切りが続出した西軍は、東軍に敗れたのです。
真田討伐に手こずり失敗した秀忠は、この時点で秀忠は関ヶ原から遠く離れた木曽付近にいたため、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。将軍秀忠は徳川本隊だったにも関わらず戦いに間に合わないという失態をしてしまったのです。

関ヶ原合戦の戦後処理で義父弟である真田昌幸と真田信繁(幸村)には切腹の命令が下りましたが、夫信幸のために命だけは助かるように実家の本多氏に手を回し、様々な方面に働きかけました。その結果、義父弟は処刑を免れ九度山に幽閉される事になりました。幽閉先の高野山についた昌幸たちは、高野山蓮華定院など滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に落ち着きました。

関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた信幸に対し、幕府は本領である吾妻郡を含んだ沼田領に加え、家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。
9万5000石の大名になった信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前から幸の字を消して、信幸を信之に改めました。

義父弟の幽閉先での生活は大変困窮したため、これを援助するために度々金品を送っていました。盆・暮れ・正月などの度に信州の名産や鮭や布製品などを送り届け、それに対し昌幸が小松に対しお礼の手紙を送っています。

1611(慶長16)年6月4日、真田昌幸が九度山にて逝去。この時、夫信之は昌幸を弔おうことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得されてやめました。(真田昌幸 享年65才)

大坂の陣

1614(慶長19)年10月9日、豊臣方として徳川氏と戦う決意をした義弟信繁とその嫡子である大介(幸昌)は九度山を出発して大坂に向かい、4日後の10月13日には大坂城に到着しました。

この頃、真田氏の当主である夫信之は病床の身であり、出陣できる状態ではありませんでした。小松が実家に信之が出陣できる状況でないことを伝え根回しをしてもらった結果、10月4日に出た出陣の命令書には「貴殿ご病気の場合は御息河内守(信吉)殿にご数人をつけて早々に出府されたい」という但し書きが付き、これにより真田氏の面目が保たれました。
息子2人は小松殿の弟である本多忠朝隊に入りました。この時、小松は2人に随行する矢沢頼幸に「何事についても、くれぐれも気をつけてくれるように」と申しつけました。

10月23日、夫信幸の長男信吉と次男信政が秀忠隊に随行して江戸を出発しました。

大坂城の総構えの一部に真田丸が完成し、11月中旬には徳川方が大坂城の周囲に結集、本格的な衝突が始まりました。
12月16日、徳川方からの砲撃によって天守と千畳敷御殿に玉が命中し、これに驚いた豊臣上層部は12月19日に徳川方と和議を結び冬の陣は終わりました。

4月26日、徳川方の先鋒が京都を出発し大坂夏の陣が始まりました。
真田信之は病気により出陣できず、代わりに長男信吉と次男信政が出陣し、井伊直孝の指揮下へ入りました。

1616(元和2)年4月17日、義父である徳川家康が駿府城で逝去しました。(徳川家康 享年75才)

1617(元和3)年3月、夫信之は居城を沼田から上田に移したため、沼田城は信之の嫡子である信吉が城主になりました。

1617(元和3)年、夫信之が病気を患った体をおして将軍秀忠の上洛に随行しました。

小松、病気を患い、逝去

1619(元和5)、小松が病気を患い体調を崩し始めました。
1620(元和6)2月24日、小松は病気療養のために草津へ向かう途中、武蔵国の鴻巣の地で亡くなりました。(小松 享年47才)
小松が亡くなったという知らせを聞いた夫信幸は、知人に宛てた手紙の中で「我が家の灯火が消えた」と書くほど大変悲しみました。

小松の没後

1622(元和8)年2月、信之は小松殿の3回忌にあたり、上田に大英寺を建立。(松代移封時に松代へ移し、上田には芳泉寺を建立。)

1622(元和8)10月、幕府により信之は上田から松代に移封されました。(松代10万石、沼田3万石で計13万石となる。)(信之 58才)
松代への移封については、海野氏の時代から代々一族で守ってきた土地から離れる事に抵抗がありました。
信之は幕府から移封を命じられた帰り道、鴻巣にある小松の墓に立ち寄り、墓前で移封のことを報告したと思われます。信之はこの地から国元に松代への移封について納得した事を手紙で「我らこと、もはや老後に及び、万事要らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ、松城(のちの松代)へ相移る事に候」と伝えています。

小松の墓は亡くなった地である鴻巣の勝願寺(埼玉県鴻巣市)、長く暮らした沼田の正覚寺(群馬県沼田市)、上田の芳泉寺(長野県上田市)、夫信之の移封先である松代の大英寺(長野県長野市)にあります。
法号は大蓮院殿栄誉皓月大禅尼です。

勝願寺には小松殿の墓と並んで、三男真田信重夫妻の墓があり、さらに真田氏が松代移封で去った上田へ移封されてきた仙石忠政の父である仙石仙石秀久の墓もあります。

正覚寺には小松が寄進したという「閻魔十王図」が残されています。

小松の死後、夫信之の病状は回復し、戦国武将としては珍しい93才まで生きました。

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