右京
プロフィール
読み仮名
うきょう
生没
生年不明~1671(寛文11)
出生
松代城代玉川秀政の娘、または京都で薬屋をやっていた玉屋の娘。
別名
右京の局(うきょうのつぼね)
移籍
 
真田信之(信幸)(側室として)
子供
松代2代藩主真田信政の母は右京であると言う説がある。
梅翁院(長野県長野市松代町)
備考
 
沿革
右京の経歴

出生は松代城代玉川秀政の娘であるとの説と、京都で薬屋をやっていた玉屋の娘という2つの説があります。

「松代名士伝」では右京の局が松代2代藩主真田信政の母であるとしていますが、一般的には信政の母は小松殿というのが通説になっています。

墓は松代の梅翁院にあります。

2代藩主信政の生母説と逸話

※この項目では、右京の局が松代2代藩主真田信政の生母であるという説について紹介します

「松代名士伝」では右京の局が松代2代藩主真田信政の母であるとしています。
右京の局は松代城代玉川秀政の娘であり、松代2代藩主である真田信政を1597(慶長2)に産んだとしています。

1657(明暦3)年に信之が松代城主を隠居で退任し、信政が松代藩を継ぎました。しかし、着任から6ヵ月あまりで亡くなってしまったため、信之の長男信吉の血筋をひく真田信利が松代の後継者になることを主張し始めました。これに対して松代藩内からは信政の六男信房(のちの幸道)の動きが出て、家督争いになりました。右京の局は信之を中心に松代藩内の家臣達を信房(のちの幸道)擁立で結束させた功労者でした。

信之が某女中を妊娠させた時にお家騒動にならないように、その某氏を他藩に預けるといったこともしていたと言う伝承もあり、この時の子供が後に臨済宗の高僧になる道鏡恵端禅師(どうきょうえたんぜんじ、通称:正受老人(しょうじゅろうじん))であるという伝承があります。
(信之と正受老人の事については信之の「関連事項」ページに掲載しています。)

※尚、rokumonsen.comでは「右京の局が真田信政の生母であるという説」は採用していません。

トップ真田氏データベース真田氏一族藩主系黎明期真田信之一家>右京
 
ろくもんせんどっとこむ トップページへ 真田氏データベース トップページへ ルーツ 家紋 歴代藩主 一族 系図 年表 親戚 家臣 勢力範囲 合戦遍歴 関連伝説 真田十勇士 有力者データベース 用語データベース サイトインフォメーション トップへ