真田信吉
プロフィール
読み仮名
さなだ のぶよし
生没
1593(文禄2)年~1634(寛永11)年11月28日 42才
出生
真田信之の長男。母は真田信綱(真田幸隆の長男)の娘説、小松殿説など諸説あり。
別名
仙千代、孫六郎、蔵人、法号:天桂院
移籍
河内守
正室:松仙院(酒井忠世の娘)、側室:慶寿院(依田氏の娘、元侍女)
子供
長男:熊の助(松仙院の子)、次男:信利(慶寿院の子)
長女:名前不詳…千種有能の妻
天桂寺(群馬県沼田市)
備考
沼田2代
1616(元和2)年~1634(寛永11)年11月28日
沿革
真田信吉の沿革

1597(慶長2)、沼田城で信之の長男として生まれる。
母は真田信綱(真田幸隆の長男)の娘説が有力とされています。(小松殿説もあり)

大坂の役

1614(慶長19)年10月9日、豊臣方として徳川氏と戦う決意をした叔父信繁とその嫡子である大介(幸昌)は九度山を出発して大坂に向かい、4日後の10月13日には大坂城に到着しました。

この頃、真田氏の当主である父信之は病床の身であり、出陣できる状態ではありませんでした。母小松が実家に信之が出陣できる状況でないことを伝え根回しをしてもらった結果、10月4日に出た出陣の命令書には「貴殿ご病気の場合は御息河内守(信吉)殿にご数人をつけて早々に出府されたい」という但し書きが付き、これにより真田氏の面目が保たれました。
信吉と弟の信政の2人は母小松の弟である本多忠朝隊に入りました。この時、小松は2人に随行する矢沢頼幸に「何事についても、くれぐれも気をつけてくれるように」と申しつけました。

10月23日、信吉と次男信政は秀忠隊に随行して江戸を出発しました。

大坂城の総構えの一部に真田丸が完成し、11月中旬には徳川方が大坂城の周囲に結集、本格的な衝突が始まりました。
12月16日、徳川方からの砲撃によって天守と千畳敷御殿に玉が命中し、これに驚いた豊臣上層部は12月19日に徳川方と和議を結び冬の陣は終わりました。

信吉・信政兄弟は大坂冬の陣の際、大坂城のやや東北の方向にある鴫野村付近または大坂城北方の備前島に陣を置いたと言われています。冬の陣は約2000人を率いました。
1614(慶長19)年11月26日、鴫野・今福の戦いがありました。
この時、真田兄弟は後方で待機していたようで、戦闘後に戦闘した佐竹義宣隊と配置転換をしています。

1615(慶長20)年、夏の陣は約2300人を率いました。
4月26日、徳川方の先鋒が京都を出発し大坂夏の陣が始まりました。
真田信之は病気により出陣できず、代わりに長男信吉と次男信政が出陣し、井伊直孝の指揮下へ入りました。

5月7日、徳川方は天王寺口と岡山口で豊臣方と戦闘を繰り広げました。真田兄弟は天王寺口の右翼の先鋒になりましたが、叔父信繁(幸村)は左翼との戦闘になったので、親戚対決は回避されました。真田兄弟は毛利勝永・竹田永翁(たけだえいおう)らの隊と激戦になりました。25~29名を討ち取り、35~39名の戦死者を出しました。
叔父信繁(幸村)が豊臣方の中核として真田丸などで活躍したことと、真田兄弟は徳川方内で比較され肩身の狭い思いをした可能性があります。豊臣方である叔父信繁(幸村)と真田兄弟ら信之側が内通しているのではないかという疑念が徳川方内からありました。成果を上げる事に焦り、自分達家の疑惑を晴らすためにも、死体の首を切って手柄に入れるようなことをせずに、犠牲者の比率が多くても正直に報告したものだと思われます。

大坂の役の後

1616(元和2)年、父信之は居城を沼田から上田に移し、沼田を信吉に任せました。(信吉24才
これは父昌幸が自らを上田城主とし信之を沼田城主にしたことを、信之が手本にしたものと思われます。

1616(元和2)年4月17日、義理の祖父である徳川家康が駿府城で逝去しました。(徳川家康 享年75才)

1617(元和3)年3月、夫信之は居城を沼田から上田に移したため、沼田城は信之の嫡子である信吉が城主になりました。

1617(元和3)年、夫信之が病気を患った体をおして将軍秀忠の上洛に随行しました。

1632(寛永9)年5月、信吉は正室である松仙院との間に、真田熊の助をもうけました。(信吉40才)

1634(寛永11)年11月28日、信吉が江戸屋敷で亡くなりました。(信吉享年42才)
信吉の遺骸は沼田へ送られ、迦葉山で火葬されのち、天桂寺に葬られました。

墓は群馬県沼田市の天桂寺にあります。

信吉の次男信利による悪政により、沼田の領民は真田氏に対するイメージが良くないと言われていますが、信吉については逆に評判が良いようです。

沼田のシンボル的存在になった「城鐘」

1634(寛永11)年、信吉が沼田藩の安泰を祈願して「城鐘」を鋳造しました。

その後、信吉の次男信利が悪政や両国橋普請遅延などの罪によって幕府によって改易され、沼田藩が取り潰しになりました。
沼田城が破却されたため、この城鐘も本来の役目を果たせなくなりました。

1887(明治20)年、「城鐘」を保護する動きが地元で起き、この「城鐘」を吊すための「鐘楼」が旧沼田町役場敷地内に建てられました。

1954(昭和29)年3月30日、「城鐘」は県重要文化財の指定を受けました。
1964(昭和39)年、市庁舎改築で取り壊されるまで、市民から「時鐘(ときのかね)」として親しまれました。

1983(昭和58)年、沼田公園に「鐘楼」復元されました。

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