真田信政
プロフィール
読み仮名
さなだ のぶまさ
生没
1597(慶長2)年11月~1658(明暦4)年2月5日 享年62才
出生
真田信之の次男。母は小松殿(信之正室)
別名
仙千代、仙之助、百助、内記、大内記
法号
円陽院殿威良一中大居士
正室:稲垣重綱の娘(子が無く離婚)、側室:小野宗鑑尼(円徳院)、松寿院(高橋氏の娘)、永寿院、自照院、法性院
子供
長男:信就(小野宗鑑尼の子)、六男:幸道(右衛門佐、うえもんのすけ)
長国寺(長野県長野市松代町松代田町1015-1)
供養碑
蓮華定院(和歌山県伊都郡高野町高野山700)
備考
埴科初代 1622(元和8)年就任~1639(寛永16)年辞任(沼田藩家督相続に伴い)
沼田4代 1639(寛永16)年7月25日就任~1657(明暦3)年8月辞任(松代藩家督相続に伴い)
松代2代 1657(明暦2)10月晦日就任~1658(万治元)年2月5日逝去 約1年間
正室とは子ができる前またはできず離婚したため、子供6男6女は全て側室との子。
沿革
信之の次男として頭角を現す

1597(慶長2)年、沼田城で真田信之とその正室小松の間に生まれました。

1600(慶長5)年、真田氏は関ヶ原の戦いの直前に豊臣方と徳川方に別れました。
信政の父信之は、本多忠勝の娘で徳川家康の養女だった小松を妻に迎えた事や真田氏を絶えさせない作戦もあって、徳川方につきました。
徳川方に着いた信之は3才だった信政を人質として江戸の徳川氏に送りました。この時、家康は信之を褒め称えて「吉光の短刀」与え、これは真田氏に代々家宝として伝わりました。

1614(慶長19)年の大坂冬の陣と1615(慶長20)年の大坂夏の陣では病気を理由に参戦しなかった父信之に代わって徳川方として兄信吉と共に参戦しました。

松代の支藩である埴科藩や沼田藩の藩主を歴任

1622(元和8)年に父信之が上田から松代に移封されました。その時、信政は松代藩の一部を支藩として与えられ、初代埴科藩1万石の藩主になりました。この埴科藩について詳しい事は分かっていませんが、領地は埴科郡と水内郡の中の16ヵ村だったようです。

父信之から沼田藩を任されていた兄信吉が亡くなったため、信吉長男の熊之助が4才で継ぎました。
1638(寛永15)年11月6日、その熊之助が7才の若さで亡くなったため、翌年の1639(寛永16)年7月25日、に信政が沼田4代藩主になりました。この時、沼田3万石のうち5千石を甥(兄信吉の次男)である信利に与えました。
松代藩の支藩である埴科藩は弟信重に譲りました。(信政43才)

沼田藩主時代、信政は新田の開発に尽力し、石高を増やしていきました。

1645(正保2年)年6月23日夜、三男信武が沼田城中にて次男信守に殺傷されました。(信政49才)

1657(明暦3)年2月22日、右衛門佐(幸道)が沼田藩江戸屋敷で六男として生まれました。(信政61才)

松代藩を継ぐが間もなく逝去

1657(明暦3)年8月、父信之の隠居にともない、沼田藩は甥(兄信吉の次男)である信利に譲り、松代藩10万石の藩主になりました。この時、信政が沼田から連れてきた側近達は「沼田侍」と呼ばれ、松代藩政で強い影響力を持ちました。(信政61才)
徳川家光に随行して京都滞在中に、小野宗鑑尼(小野お通の娘である図子)との間に長男信就ができました。

松代藩主になった信政でしたが、病気が悪化して死期が近づいていることを悟り、自分の六男である右衛門佐(うえもんのすけ、後の幸道)に家督を継がせることを遺言として残しました。この時、幸道の上の4人の兄は無くなっており、長男信就は母親である小野宗鑑尼(二代目小野お通)が真田氏に入るのを遠慮したため、分家に出て旗本になりました。

松代藩主になってから約半年後の1658(万治元)年2月5日、信政は病気で亡くなりました。(信政享年62才)
長国寺に葬られ、高野山の蓮華定院にも分骨されました。

信政が亡くなった後は松代藩の家督をめぐって、信政の六男右衛門佐(うえもんのすけ、後の幸道)と沼田藩主である信直との間で相続争いが起こりました。
父信之は信政六男の右衛門佐信房(幸道)を擁立し、信吉の妻の実家である前橋城主の酒井氏と信直の妻の実家である山内氏や信政の長男真田信就などは信直を擁立しました。
最終的には信房(幸道)が家督を相続することになりました。

信政の霊屋は長国寺に建てられましたが、現在は林正寺の本堂になっています。

側室 小野宗鑑尼と長男信就

信政の側室である小野宗鑑尼(二代目小野お通)の母は、信之と親交があった小野お通の娘です。
信政と小野宗鑑尼の間に長男信就が生まれましたが、小野宗鑑尼(二代目小野お通)は真田氏に入るのを拒んだ為、信就は信政の長男であるにも関わらず勘解由という姓を姓を名乗り、分家を立てました。
松代藩は信就の弟である幸道が継ぎ3代藩主になりましたが、幸道の長男が亡くなった後は幸道に男子が産まれなかったため、1703(元禄12)年に信就の七男が幸道の養子になって、1727(享保12)年に幸道が亡くなたっため真田信弘として4代藩主になっています。

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