真田信利
プロフィール
読み仮名
さなだ のぶとし
生没
1635(寛永12)年~1688(貞享5)年1月16日 享年54才
出生

真田信吉(沼田2代藩主)の次男。母は信吉の側室である慶寿院(依田氏の娘)

別名
兵吉、信澄、信直、従五位下、伊賀守、法号:春林院
山内忠豊(高知25万石)の娘。
子供
長男:信音、次男:、三男:、四男:
子供は男4人
迦葉山龍華院弥勒寺(群馬県沼田市上発知町445)
備考
沼田5代1657(明暦3)年9月~1681(天和元)年11月22日(沼田真田藩取り潰しによる)
(藩主就任は1656(明暦3)年10月の説もあり。)
熊之助とは異母兄弟
沿革
生まれ

1635(寛永12)年、信利は沼田2代藩主である真田信吉の次男として生まれました。
母は信吉の側室である慶寿院です。(信利1才)
信利が生まれる前年の1634(寛永11)年11月28日、父信吉が亡くなっています。(信吉享年42才)

1638年(寛永15)年11月6日、信利の兄である真田熊の助が亡くなりました。(信利4才)
この時、信利はまだ幼かったため、1639(寛永16)年7月25日、沼田藩は叔父の信政が家督を継ぎました。
これより少し前、1639年(寛永16)年6月20日、信利に利根郡内の5000石が分与され、信利は母である慶寿院と共に小川村(群馬県みなかみ町(旧月夜野町))に住みました。

1657(明暦3)年8月、祖父信之の隠居にともない、叔父信政は松代藩主になりました。(叔父信政61才)
1657(明暦3)年9月、叔父に代わり信利が沼田藩3万石を継ぎ、5代藩主になりました。(信利23才)
(信利の藩主就任は1656(明暦3)年10月であるという説もあります。)

松代藩の家督争い

1658(明暦4)年2月5日、松代2代藩主である次男信政が亡くなりました。(真田信政62才)
松代藩を継いだ次男信政が病死したことにより、信政の子である右衛門佐(うもんのすけ、のちの幸道)と沼田藩主である信利の間で松代藩を巡る家督相続騒動が起こりました。

信政は生前に幕府幹部宛に遺書を出しており、そこには右衛門佐(幸道)に家督を譲ることが書かれていました。遺言書は信之に相談無く書かれたもので、信之は不愉快だったようですが、右衛門佐に家督を継がせるように動きました。

真田氏内部は右衛門佐派と信利派に分かれ、互いに幕府幹部への激しい工作合戦が繰り広げられました。

信利派の主なメンバーは、母松仙院の甥である老中・酒井忠清(厩橋15万石)、信利の妻の実家である山内忠豊(高知20万石)、親類の高力高長、信政の長男で分家として勘解由家を立ち上げていた真田信就などでした。
右衛門佐(幸道)派の主なメンバーは、祖父信之と信政が松代藩主になった時に松代へ移った家臣団でした。

右衛門佐(幸道)派の家臣達は、信利が家督を継いだ場合は切腹するという連判状まで用意しました。

右衛門佐(幸道)信利の間で起こった家督相続は、1658(万治元)年6月14日、幕府が松代3代藩主を信政の六男である右衛門佐(幸道)にする命令を出したことにより決着がつきました。

圧政に走る

10万石の松代藩の藩主になることができなかったことで松代藩に対する強烈なコンプレックスが生まれてしまったのか、信利は沼田藩の実情に合わない派手な出費を重ねていきました。
沼田城の改造や神社仏閣の建造、江戸の藩邸を新改築するなど派手な金遣いが目立ち、藩の財政は厳しい状況だったようです。

信利は自分の藩政に異議を唱える家臣達を更迭して、自分の思い通りに動く家臣を身近に置いていきました。
その中でも塚本舎人を重用したようで、この塚本を中心に普請奉行の麻田権兵衛、御金奉行の宮下七太夫が信利による圧政を支えていったと言われています。

1662(寛文2)年、信利は厳しい沼田藩の財政を領民への負担を大きくする事で解決することにしました。
それは実質3万石だった沼田藩の石高を14万4000石として扱う事により、領民に重税を課すというものでした。

両国橋事件が起こり信利が失脚し、沼田藩が改易される

1680(延宝8)年夏、長雨や暴風雨が関東地方へ襲いました。
これにより、沼田藩は水害や冷害になり作物は不作になり沼田城にも損害が出ました。そして、江戸でも藩邸に大きな損害が出ました。
この時、江戸の大川(隅田川)に掛かる両国橋にも損害が出たので、幕府(将軍は徳川綱吉)は橋奉行である船越為景と松平忠勝に両国橋の掛け替えを命じました。
工事入札で大和屋久右衛門がで8500両にて落札しました。

大和屋はある日、江戸の小石川にある沼田藩の藩邸を訪れた際、沼田藩普請奉行の麻田権兵衛に両国橋建造に使う幕府御用木の調達を持ちかけました。
信利から倒壊した藩邸の再建を命じられていましたが、資金難で頭を悩ましていた麻田にとって、大和屋から提示された契約金の3000両はのどから手が出る程欲しかったに違いありません。
沼田は山林が豊富だったので、御用木の調達は簡単だろうと思っていたのでしょう。
麻田は塚本を通じて信利から計画実行の許可を得ました。

沼田藩が大和屋から請け負った御用木は690本で、そのうち30本はケヤキでした。このケヤキは末口2尺7寸以上、長さ9間以上10間未満、納入期限は1681(延宝9)年8月20日でした。

沼田の領民が御用木の伐採に駆り出されましたが、日頃からの重税、さらに水害で疲弊していたところに重労働を課せられ、領民の不満はさらに高まっていきました。事前の調査を十分に行う余裕が無く、手探り状態で条件に合うケヤキの探索が行われました。山奥で容易に運び出せるところではなかったり、難航を極めました。

1681(天和元)年1月、信利は5年ぶりに国元である沼田で正月を迎えました。

信利は家臣を集め、御用木の調達を急ぐように命令しました。

1681(天和元)年1月、信利の悪政に耐えかねた2人の沼田領民が直訴状を持って江戸へ向かいました。
松井市兵衛は目付、杉木茂左衛門は将軍家に訴状を持って行きました。

5月、幕府の巡検使が沼田を訪れ、藩内を視察しましたが、江戸にいた幕府幹部が状況を心配していたのか、夜になって巡検使は江戸に急飛脚を向かわせました。

8月、御用木の納期になりましたが、ケヤキについては30本無ければならない所を8本しか間に合いませんでした。
幕府は、納期を10月に延期することを許しました。

10月、延期された納期を過ぎましたが8月の分を合わせて13本しか集まっていませんでした。

延べ168,673人、食糧5200俵、金8127両を掛けましたが、納期までに江戸に着いた御用木は6本で、納期を延期した10月になっても合計で13本でした。

御用木が調達できなければ両国橋の建造はできず、延期をしても調達のめどが立たなかった事を重く見た幕府は、大和屋久右衛門を投獄しました。
10月29日、幕府は麻田権兵衛を呼びつけ、御用木が調達できなかったことについて問いました。
10月30日、幕府は奉行である船越為景と松平忠勝に閉門を命じました。
11月1日、幕府は信利に謹慎を命じました。

1681(天和元)年11月22日、信利と信利の嫡子である信音が幕府評定所に呼び出されました。
老中である大久保加賀守忠朝が列席。
10ヵ条に渡り、厳しく問いただされました。

この評定で信利は釈明できず、信利は領地を没収、改易、配流されることが決まりました。
信利は出羽国の山形藩主である奥平小次郎昌章、信音は播磨国の赤穂藩主である浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)に身を預けられることになりました。
翌日23日には塚本舎人、麻田権兵衛、宮下七太夫が切腹しました。

こうして、信利の藩主生命24年の幕が閉じました。
同時に、1580(天正8)年5月に曾祖父昌幸が勝ち取った沼田城は、真田氏在城101年目にして真田氏の手から離れることになりました。

松井市兵衛は斬首、杉木茂左衛門は磔(はりつけ)の刑になりました。

沼田真田藩が取り潰しになった直後の1682(天和元)年1月、幕府によって沼田城が破壊されました。この時、関東に唯一存在していた5層の天守などが失われました。

沼田藩は幕府の直轄地(天領)になり、代官が派遣されるようになりました。
1684(天和3)3月、幕府による再検地が行われ、沼田領は64500石になり、領民への税金が低くなりました。

1685(貞享2)年6月22日、幕府による四方領知替えにより、奥平氏に山形から宇都宮への移封が命令され、それに伴い信利も宇都宮へ移りました。

1688(貞享5)年1月16日、宇都宮にて真田信利が亡くなりました。(信利享年54才)江戸神田の吉祥寺(現在は文京区)に葬られましたが、この墓石は現存していないと言われています。墓は龍華院弥勒寺に現存しています。

備考

大坂加番を務める。(年月日など不詳)

杉木茂左衛門は藩主の悪政から領民を救ったとして千日堂(群馬県みなかみ町)に祀られています。「磔茂左衛門(はりつけもざえもん)」と呼ばれました。

トップ真田氏データベース真田氏一族藩主系沼田藩真田信吉一家>真田信利
 
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