真田幸道
プロフィール
読み仮名
さなだ ゆきみち
生没
1657(明暦3)3月23日~1727(享保12)5月17日 享年71才
出生
松代2代藩主である真田信政の六男、母は松寿院(高橋氏の娘)
別名
右衛門、信房(1669(寛文9)年頃~1711(正徳元)年12月23日)
叙任
従四位下、伊豆守((寛文9)年1月25日受任)
法号
真常院殿全山一提大居士
正室:伊達宗利の娘、妙雲院(遠藤氏の娘)
子供
長男:源治郎(側室との子、早世)、養子:真田信就の七男(真田信弘)
 
備考
松代3代 1658(明暦4)年6月14日就任~1727(享保12)5月17日逝去 約70年間
沿革
生後すぐに家督争いが起こる

1657(明暦3)年2月22日、沼田藩主である真田信政の六男で末っ子として沼田藩江戸屋敷で生まれました。

1657(明暦3)年8月、父信政が沼田藩主から松代藩主になりました。(幸道1才)

松代藩主になった父信政でしたが、病気が悪化して死期が近づいていることを悟り、自分の六男である右衛門佐(うえもんのすけ、後の幸道)に家督を継がせることを遺言として残しました。この時、幸道の上の4人の兄は無くなっており、長兄である信就は母親である小野宗鑑尼(二代目小野お通)が真田氏に入るのを遠慮したため、分家に出て旗本になっていました。
1658(万治元)年2月5日、信政は松代藩主になってから約半年後(明暦の大火の直後)、病気で亡くなりました。(幸道2才、真田信政 享年62才)

信政の死を受けて、沼田藩主の信直が松代藩を継ぎたいと手を挙げました。
信直の父は祖父信之(信幸)の長男である真田信吉だったので、沼田藩(3万石)ではなく松代藩(10万石)の藩主になりたいという思惑があったようです。

松代藩、3代藩主を巡ってお家騒動

1658(明暦4)年2月5日、松代2代藩主である次男信政が亡くなりました。(真田信政62才)
松代藩を継いだ次男信政が病死したことにより、信政の子である右衛門佐(うもんのすけ、のちの幸道)と沼田藩主である信利の間で松代藩を巡る家督相続騒動が起こりました。

信政は生前に幕府幹部宛に遺書を出しており、そこには右衛門佐(幸道)に家督を譲ることが書かれていました。遺言書は信之に相談無く書かれたもので、信之は不愉快だったようですが、右衛門佐に家督を継がせるように動きました。

真田氏内部は右衛門佐派と信利派に分かれ、互いに幕府幹部への激しい工作合戦が繰り広げられました。

信利派の主なメンバーは、母松仙院の甥である老中・酒井忠清(厩橋15万石)、信利の妻の実家である山内忠豊(高知20万石)、親類の高力高長、信政の長男で分家として勘解由家を立ち上げていた真田信就などでした。
右衛門佐(幸道)派の主なメンバーは、祖父信之と信政が松代藩主になった時に松代へ移った家臣団でした。

右衛門佐(幸道)派の家臣達は、信利が家督を継いだ場合は切腹するという連判状まで用意しました。

右衛門佐(幸道)信利の間で起こった家督相続は、1658(明暦4)年6月14日、幕府が松代3代藩主を信政の六男である右衛門佐(幸道)にすると言う命令を出したことにより決着がつきました。

松代真田3代藩主

わずか2才で藩主になった幸道には祖父信之が後見役になっていましたが10月17日に亡くなったため、代わって姉の嫁ぎ先である磐城平藩主の内藤忠興(幸道にとって義兄の父親)が後見役になり、幕府から目付役が派遣されました。

1669(寛文9)年、幸道(この頃はまだ幸道ではない)は13才を迎えてから信房を名乗り始めました。
1674(延宝2)年、生まれてからこれまで過ごしていた江戸屋敷を出て初めて松代に入りました。(幸道18才)

1711(正徳元)年12月23日に名前を幸道に改名しました。
同年、地名も松城から松代に改名しました。

幸道が信之から相続した松代藩の蓄えは24万両~36万両(複数の説あり)もありましたが、真田氏の実力を恐れた幕府は数多くの仕事を松代藩に命じ、多額の出費を余儀なくされました。
幸道が藩主だった69年間に幕府から課せられた主な仕事一覧
 「1657(万治3)年、江戸城の普請手伝い」
 「1682(天和2)年、越後高田の検地」
 「1683(天和3)年、日光山普請手伝い」
 「1690(元禄3)年、高遠の検地」
 「1697(元禄10)年、信濃国絵図の調製」
 「1703(元禄16)年、善光寺再建普請」
 「1708(宝永5)年1月、地震災害復旧での東海道普請手伝い」
 「1711(正徳元)年、朝鮮使節饗応」
 「1725(享保10)年、松本城受け取り」

1707(宝永4)年、善光寺本堂が落成し8月13日に盛大な落慶法要が行われましたが、その約1ヵ月半後の10月4日に東海道を直撃した大きな地震が起こり、松代藩周辺でも被害がありました。

1717(享保2)年2月に湯本火事が起き、さらに4月には関口火事が起きて松代城と城下町の大半を焼失しました。
松代城の再建について幕府から1万両を借りなければならない状況にまで、松代藩の財政は悪化していきました。

1719(享保4)年と1721(享保6)年に千曲川で大洪水が発生して、松代藩は甚大な被害を負いました。

幕府から命じられた仕事や災害発生後の復旧工事で、幸道が藩主だった69年間で信之から受け継いだ遺産のほとんどを使い果たし、松代藩の財政は苦しい状態になりました。

長男である源治郎が幼くして亡くなり、実子で家督を継げる者がいなかったため、幸道は兄信就の七男を養子にして、松代藩の家督を継がせることにしました。

幸道は文武に長けており、柔術では渋川流、剣術では神道流の達人、そして学者や文化人を松代藩に招いたり、便所に書物を常備した程の読書家でした。ちなみに、信弘が幸道が残した蔵書を売ったところ、400両にもなったようです。

1727(享保12)5月17日、江戸藩邸にて幸道が亡くなりました。(幸道享年71才)
幸道は約70年という長い間、松代藩主の地位にいました。

江戸赤坂の盛徳寺(現在は神奈川県伊勢原市)で葬儀が行われました。
現在、幸道の霊屋は長野県長野市松代の長国寺の開山堂として残っています。

幸道が亡くなった後は、養子である信弘が4代藩主になっています。

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