真田信安
プロフィール
読み仮名
さなだ のぶやす
生没
1714(正徳4)年8月18日~1752(宝暦2)4月15日 享年39才
出生
真田信弘の四男。母は信弘の側室である冷台院。
別名
小次郎、豊之助
叙任
豊後守(1736(元文元)年12月16日)、伊豆守(1744(延享元)年6月18日)
法号
覚性院殿幽山一玄大居士
正室:松平利章の娘(匡章院)、側室:鈴木氏の娘(蓮光院)、江見琴浦の娘、毛登(伊藤氏の娘、慈眼院)
子供
長男:幸弘(毛登との子、松代6代藩主)、次男:不詳
長女:房姫(香雲院)、次女:珪樹院、三女:不詳、四女:不詳
子供は2男4女
盛徳寺
備考
松代5代 1737(元文2)年2月18日就任~1752(宝暦2)年4月15日逝去 約16年間
沿革
真田信安の沿革

信安は松代4代藩主である信弘の四男として生まれました。
信安には父信弘から家督を継ぐ予定だった兄の幸詮(ゆきあきら)がいましたが、父信弘が亡くなる直前にその兄が亡くなったため、1737(元文2)年に信安が松代藩を継ぎました。

信安が藩主に就任してから5年後の1742(寛保2)年秋に「寛保の大洪水」が発生しました。これはその年が戌年だったことから「戌の満水」とも呼ばれ、千曲川や千曲川の支流が長雨で増水し、緩んだ地盤が地滑りを起こして松代藩だけでも約1200人もの死者を出しました。松代藩内の182の村が被害に遭い 、田畑の冠水6万石、山崩れ980カ所、川に流されて死んだ馬64頭など出した大災害になりました。千曲川に面して立地していた松代城は床上約6尺まで浸水して、信安は山の中腹にある開善寺に船で避難するほどでした。
この災害の後、信安は洪水への対応策として、千曲川の流れを松代城下から離れた場所に移す工事を1744(延享元)年~1747(延享4)年にかけて行いました。

財政難を打開するために原八郎五郎を勝手係に登用しましたが、原が打ち出した「半知高割御借用」の政策が藩士達から猛反発を受けて、1750(寛永3)年に藩士が労働を拒否する事態が起こりました。この時代でのストライキは極めて希なことでした。

信安は原八郎五郎を更迭し、代わって播磨国赤穂藩の家老大野黒郎兵衛の息子である田村半右衛門を勝手掛に抜擢しました。しかし、田村に対しては元々突然やってきた"よそ者"が仕切り始めたと言う、田村に対すて反発する感情が領民にはあり、さらに賄賂によって特定の者を口利きしていたことも怒りを買いました。こうした状況で田村が打ち出した倹約政策と増税政策によって百姓一揆(田村騒動)が起こり、信安は田村を更迭しました。これを「田村騒動」と呼びます。

信安は病弱であり、先頭に立って表立って活動することは少なかったようです。
1752(宝暦2)年4月15日、亡くなりました。(真田信安 享年39才)
江戸赤坂の盛徳寺に葬られ、松代の長谷寺にも分骨されました。

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