真田幸貫
プロフィール
読み仮名
さなだ ゆきつら
生没
1791(寛政3)年9月2日~1852(嘉永5)年6月3日 享年62才
出生
松平定信(白河藩主)の二男。母は中井氏の娘(貞順院)。
別名
次郎、幸善(1815(文化12)年~1824(文政7)年2月11日)、遂翁(隠居後)
官位
従五位下、豊後守(1816(文化13)年12月)、伊豆守(1837(天保8)年5月6日)、信濃守
移籍
白河松平氏(松平定信)から松代真田氏(真田幸専)の養子(1815(文化12)年7月)
法号
感応院殿至貫一誠大居士
正室:雅姫(父:井上正甫、祖父:6代幸弘、養父:7代幸専、真月院)
側室:喜瀬(佐野氏の娘、慎操院)、寿嘉(清操院)
子供
長男:真田幸良、養子:幸教(幸良の長男)
長国寺(長野県長野市松代町)
都立青山霊園(東京都港区南青山2-32-2)
備考

松代8代 1823(文政6)年8月20日就任~1852(嘉永5)年5月6日隠居 約30年間

幸貫は徳川氏の男系です。曾祖父は「享保の改革」で有名な8代将軍徳川吉宗。祖父は御三卿田安家初代の田安宗武。父は「寛政の改革」で有名な松平定信。
下級藩士だった佐久間象山を登用しました。
幸貫の正室である雅姫(真月院)は、6代真田幸弘の次女の峯姫(心蓮院)の娘、つまり6代真田幸弘の孫です。

沿革
1.松平定信の子として生まれ、真田氏の養子になる

1791(寛政3)年6月8日、幸貫は幕府で大老として寛政の改革を押し進めた松平定信の二男として、江戸の白河藩邸で生まれました。

幸貫は松代藩の嫡子としてに真田幸専の養子になることになりました。そこで幸貫は、藩内の様子を把握するために、事前に旅人を装って藩内を視察しました。この時、松代東条村の民家に宿泊しました。

1815(文化12)年、幸貫は幸専の養子になり、真田幸善を名乗り、従五位下、豊後守に任ぜられました。(幸貫26才)

1816(文化13)年、幸専の養女である雅姫と結婚しました。

1823(文政6)年、義父幸専が隠居したため、8代藩主になり、伊豆守に任ぜられました。(幸貫33才)
藩主としての初仕事は、武具庫を検査し、武具奉行を創設して武具を整頓したことだったようです。

1824(文政7)年2月11日、それまで幸善だった名前を幸貫に改名しました。

1825(文政8)年、刑法の規定を定めた「御仕置御規定」を制定しました。

1829(文政12)年5月13日、実父である松平定信が亡くなりました。(松平定信 享年71才、幸貫39才)

1837(天保8)年、幸貫は信濃守に任ぜられました。

1841(天保12)年、幸貫は幕府の侍従、御用掛に任ぜられ、江戸城大手御門番を何度か務めました。

2.老中になり、水野氏による「天保の改革」を支える

将軍徳川家慶は享保や寛政の改革を手本にした改革の推進を示したため、老中である水野忠邦(みずの ただくに)は綱紀粛正と経費節減を打ち出しました。これを「天保の改革」と呼びます。
天保の改革を始めようとした時の老中は、水野を筆頭に、堀田正睦(ほった まさよし)、土井利位(どい としつら)、太田資始(おおた すけもと)の4人でしたが、太田はこの水野改革に批判的だったため老中を辞めました。
この太田氏に変わって老中になったのが幸貫でした。

1841(天保12)年、幸貫は水戸藩主である徳川斉昭の推挙によって、外様大名としては異例の老中になりました。(幸貫51才)これは幸貫が改革に積極的であり、なおかつ水野氏の改革に肯定的であったからです。さらに、曾祖父が「享保の改革」を進めた8代将軍吉宗、さらに実父は「寛政の改革」を進めた松平定信だったことも影響していたのでしょう。

徳川斉昭と幸貫は関係が深く、1840(天保11)年12月18日、斉昭は幸貫のほか、松浦静山(まつら せいざん)、大関増業(おおぜき ますなり)を自宅に招き、「天下の三畏友」と称して厚くもてなしました。この事は斉昭にとって、幸貫は志を同じくする大切な人物だったことを物語っており、斉昭はこの時の様子を内藤業昌に描かせています。 この画は「三勇像」と呼ばれています。

1841(天保12)年6月13日、幸貫は海防掛、御用掛に任ぜられました。それまで幕府が出していた異国船打ち払い令(無二念打払令)を改正して、異国船へ燃料や飲料水を補給できるようにしたり、諸大名に大砲の製造を命じたり、蝦夷地へ砲台を設置するなど新しい政策を打ち出していきました。
この頃、広大な中国大国を支配していた隣国の清がアヘン戦争でイギリスに負けていました。日本だけの軍事力では外国からの侵略に対抗できないという判断があったためであると思われます。幸貫は佐久間象山に助言を求めていましたが、同じ海防掛である土井利位にも高見泉石という学者がいました。象山と泉石は、ともに日本の開明的な進歩を進めていった学者で、最先端の知識を有していた数少ない人物した。

「天保の改革」は庶民のみならず大名や旗本からも理解を得られず、1843(天保14)年9月、水野忠邦が失脚して改革は失敗に終わりました。 幸貫を支援していた徳川斉昭が1844(弘化元)年5月に謹慎が命じられ、幸貫も斉昭と共に処分を受け老中を辞職しました。

3.大胆な藩政改革を行う

老中辞職後は幕府から帝鑑間の伺候席を与えられ、形式上は真田氏は譜代と同等になりました。

幸貫は松代藩内に倹約令を出すとともに、自らも木綿の衣服を着たりするなど質素倹約に務めました。
幸貫による改革は財政にとどまらず、法制の整備、職制を改正して人材を適材適所に配置したり、村名主の公選を行ったり、産業の振興、軍備の改革、さらには学問褒賞制度を設けたり、藩の歴史を編纂したり、文武学校の創設を計画するなど、文学や武芸の振興にも尽力しました。
軍備は大砲200門、小銃300丁を備えてました。
領民の声に耳を傾けるため城下に目安箱を設置したり、穀物を倉庫で計画的に蓄えて凶作に備えたり、家臣や領民の様子について隠密目付を使って探らせるなど、実父松平定信や曾祖父徳川吉宗の手法も用いたりしながら、大規模な藩政改革を行いました。

文武の知識豊かな藩主のもとで、佐久間象山・村上英俊・片井京介・三村晴山・山寺常山・長谷川昭道など多くの有能な人材が輩出されました。

幸貫が藩主になった頃から、徐々に藩内は恩田党と真田党という2つの派閥の対立が目立つようになっていました。
恩田党は河原舎人・佐久間象山・山寺常山など改革的な考え方の人々が多く、真田党は真田志摩・長谷川深美・鎌原伊野右衛門など保守的な人々の集まっていました。

1847(弘化4)年に起こった善光寺地震により、北信濃は壊滅的な状況になりました。これは苦しい松代藩の財政に追い打ちを掛ける形になりました。この頃、権力を握っていた恩田党により多額の復興歳費が支出されため、松代藩の財政は破綻同然の状況になり、最悪な状況下で恩田党と真田党の争いが激しくなりました。
1851(嘉永4)年、幸貫は恩田党を更迭し、真田党を重職に命じました。

松代藩の家督を継ぐはずだった長男幸良が早世したため、家督継ぐ後継者としての養子を何度か迎えました。しかし、その子らも早世してしまい、幸貫は長男幸良の長男、つまり孫である幸教を自分の養子にして後継者に指名しました。
幸教は、公には松平定信の末子ということになっていました。

隠居した後、1852(嘉永5)年6月8日、幸貫が亡くなりました。(真田幸貫 享年62才)
幸貫は、信之が祀られている白鳥神社に合祀されることを生前望んでいましたが、実現しませんでした。

松代の長国寺に葬られました。
東京の青山墓地にも墓があります。

真田幸貫は幕末における藩政改革の代表として、その名を今に伝えています。

父は寛政の改革の松平定信

1825(文政8)年5月、幸貫が初めて参勤交代で江戸を訪れる際には、幸貫と事前に手紙でやり取りをし、自らの使者に江戸に着いた幸貫を出迎えさせるなどしました。
定信は幸貫が江戸藩邸にいる間はほぼ毎日手紙のやり取りをしていました。

定信は、鎌原・恩田・池田要人佐久間一学など、後に幸貫のブレーン的な存在になる人々と手紙のやり取りをしていました。
佐久間一学は佐久間象山の父親であり、定信からの間接的な影響で佐久間象山が頭角を現してきた可能性も否定できません。

幸貫の藩政改革が定信の改革と似ていたのは、定信からのアドバイスがあり、定信が亡くなった後も、幸貫は定信の改革手法を見本にしてしたからでしょう。

関係人物

松浦静山(まつら せいざん)
生没:1760(宝暦10)年1月20日~
   1841(天保12)年6月29日 享年82才
別名:清
備考:明治天皇の曾祖父。
1775(安永4)年、松浦清として平戸9代藩主になりました。(静山16歳)
1806(文化3)年、三男である松浦熈(まつら ひろし)に家督を譲り隠居し、隠居後は静山(せいざん)という名前を名乗りました。(静山47才)
静山は、33人の子供がいました。
そのうち、十一女である愛子が大納言中山忠能(なかやま ただやす)と結婚し、その間にうまれた慶子(よしこ)がうまれました。
慶子は孝明天皇と結婚し、明治天皇を産みました。
幸貫が徳川斉昭邸で会った時は静山が81才の時でした。

大関増業(おおぜき ますなり)
生没:1781(天明元)年6月9日~1845(弘化2)年3月19日 享年65才
別名:加藤泰周
備考:下野国黒羽藩11代藩主
黒羽藩は18000石の小班で、財政藩端寸前でした。
藩主になってからは大胆な藩政改革を進め、換金性が高い農産物の栽培、那珂川の水運整備や治水工事などを行いましたが、保守派の抵抗に遭い、1824(文政7)年に10代藩主大関増陽の次男である大関増儀に家督を譲って隠居しました。
以後、黒羽藩は再び財政が悪化しました。

太田資始(おおた すけもと)
生没:1799(寛政11)年~1867(慶応3)年5月18日 享年69才
1834年、老中になりましたが老中首座の水野忠邦と意見の対立が目立ち、1841(天保12)年6月、老中を辞職し、同年隠居しました。
1858(安政5)年、老中に再任されました。

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