真田幸民
プロフィール
読み仮名
さなだ ゆきとも
生没
1850(嘉永3)年4月17日~1903(明治36)年9月6日 享年54才
出生
伊予宇和島藩主である伊達宗城の二男。母は不詳。
別名
保麿
叙任
従二位、信濃守((慶応2)年3月9日)、伯爵
移籍
宇和島伊達氏(伊達宗城)から松代真田氏(真田幸教)へ養子
法号
泰寛院殿義烈一貫大居士
正室:利宇(大村純熈の二女)
側室:宏子(伊東祐歸の妹)、輯子(島津忠済の養妹)
子供
長男:真田幸正
都立青山霊園(東京都港区南青山2-32-2)、長国寺(長野県長野市松代町)
備考
松代10代 1866(慶応2)年3月9日就任~1869(明治2)年6月24日松代藩知事に就任
松代藩知事 1869(明治2)年6月24日~1871(明治4)年11月松代県解体につき解任
沿革
真田幸民の沿革

1850(嘉永3)年4月17日、幸民は伊予宇和島藩主である伊達宗城の次男として生まれました。
幸民の実父である伊達宗城は幕末における開明派藩主として知られ、一橋慶喜(徳川慶喜)、松平慶永、松平容保、山内豊信、島津久光らとともに朝議参与に名を連ねていた幕末における幕府の実力者でした。明治初期に一時活躍した人物です。

真田幸教の養子になった幸民は、幸教の隠居により1866(慶応2)年3月9日、松代10代藩主になりました。(幸民17才)
藩主着任の翌日には幕府から京都の警備を命じられ上洛し、9月に任務を終えて松代へ戻りました。

1868(明治元)年に起きた戊辰戦争では新政府軍に加わりました。この頃すでに、「奥羽越列藩同盟」などを除いて、ほとんどの大名は新政府側になっていたので、もともと外様大名だった真田氏は新政府軍に加わるのが自然だったと言われています。
松代藩は最新の洋式装備化が比較的進んでいたため、最前線で活躍しました。
3月、甲府城に746人を出陣させて守らせました。
4月、飯山藩の要請で、松代藩は越後から攻めてきた旧幕府軍を撃退しました。
1700人の部隊で越後の長岡を攻め、さらに奥羽へ攻め込んで会津若松城攻めに参戦しました。この戦闘での戦死者は52名、負傷者は85(83とも)名で、戦死者は妻女山にある招魂社に祀られました。
1869(明治2)年6月、戊辰戦争に勝利した新政府軍は、その功労として幸民に3万石を与えました。

1869(明治2)年、明治政府は各大名に版籍奉還を命じるとともに、従来の藩主を藩知事に任命し、江戸幕府による治世を地方においても終わらせ、明治政府による地方行政が始まりました。幸民も版籍を奉還し、新政府から松代藩知事に任命されました。

戊辰戦争への参戦により、松代藩の財政が悪化していた松代藩は財政再建のため、1869(明治2)年6月、「商法社」という会社を設立し、生糸・蚕種の生産と販売、午札(紙幣)の発行を始めました。
1870(明治3)年末頃、設立から2年も経たないうちに商法社は経営に行き詰まり、午札の相場が暴落しました。これによって松代藩は増税をしたため、怒った民衆が決起して「松代騒動(午札騒動)」が起こりました。この時、幸民も政府から責任を問われて謹慎処分になりました。

1871(明治4)年7月、廃藩置県が行われて松代藩は松代県になりました。
同年11月、飯山・須坂・長野(旧天領中野)・松代・上田・小諸・岩村田の各県が統合されて長野県になり、松代県は解体され幸民は解任されました。
この時点で、真田信之から続いた真田氏による松代支配は終わり、松代はこの地域の政治の中心では無くなりました。

1872(明治5)年1月、上田城に置かれた東京鎮台第2分営から乃木希典少佐が、廃城になった松代城と武器を受け取りに松代に入りました。その時、乃木少佐は「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合すると言えども松代藩の足元にも及ぶことが出来ぬ」と言ったとされています。

幸民は1884(明治17)年に子爵、1891(明治24)年に伯爵を授けられました。

1903(明治36)年9月8日、幸民が亡くなりました。(真田幸民 享年54才)

以後の家系…幸民-幸正-幸治-幸長-幸俊

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