恩田杢民親
プロフィール
読み仮名
おんだ もく たみちか
生没
1717(享保2)年~1762(宝暦12)年1月6日 享年46才
出生
恩田民清の長男。
別名
佐吉、恩田杢(恩田木工)、恩田民親
移籍
不詳
不詳
子供
不詳
長国寺
備考
松代藩家老
宝暦の改革は真田幸弘の時、恩田によって行われました。
沿革
恩田民親の沿革

1735(享保20)年、恩田氏の家督を相続しました。

1746(延享3)年、家老に命じられました。

財政難に苦しんでいた松代藩を立て直す為に1757(宝暦7)年、幸弘は恩田杢民親に勝手方を命じました。
勝手方は藩主が藩内では藩主に次ぐ地位でした。
恩田杢による藩政改革を「松代藩宝暦の改革」とも言います。

恩田杢は自らの政策を知ってもらう為に、藩内の全町村の役人を集めて説明会を開きました。
 賄賂の禁止
 足軽を村々に派遣しての年貢催促の中止
 翌年分や翌々年分の年貢の徴収を中止
 延滞されている年貢を免除するかわりに、今後の年貢の延滞は許さない
 年貢を月割りで徴収する

年貢を月割りで徴収するには村々に駐在している役人の役割が大きくなるため、説明会を開いたようです。

恩田杢が進めた月割上納制度とは・・・。まず、秋の収穫後に上納すべき年貢を金銭での総額を算出し、それを12等分します。3月または4月から徴収を始め、8月以降は2ヵ月分ずつとし、10月に精算をします。
実は、月割上納制度については、先代の藩主である信安の時代に原八郎五郎によって、すでに行われていたと言う説もあり、これが真実という事になれば恩田杢による宝暦の改革は後世になって誇張されてしまったのかも知れません。

藩政改革を推し進めるために恩田は領民と藩士に倹約令を出す一方、領民と対話をしながら改革を進めるスタイルをとりました。

1757(宝暦7)年と1765(明和2)年には大洪水が起こりました。

幸弘は1758(宝暦8)年に初めて藩校「文学館」を設立し、江戸から儒学者である菊池南陽を招いて講義を開くなどしました。

1760(宝暦10)年、幸弘が松平越中守定賢の娘と結婚しました。

1762(宝暦12)年1月6日、恩田杢民親が亡くなりました。(民親享年46才)
月割り金納制度を推進するなど恩田杢は熱心に改革に取り組んだものの、十分な成果を上げることは出来ませんでしたが、恩田杢の後を望月治部左右衛門、成沢勘左右衛門、禰津要左衛門らが改革を引き継いでいきました。

恩田杢による宝暦の改革の内容は「日暮硯」(静嘉堂文庫蔵)という文献に頼らざるを得ませんが、研究者の間では誇張されている部分が多いと評価されているため、そこから真実を探ることも試みられています。ただ、恩田杢が誠実な態度で改革に取り組んでいる姿を、藩主や他の家臣達の多くが注目し、反対グループによる激しい抵抗などの混乱がなかったことが、当時の松代の人々が恩田杢を信頼していた証かも知れません。

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