真田氏合戦遍歴

真田氏の合戦においての遍歴について掲載しています。
真田氏は戦国時代において、武田・北条・上杉など戦国時代を代表する武力と統治能力を備えた大勢力に挟まれていたため、無数の戦闘を繰り広げてきました。ここでは、真田氏が関連した戦いで、現在までその様子が伝わっているものをご紹介します。
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真田氏が関連した合戦について
真田氏の合戦遍歴の概要
真田氏合戦一覧
海野氏一族とともに真田氏が逃亡
武田氏配下時代
織田氏衰退から豊臣氏による天下統一の時代
徳川氏による支配が強化され、徳川幕府が開かれた時代
徳川幕府衰退の時代
 
 
真田氏が関連した合戦について
真田氏の合戦遍歴の概要
今に伝わる真田氏による合戦は、大きく分けると武田氏は以下の時代と豊臣・徳川対立の時代の2つに分かれると思います。
真田氏は武田氏の配下として存分に活躍し、徳川氏と豊臣氏の対立でも大きな存在感を放っていました。
 
真田氏合戦遍歴一覧
海野氏一族とともに真田氏が逃亡
名称
開戦時期・期間
概要
参戦・関連した真田氏
海野平合戦
うんのだいらがっせん
1541(天文10)年
5月
武田諏訪村上の連合軍により、真田氏が属していた海野一族は滅ぼされ、親戚筋が居る上野国へ逃亡、長野業正を頼る。 真田氏(幸隆)ほか、海野一族
武田氏配下時代
名称
開戦時期・期間
概要
参戦・関連した真田氏
上田原合戦
うえだはらがっせん
1548(天文17)
2月14日
武田氏が村上氏を攻め、武田氏が大損害を出した戦い。
武田信玄(晴信)の重臣である板垣信方が戦死。
幸隆
砥石崩れ
といしくずれ
1550(天文19)年
9月
~同年
10月1日
武田氏が村上氏の砥石城を攻め、武田氏が大損害を出した戦い。 幸隆
武田氏による村上氏討伐 1553(天文22)年
4月
~同年8月
武田氏が中信濃から村上氏を攻め落とし、一時的に村上義清は上杉氏へ逃亡。その後、第一次川中島合戦により村上氏は上田小県領を奪還するも、再び武田氏に敗れた。  
第一次川中島合戦
かわなかじまがっせん

1553(天文22)年
4月22日

 

武田氏と上杉の戦い。 幸隆
第二次川中島合戦 1555(天文24)年    
第三次川中島合戦 1557(弘治3)年    
第四次川中島合戦 1561(永禄4)年 最も大規模で、双方多大な犠牲者が出た戦い。
川中島合戦を語る場合、この第四次のみことを指す場合がある。
幸隆、信綱
第五次川中島合戦 1564(永禄7)年    
三増峠の戦い
みませとうげのたたかい
1569年(永禄12)年 武田信玄が関東進出を狙い、信濃国から上野国経由、南下し、北条氏の本拠地である小田原を攻撃したが、陥落できず撤退。
武田方が甲斐国へ撤退する経路にある三増峠で北条氏の部隊が待ち伏せいしていたため、戦になった。
 
三方ヶ原合戦
みかたがはらがっせん
1572(元亀3)年
12月
武田氏が徳川氏を窮地に追い込んだ合戦。
武田信玄は室町幕府である足利氏に大軍で京に向かって攻め上るように要請され、手始めに徳川氏を攻めた。
 
長篠合戦
ながしのがっせん
1575(天正3)年
5月21日
織田氏が徳川氏と組んで、武田氏を破った合戦。
武田信玄が亡くなり、後を継いだ武田勝頼の影響力は弱く、武田氏の組織は弱体化。 この合戦に負けた事で、武田氏は滅亡間近になる。
信綱、昌輝
御館の乱
おたてのらん

1578(天正6)年
3月

上杉氏内部の争乱。
上杉謙信が亡くなり、後継者を巡って謙信の姉の子で養子になった景勝と北条氏から養子に招いた景虎の間で起きた相続争い。
この時、上杉氏は北条氏と武田氏の介入を招き、謙信死後の上杉氏の勢力は弱まった。

 
織田氏による武田氏討伐 1582(天正10)年
1月
~同年
3月
木曽氏の武田氏への裏切りに端を発した織田氏による武田氏討伐の合戦。
武田氏滅亡。
昌幸
織田氏衰退から豊臣氏による天下統一の時代
名称
開戦時期・期間
概要
参戦・関連した真田氏
天正壬午の乱
てんしょうじんごのらん
1582(天正10)年 信長配下の滝川氏が信濃・上野方面を治めていたが、信長が本能寺の変で戦死した後、北条氏によって滝川氏は追い出された。これにより、徳川・北条・上杉各氏による信濃諸将の取り込み合戦、国境線の争奪戦になっていった。 昌幸
第一次上田合戦
だいちじうえだがっせん
1585(天正13)年
8月
~同年
11月

徳川氏による真田氏討伐の合戦。
北条氏への沼田領譲渡を拒否した真田昌幸を討伐する為に徳川家康が鳥居彦左衛門や大久保忠世らを上田に出兵させたが、石川数正の出奔により徳川方は撤退。
この間に北条氏により沼田城が攻められたが、陥落せず。

真田方:昌幸、信幸、信繁(幸村)
北条討伐(小田原討伐) 1590(天正18)年
2月
~同年
7月
真田氏は前田氏・上杉氏と連合軍を組織し、北から北条氏邦の担当地区を攻める。 豊臣方:昌幸、信幸、信繁(幸村)
文禄の役
ぶんろくのえき

1592(文禄元)年
~1593(文禄2)年

豊臣秀吉による朝鮮出兵。
豊臣秀吉は名護屋城を拠点して、朝鮮半島に侵攻。
朝鮮半島にて、李氏朝鮮や朝鮮半島への日本進出を阻止したい明が日本軍の侵攻に対して抵抗。
朝鮮半島の一部を日本軍が占領した状態で、休戦。

日本軍:昌幸、信幸、信繁(幸村)
慶長の役
けいちょうのえき
1597(慶長2)年
~1598(慶長3)年
豊臣秀吉が明との休戦を破棄して、侵攻を再開した戦い。
豊臣秀吉の逝去により朝鮮半島から撤退。
日本軍:昌幸、信幸、信繁(幸村)
徳川氏による支配が強化され、徳川幕府が開かれた時代
名称
開戦時期・期間
概要
参戦・関連した真田氏
会津征伐
あいづせいばつ
1600(慶長5)年
6月
豊臣五大老の筆頭として豊臣氏をコントロールし始めた徳川氏に抵抗した上杉を討伐するために徳川氏が、豊臣恩顧の大名を多数引き連れて出陣した。
家康はこの行動で東に向かうことで、石田三成が大坂城で挙兵することを見抜いていたとされている。
一般的に会津討伐は関ヶ原合戦への序章だとされている。
徳川方:昌幸、信之、信繁(幸村)

第二次上田合戦
だいにじうえだがっせん

1600(慶長5)年
9月
関ヶ原合戦に伴う戦。
徳川秀忠は石田三成との決戦が行われるであろう西へ向かう途中、信濃国で唯一西軍に加わった真田昌幸・信繁(幸村)父子を討伐すべく、上田城などを攻めたが結局攻略は諦めた。
秀忠は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
西軍:昌幸、信繁(幸村)
東軍:信幸
大坂冬の陣
おおさかふゆのじん
1614(慶長19)年 方広寺の鐘に刻まれた文章に徳川方が因縁を付けて始まったと言われている戦い。
大坂の陣の開始前に真田信繁(真田幸村)によって大坂城の弱点部分に出丸が築かれ、開戦後に豊臣方にとって大きな戦果をもたらした。これを真田丸の戦いという。
和睦によって終結。
豊臣方:信繁(幸村)
徳川方:信之、信吉、信政、信尹
大坂夏の陣
おおさかなつのじん
1615(慶長20)年 冬の陣での和睦の時には、豊臣方に国替えの要求はしないとしていたことを取り消し、徳川方は豊臣方に大坂城から出るように要求。
豊臣方はこれに反発し、この戦いが始まった。
豊臣方の幹部が自害し終結。豊臣氏滅亡。
豊臣方:信繁(幸村)
徳川方:信之、信吉、信政、信尹
徳川幕府衰退の時代
名称
開戦時期・期間
概要
参戦・関連した真田氏
戊辰戦争
ぼしんせんそう
1868(明治元)年 真田幸民は新政府軍として参戦。 新政府軍:幸民
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