真田氏年表【安土桃山時代】

真田氏に関しての総合的な年表を掲載しています。真田氏を中心に、真田氏に影響を及ぼした大名達の行動も並記しています。
足利氏が信長によって京から追放された翌年から、徳川氏が幕府の地位を賜る前年までを安土桃山時代という。
凡例: …真田氏の出来事、…真田氏に関連した有力者の出来事、 …真田氏には直接関係ない出来事
月日
出来事
真田氏年齢
関連大名年齢
1574
天正2
5月19日
真田幸隆が上野吾妻の地にて病死
(真田幸隆 享年62才)
幸隆62才没
信綱38才
昌輝32才
昌幸28才
信尹28才
信之 9才
信繁 8才
上杉謙信45才
織田信長41才
豊臣秀吉38才
北条氏政37才
徳川家康33才
武田勝頼29才
北条氏直13才
11月
信綱、四阿山(白山権現)別当職が安堵される
 
1575
天正3
 
この頃、武田家と北条家の関係が再び悪化し両氏は断交
 
信綱39才没
昌輝33才没
昌幸29才
信尹29才
信之10才
信繁 9才
上杉謙信46才
織田信長42才
豊臣秀吉39才
北条氏政38才
徳川家康34才
武田勝頼30才
北条氏直14才
 
「長篠合戦」
武田勝頼、織田・徳川連合軍に大敗。
この戦いで真田信綱と真田昌輝が戦死。
(真田信綱 享年39才、真田昌輝 享年33才)
5月21日
昌幸が真田の家督を相続
兄2人長篠合戦でが戦死したため、幸隆の三男である武藤喜兵衛が真田家を継いだ。(昌幸29才)
真田氏の家督を継いだ武藤喜兵衛は、真田昌幸に改名。
1576
天正4
1月
武田勝頼は岩櫃城の城代に海野幸光・輝幸を任命
勝頼は吾妻郡の拠点である岩櫃城の城代に海野幸光・輝幸を任命する。この頃、昌幸は吾妻郡の統括を担当していた。
昌幸30才
信尹30才
信之11才
信繁10才
上杉謙信47才
織田信長43才
豊臣秀吉40才
北条氏政39才
徳川家康35才
武田勝頼31才
北条氏直15才
9月
北条氏が上野国への侵攻侵攻を着々と進める
この頃、昌幸は北条氏が上野国を着々と侵攻していることを報告した。
昌幸からの報告を受けて勝頼は北条氏政を警戒し、昌幸に北上野の防備強化を命じています。
1577
天正5
8月
勝頼は昌幸に対し、織田信長の行動が活発であることを伝える
 
昌幸31才
信尹31才
信之12才
信繁11才
上杉謙信48才
織田信長44才
豊臣秀吉41才
北条氏政40才
徳川家康36才
武田勝頼32才
北条氏直16才
1578
天正6
2月13日
上杉謙信が越後にある春日山城で病死
(上杉謙信 享年49才) 

昌幸32才
信尹32才
信之13才
信繁12才

上杉謙信49才没
織田信長45才
豊臣秀吉42才
北条氏政41才
徳川家康37才
武田勝頼33才
北条氏直17才
3月
「御館の乱」
謙信には実子はなく、景勝と景虎という2人の養子がいたため、2人の間で相続争いが起こる。(御館の乱)
1579
天正7
7月
景虎が自害し御館の乱が決着、景勝が上杉の家督を相続
上杉景勝と上杉景虎の間で起こった上杉家の相続争いは景虎が自殺したことで決着し、景勝が上杉家を継ぐことになった。
武田勝頼は景勝を応援した。
昌幸33才
信尹33才
信之14才
信繁13才
織田信長46才
豊臣秀吉43才
北条氏政42才
徳川家康38才
武田勝頼34才
北条氏直18才
 
北条氏が上杉内乱に乗じて、上野国での領土拡大
北条氏が上杉氏内部の混乱に乗じて、上杉領であった利根郡のほぼ全域を手中にし、沼田城を攻略。
 
武田勝頼と上杉景勝は盟約を結ぶ
吾妻郡を領する昌幸にとっては朗報。
 
勝頼の妹が景勝へ嫁ぐ
武田勝頼は妹である菊姫を上杉景勝と結婚させた。
9月
北条氏政と徳川家康が同盟を結ぶ
織田徳川連合と北条氏が手を結んだことで、武田氏は東西からの脅威にさらされることになった。
1580
天正8
3月9日
昌幸が改めて高野山蓮華定院を真田郷住民の宿坊と定める
昌幸は以前から真田郷(小県郡)住民の宿坊であった高野山蓮華定院を改めて真田郷住民の宿坊と定める。
昌幸34才
信尹34才
信之15才
信繁14才
織田信長47才
豊臣秀吉44才
北条氏政43才
徳川家康39才
武田勝頼35才
北条氏直19才
5月
真田氏が沼田城を攻略
真田昌幸の配下である矢沢頼綱が上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略。
1580(天正8)年~1590(天正18)年については、昌幸の伯父である矢沢頼綱が城代を努めていたと考えられる
1581
天正9
2月
武田勝頼が新府城の築城を開始
昌幸が普請奉行を務める。
昌幸35才
信尹35才
信之16才
信繁15才
織田信長48才
豊臣秀吉45才
北条氏政44才
徳川家康40才
武田勝頼36才
北条氏直20才
2月
沼田の旧領主が沼田奪還を決行したが、失敗
沼田の旧領主の血を引く沼田平八郎景義が、沼田奪還のため進撃したが、昌幸が景義の叔父を使って景勝を謀殺。
9月
新府城がほぼ完成
築城のスピードの早さは武田氏の立場の苦しさを表してる。
11月
海野兄弟に謀反の疑いがあり、昌幸が討伐
真田氏の監督下で岩櫃城主を務めていた海野幸光と、沼田城主の海野輝幸は、謀反の疑いで昌幸に討伐される。
12月24日
武田氏、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府城に移動
勝頼は武田氏が63年間にわたって本拠地にしていた躑躅ヶ崎館から新府城に本拠地を移した。
1582
天正10
1月
武田方の木曽氏が織田方に寝返り、勝頼は挙兵
武田家の配下にあった木曽義昌が織田氏に寝返る。この動きが武田氏内部に広がることを恐れた勝頼は挙兵する。
昌幸36才
信尹36才
信之17才
信繁16才
織田信長49才没
豊臣秀吉46才
北条氏政45才
徳川家康41才
武田勝頼37才没
北条氏直21才
2月
織田氏の信濃侵攻で、武田氏は織田氏への寝返りが続出
木曽義昌を討つために武田勝頼は、諏訪上原城に陣を進める。
これを知った義昌は織田信長に支援を要請。
信濃に侵攻した織田信忠らの軍勢は、武田方の下条信氏と小笠原信嶺を駆逐し、伊那谷を怒濤の勢いで北上。
これにより武田氏を裏切る者が続出。
勝頼の従兄にあたる穴山信君(梅雪)が徳川方に服属したことに衝撃を受けた勝頼は諏訪から新府城へ引き上げた。
この時、昌幸は勝頼を岩櫃城に迎え入れる準備をしていたが、小山田氏や長坂氏の進言で叶わず。
3月
織田方信濃侵攻の知らせで昌幸も挙兵
岩櫃城にいた昌幸は沼田城主の矢沢頼綱に兵を召集される。
3月2日
織田信忠は高遠城を攻略
織田信忠は勝頼の弟である仁科盛信を破り、高遠城を攻略
3月3日
織田信忠、諏訪大社の上社を焼き、高島城を攻略
織田信忠は諏訪に入り、諏訪大社の上社を焼き、高島城を攻略
武田氏、会議にて新府城から出ることを選択
勝頼は会議で、小山田氏の意見に従い新府城から出て、城に火を放つち、小山田信茂の居城である岩殿城へ向かう。
昌幸は岩櫃上へ勝頼を迎えることを進言したが実現せず、妻子を連れて岩櫃城へ向かう。
3月7日
織田信忠が甲府まで侵攻
勝頼は完全に窮地に立たされる。
3月11日
「天目山の戦い」武田勝頼自害、武田氏が滅亡
結局、小山田氏や長坂氏は勝頼を裏切り、武田勝頼とその嫡子である信勝は天目山にて自害。
(武田勝頼 享年37才)
武田家が滅亡。
武田氏の領地を織田軍が占領、昌幸は信長の配下に入る。
3月12日
昌幸、北条氏から勧誘される
昌幸は武蔵国にある鉢形城の城主である北条氏邦から、北条氏直への服属を勧められる。
3月13日
信長、飯田で勝頼の首実検を行う
信長は飯田で勝頼の首実検を行いました。
3月15日
昌幸ら小県郡の諸将は織田氏の家臣になる
真田、矢沢、祢津、室賀の各氏など武田氏の家臣は織田信忠へ服従を申し入れる。
3月20日
信長、諏訪で徳川家康と領地の分配などを話し合う
信長は諏訪で家康らと会い、領地の配分などについて話し合いました。
信濃の多くの武将が信長の家臣になる
信濃の多くの武将が、鷲峰山法華寺についた信長と面会し、服従を申し入れる。
4月
昌幸、信長に馬を上納する
昌幸は織田信長の配下に入り、織田信長に馬を上納することで織田氏への服属を重ねて表した。
 
沼田城は滝川一益に明け渡す
武田氏滅亡後、沼田城は織田信長の重臣である滝川一益に明け渡していたが、本能寺の変直後に奪還している。
6月2日
「本能寺の変」
織田信長は本能寺にて明智光秀の謀反により自害。
(織田信長 享年49才)
信長の嫡子である信忠も二条城にて戦死。
6月6日
秀吉、光秀を討つために備中高松を出発。
信長の急逝を知った秀吉は、毛利方にばれない様に和睦に持ち込み、光秀を討つために畿内方面へ向かった。
6月13日
「山崎の戦い」
羽柴秀吉が山崎にて明智光秀を討伐。
 
「天正壬午の乱」
信長が本能寺で戦死したことを受けて、信濃はいわば「草刈り場」と化した北条・徳川・上杉という周辺諸強豪がこぞって信州へ侵入し、領土拡大に励んだ。
昌幸もこの動乱に巻き込まれ、生き残りに奔走する
7月
昌幸、北条氏の家臣になる
昌幸は北条氏の配下に入ること北条氏にを申し出る。
9月
昌幸、徳川氏の家臣になる
徳川方の先鋒として働いていた佐久の依田信蕃と昌幸の弟である加津野信昌(信尹)の説得により、昌幸は徳川氏の配下に入る。 このころから昌幸が上田地方の統一に着手し始める。
10月19日
真田昌幸が祢津城を攻めるが陥落せず
真田昌幸が北条方である祢津昌綱を攻めるが、祢津氏の本拠地である祢津城は陥落せず。
10月29日
徳川と北条が和睦する
和睦の条件は真田氏にとって受け入れがたいものだった。
1583
天正11
1月
昌幸、小県郡内の反徳川勢力を鎮圧
徳川方に背いた依田窪地方の諸侍を、徳川方の真田昌幸・真田信尹(加津野信昌)らの間で丸子にて鎮圧。
昌幸37才
信尹37才
信之18才
信繁17才
豊臣秀吉47才
北条氏政46才
徳川家康42才
北条氏直22才
2月22日
岩尾城で激戦
徳川方である依田信蕃は岩尾城を攻めるが、信蕃は弟である依田信幸とともに戦死。
この戦いに昌幸も参加していたと思われる。
2月23日
岩尾城が陥落
その後、徳川家康は信蕃の嫡子である康国に松平姓を与え、小諸城主に任命。
 
昌幸、虚空蔵山で上杉景勝の兵を破る
昌幸が信濃国埴科郡の虚空蔵山まで進軍してきた上杉景勝の兵を破る。
9月
祢津昌綱は再度、徳川氏の配下に入る
 
 
昌幸が上田城を築き始める
この年、丸子方面を平定。
1584
天正12
4月
「小牧・長久手の戦い」
徳川家康と羽柴秀吉が小牧・長久手のの付近で合戦を起こした。

昌幸38才
信尹38才
信之19才
信繁18才

豊臣秀吉48才
北条氏政47才
徳川家康43才
北条氏直23才
7月
室賀信俊を昌幸は上田城に招き寄せ謀殺
これにより、小県郡は真田氏により統一された。
 
昌幸、家康と断絶
徳川家康は北条氏と和を結ぶため、昌幸に沼田城を北条方へ明け渡すことを命じるが、昌幸はこれを拒絶し、真田氏は徳川氏と断絶した。
このころ、祢津昌綱は上杉氏の配下に入る。
1585
天正13
7月
昌幸、二男信繁(幸村)を人質として上杉氏に送る
昌幸は徳川氏と対決するにあたり、後ろ盾がひつようだった。
そこで、昌幸は羽柴氏と友好的である上杉景勝の家臣になった。
昌幸は、上杉氏のもとへ二男である信繁(幸村、17才)を人質として送った。
昌幸39才
信尹39才
信之20才
信繁19才
豊臣秀吉49才
北条氏政48才
徳川家康44才
北条氏直24才
7月26日
上杉氏、配下に真田氏を援護するよう命令を出す
上杉氏、海津城主である須田満親らに昌幸を支援する様に命じました。
8月2日
「第一次上田合戦」始まる
徳川家康は鳥居彦左衛門や大久保忠世らを上田に出兵させ、第一次上田合戦が始まる。
徳川軍8500人、真田軍1000人。
この戦いに昌幸の長男である信幸も参戦していた。
昌幸は徳川軍と戦をしている最中、羽柴秀吉に援助を仰ぐ書状を出した。
8月2日
真田方大勝利
第一次上田合戦の中で最も激戦であった神川付近での戦いで徳川軍は大勢の死傷者を出し、昌幸は大勝利をおさめる。
徳川方は丸子城も攻めるが陥落せず。
8月3日
徳川方、八重原から尾野山城・丸子城を攻めるも成果出ず
徳川方は八重原まで陣を後退させ、丸子城や尾野山城も攻めたが陥落せず。
8月20日
徳川方、信濃の諸将に出陣を命じる
徳川方は小笠原氏・下条氏・飯島氏・松岡氏といった信濃の家臣達に出陣を命令した。。
徳川方、再び丸子城を攻めるも陥落せず
丸子城付近の丸子河原で再び徳川方と真田方が衝突しましたが、丸子城は陥落せず、徳川方は撤退した。
9月
北条氏が沼田城を攻撃
真田氏が上田から援軍を送れないこの時を狙って、北条氏が沼田城を攻めるが、真田氏や矢沢氏へ上杉氏からの支援があり陥落せず。
9月下旬
徳川方、佐久・諏訪方面の安定を図る
真田氏を攻める徳川方に援軍が到着
小諸城に駐留していた徳川方に、援軍である井伊氏5000人の部隊が到着した。
9月29日
北条氏の沼田城を攻撃部隊が撤退
矢沢氏を中心とした真田氏が北条氏の攻撃から守りきった。
これには上杉氏からの支援が発揮された。
11月
徳川方の撤退により「第一次上田合戦」集結
徳川方の重臣である石川数正が徳川氏を裏切り秀吉方になり、徳川方の情報が秀吉方に筒抜けになる事態が発生。
これにより突然、徳川方は全軍を小県郡から遠江に撤退する。
秀吉は昌幸に家康を来春討つことを伝える。
11月17日
昌幸、徳川方撤退に困惑
徳川方が遠江に撤退した直後、昌幸には徳川方の撤兵理由が分からず、困惑している事を上杉氏に伝えている。
11月19日
秀吉、昌幸に石川数正が徳川方から寝返ってきた状況と、家康を来年正月15日に討つことを伝える。
 
昌幸、秀吉に家臣になることを誓う
昌幸は秀吉に対して臣従を誓う書を送った。
 
この年、上田城は一応完成する。
上田城の完成時期ははっきりしていませんが、およそこの頃ではないかと推定されています。
1586
天正14
5月
北条方が沼田城を攻撃
北条氏は再び大軍で沼田城を攻めるが、矢沢氏はこれも撃退する。

昌幸40才
信尹40才
信之21才
信繁20才

豊臣秀吉50才
北条氏政49才
徳川家康45才
北条氏直25才
 
昌幸が願行寺の後任住職について指示を出す
昌幸の上田城下町整備に関わる最古の確実な文書(願行寺文書)
 
昌幸、佐久郡へ侵攻
この頃、昌幸は徳川軍がいなくなった佐久郡に攻め入る。
 
昌幸、二男信繁(幸村)を秀吉へ差し出す
この頃、上杉氏のもとへ人質として出されていた昌幸の次男である信繁は、このころ大谷吉隆を介して秀吉の家臣となった。
7月17日
家康、再び真田討伐に乗り出し挙兵
家康は昌幸を討つために出兵し、駿河まで兵を進めた。
8月7日
家康、真田討伐を延期
家康は秀吉からの説得で昌幸討伐を延期した。
8月3日
秀吉、真田への態度を一変
秀吉は家康の家臣である水野惣兵衛に「家康自身が動いて真田氏討伐をするよう」働きかけた。
ついで、秀吉は上杉景勝に「真田は裏表のある卑怯者なので成敗しなければならない。おまえは真田への支援をしないように。」と指示する。
9月25日
秀吉、真田討伐を中止
秀吉は「真田は裏表のある者だが、成敗は一応やめる」と上杉景勝に伝える。
10月27日
家康、秀吉の配下になる
家康は大坂城に登城し、秀吉の家臣となった。
11月初旬
秀吉、信濃の諸大名を徳川支配下とすることを決定
秀吉は地理的条件やこれまでの経緯を鑑みて、信濃大名を徳川氏の配下にすることを決めた。
11月4日
秀吉は上杉氏に対し、家康に家臣を移す様に命令

秀吉は上杉氏に信濃の真田・小笠原・木曽などの所領を家康に渡すよう命じる。
秀吉は上杉氏を通じて真田氏を説得
秀吉は上杉氏に「その方の執り成しで真田征伐をやめるのだから、そのことを真田によく言い聞かせて徳川氏に領地を召し出しださせるように。」と念を押している。
12月19日
秀吉、「豊臣秀吉」となる
羽柴秀吉は太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉を名乗る。

1587
天正15

1月4日
秀吉、昌幸に上洛を命じる
秀吉は上杉景勝に真田氏を上洛させるように命じる。
昌幸41才
信尹41才
信之22才
信繁21才
豊臣秀吉51才
北条氏政50才
徳川家康46才
北条氏直26才
3月18日
昌幸、家康に謁見し、徳川氏の家臣になる
昌幸は秀吉の命により、小笠原貞慶とともに駿府の家康のもとへ挨拶に行き、昌幸は家康の配下に入る。
1588
天正16
 
北条氏政、秀吉からの上洛命令を断る
秀吉は北条氏政に上洛するよう促すが、北条はこれに従わず、北条はその事を家康に相談する。
北条はこの時、沼田を上洛の引き替え条件にして手に入れようとした。

昌幸42才
信尹42才
信之23才
信繁2才

豊臣秀吉52才
北条氏政51才
徳川家康47才
北条氏直27才
1589
天正17
2月13日
信幸は家康に謁見するため駿府へ行く
信幸は徳川家にの配下に入る。
この頃、昌幸は信幸を大名として一本立ちさせたようで、沼田・吾妻郡の統治を信幸が担当するようになった。
昌幸43才
信尹43才
信之24才
信繁23才
豊臣秀吉53才
北条氏政52才
徳川家康48才
北条氏直28才
7月10日
秀吉が沼田領土問題を裁決
秀吉は北条氏との懸案であった沼田領土問題を決着させるため、沼田城とその周辺の領土を北条方に明け渡すことを昌幸に命令。
昌幸はこれに従い、昌幸の所領である沼田城を含む上野の3分の2を北条に明け渡す。
その代替地として家康は真田に伊那郡箕輪の地を与える。
沼田城からほど近い場所にある名胡桃城を含む上野の3分の1と吾妻郡はそのまま真田氏の領地となった。
11月3日
北条方が名胡桃城を占拠、協定違反
北条方の兵が、真田氏の名胡桃城を攻略。
これにより名胡桃城の城主である鈴木主水は責任を感じて切腹。
昌幸、これを秀吉に訴え、これに対し秀吉は真田氏に支援する意志を伝える。
これが秀吉による小田原攻めの発端となる。
11月24日
秀吉、北条氏を討伐することを決定する
その後、すぐ真田氏にも、その旨が伝えられる。
1590
天正18
2月
秀吉は小田原征伐に出発する
この戦いに真田昌幸と信幸は、前田利家と上杉景勝の先鋒として参戦。
信繁は秀吉とともに小田原へ随行。
昌幸44才
信尹44才
信之25才
信繁24才
豊臣秀吉54才
北条氏政53才没
徳川家康49才
北条氏直29才
3月18日
真田・前田・上杉連合軍は北条方の大道寺政繁を破る
真田は碓氷峠にて北条方の大道寺政繁を破る。
4月上旬
西牧城と厩橋(前橋)城を陥落
着々と上野国の北条氏拠点の攻略を進める
4月20日
真田・前田・上杉連合軍は北条政繁を破る
真田・前田・上杉連合軍は北条政繁の松井田城(上野国)を攻略する。
4月24日
真田・前田・上杉連合軍は着々と北条方を攻略
真田・前田・上杉連合軍は箕輪城(上野国)を攻略する。次いで忍城も攻略。
7月5日
小田原の北条氏が降伏
秀吉方の圧倒的な兵力につる包囲網により、北条氏は降伏し、小田原城は陥落した。
北条氏政が切腹し、北条氏は滅亡。これにより秀吉による天下統一が成就。
7月11日
北条氏政が切腹
北条氏政が切腹。(北条氏政 享年53才)
北条氏は滅亡。
これにより秀吉による天下統一が成就。
7月16日
北条方の忍城が攻略。
北北条氏勢力で、最後まで抵抗していた忍城が攻略された。
7月29日
秀吉、昌幸に沼田領を与える
真田氏は以前の働きにより秀吉の直臣と判断され、小県郡(上田領)と吾妻郡はそのまま真田氏の所領。それを家康も了承。
 
北条氏滅亡後、徳川氏による武将の領地の配置転換が行われる
北条氏滅亡後、信濃の諸将は徳川家康に従い、関東各地に移される。
それにより、松本へ石川氏、諏訪へ日野根氏、小諸へ仙石氏など、秀吉配下の諸大名が配置される。
 
この頃から信濃諸大名による大規模な築城・改造が行われる
北条氏滅亡後のこの頃、信濃諸大名による大規模な築城・改造が行われた。
慶長初年頃までに松本城などの信濃の代表的諸城郭の完成を見る。
(昌幸もこれら周囲の動きに刺激されて上田城の大規模な整備事業を進めたものとみられる。)
 
信幸、家康養女である小松姫と結婚
信幸は本多忠勝の娘で家康の養女である小松姫と結婚。
1591
天正19
 
秀吉による朝鮮出兵の計画が動き出す
秀吉は肥前名護屋城を築城。
全国の大名が動員されたものと思われ、真田氏も何らかの負担を課されたと考えられる。

昌幸45才
信尹45才
信之26才
信繁25才

豊臣秀吉55才
徳川家康50才
北条氏直30才没
11月4日
北条氏直 病死
北条氏直 病死(北条氏直 享年30才)
1592
文禄元
1月
「文禄の役」開戦
秀吉の命令により、大名諸公が朝鮮に出兵した。
信幸は上州吾妻郡の田村雅楽助に朝鮮出兵を命じた。
700人。
この時の真田氏の動きは定かではなく、朝鮮半島に上陸したのかどうか定かではないが、肥前名護屋城に信幸の陣跡もあることから、名護屋にて秀吉の命を受けた活動をしていた可能性もある。
昌幸46才
信尹46才
信之27才
信繁26才
豊臣秀吉56才
徳川家康51才
1593
文禄2
 
朝鮮出兵は休止し、「文禄の役」終結
日本側と明側の双方の担当者が和平交渉を成立させるため、双方の幹部に相手が降伏したという偽りの報告をしたため、時間が経過する内に双方の幹部の言い分のぶつかり合いになり、休戦状況は崩壊した。
昌幸48才
信尹48才
信之29才
信繁28才
豊臣秀吉58才
徳川家康53才
1594
文禄3
 
信繁が大谷吉継の娘である利世と結婚
これにより、昌幸の長男と二男は徳川方と豊臣方それぞれの幹部の娘と結婚したことになった。
 
秀吉の伏見城普請に真田氏も動員される。
真田氏は人足役1680人分を請け負った。
4月
昌幸に諸大夫の官職が授けられる
豊臣秀次により、昌幸に諸大夫の官職が授けられる。
 
信幸に従五位下 伊豆守の官職が授けられる
官職を授かることは豊臣家への忠誠度を表すものでもあった。
信繁(幸村)に従五位下 左衛門佐の官職が授けられる
官職を授かることは豊臣家への忠誠度を表すものでもあった。
1595
文禄4
1月
この年の豊臣秀吉朱印状に「上田 さな田安房守居城」の記述
これが「上田」という名称が城郭名および町名として確実な史料に残る最古のもの。
昌幸49才
信尹49才
信之30才
信繁29才
豊臣秀吉59才
徳川家康54才
 
この年の豊臣秀吉朱印状に「上田 さな田安房守居城」の記述
これが「上田」という名称が城郭名および町名として確実な史料に残る最古のもの。
1596
文禄5
9月
秀吉、来朝した明使節と会見
明側使節との会見の結果、明側に降伏した認識が無く、逆に秀吉を日本国王として認めてやると言う、明側が上であると言う立場を主張してきたため、秀吉は激怒し、再び朝鮮半島にに出兵することを決めた。
昌幸50才
信尹50才
信之31才
信繁30才
豊臣秀吉60才
徳川家康55才
1597
慶長2
2月
「慶長の役」開戦
秀吉の命令により、大名諸公が朝鮮に出兵した。
信幸は上州吾妻郡の田村雅楽助に朝鮮出兵を命じた。
700人。
この時の真田氏の動きは定かではなく、朝鮮半島に上陸したのかどうか定かではないが、肥前名護屋城に信幸の陣跡もあることから、名護屋にて秀吉の命を受けた活動をしていた可能性もある。
昌幸51才
信尹51才
信之32才
信繁31才
豊臣秀吉61才
徳川家康56才
 
信之の長男、真田信吉 誕生
後の沼田藩主
 
信之の次男、真田信政 誕生
後の沼田藩主、松代藩主
1598
慶長3
4月
前田利家は草津で湯治を行う
草津は真田領土内にあるので、前田氏の湯治に関与していると思われる。
昌幸52才
信尹52才
信之33才
信繁33才
豊臣秀吉62才没
徳川家康57才
8月18日
秀吉、伏見城で病死
秀吉が伏見城で病死した。
(豊臣秀吉 享年62才)
このとき信幸は伏見城にいた。
11月
「慶長の役」終結
秀吉の死去を受け、撤退を行っていた日本軍は、この頃ようやく撤退を完了する。
事実上の日本軍の敗北。
1599
慶長4
 
秀頼が大坂城に入城
秀頼を前田利家と石田三成が補佐。

昌幸53才
昌幸53才
信之34才
信繁33才

徳川家康58才
3月
利家、逝去
前田利家が逝去。(前田利家 享年63才)
利家の嫡子である利長は家康に従う意向を示したため、豊臣方の力が弱まり、家康に主導権が移り始めた。
1600
慶長5
3月
家康が伏見城から大坂城西の丸に移った
それに伴い真田氏も伏見から大阪に移る
昌幸54才
信尹54才
信之35才
信繁34才
徳川家康59才

 

家康と他の大老の対立が深まる
家康の影響力が強くなり、これまでの合議制による豊臣政治が崩壊。
家康以外の大老は各所領に帰国し、徳川氏との対立を鮮明にした。
6月16日
家康、上杉討伐に向かう
家康は上洛の命令に従わない会津の上杉景勝を討伐するとして、大坂から関東へ約6万人の大軍を率いて向かう。
昌幸、信幸、信繁は家康に従い出陣。
家康は自分が大坂から遠ざかると、石田三成が挙兵し、豊臣対徳川の軍事的衝突が始まることを予見していたと言われている。
7月初め
三成、徳川討伐に向けて出陣
石田三成は佐和山から大坂へ移り、増田長盛・長束正家・前田玄以らかつての五奉行衆と秀頼を擁立して兵をあげる。
7月19日
「伏見城攻撃」
石田三成ら西軍は、家康の留守居役である鳥居彦左衛門が守る伏見城を攻撃。
7月20日
昌幸・信繁の真田隊、下野の犬伏宿に着陣
秀忠隊、宇都宮に着陣
7月21日
昌幸のもとへ三成から密書が届く
下野の犬伏にて陣していた昌幸へ、豊臣五奉行衆から7月17日付の密書が届く。
真田父子による密議の結果、昌幸と信繁は豊臣方へ、信幸は徳川方へ分離することなる。
信幸は嫡子である信政を人質として江戸へ送る。
家康、秀忠隊と合流するため、江戸を出発
7月23日
昌幸と信繁(幸村)、西軍に加わることを決め、移動を開始
昌幸、信繁は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発。
 
昌幸と信繁(幸村)、上田への岐路の途中、沼田に寄る
昌幸と信繁が犬伏から上田へ帰る途中、沼田城に立ち寄ろうとしたが、信幸の妻である小松姫に入城を拒否される。事前に使者などにより信之から指示があった可能性あり。
7月25日
「小山評定」が開かれる
この会議に参加した者は徳川方、つまり東軍として石田三成率いる西軍と対峙するため、西へ進軍することになった。
これに信幸も参加。
8月10日
秀忠隊、真田征伐を行うため西へ出発
秀忠は真田征伐のため、宇都宮を出て小諸に向かう。
8月21日
信幸、沼田を警護するため、沼田へ出発
信之は会津と上田の中間に位置する沼田で国境(会津口・信濃口)の警備を指揮するために、沼田に向け出発。尾瀬は当時、信濃と会津を結ぶ重要な土地で、上田の真田氏と会津の上杉氏の情報の分断を図る必要があった。
8月28日
秀忠は松井田宿に到達
8月23日
徳川方、岐阜城を陥落させる
豊臣恩顧の大名で構成された徳川方の先発隊は岐阜城を陥落させる。
さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも徳川軍は勝利する。
8月24日
秀忠、信之に昌幸・信繁(幸村)討伐への参加を命令
秀忠は沼田で警備していた信之に対し上田城攻めを行うので参陣せよと命令した。
8月28日
秀忠、松井田に着陣
東軍先発隊は、合渡川の戦いで勝利
東軍先発隊は、犬山の戦いで勝利
9月1日
家康、西へ向かう
家康が約3万人の兵を率いて江戸城を出て、東海道を西へ進み始める。
秀忠、軽井沢宿に着陣
9月2日
秀忠、小諸城に着陣
小諸城が秀忠隊の本拠地となった。
9月3日
昌幸、秀忠に降伏の意志示す
昌幸は信幸を介して、秀忠に降参の意志を示した。
9月4日
「第二次上田合戦」始まる
昌幸の降参は嘘であることが判明。
秀忠は森忠政に上田で籠城する真田氏への攻撃を命じる。
秀忠隊(徳川方)3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だった。
9月5日
兄弟対決を嫌った信繁(幸村)が砥石城から撤退
兄弟対決を嫌った信繁(幸村)が砥石城から撤退したため、徳川方は戸石城を攻略、信幸が在城。
秀忠は砥石城を背にする染屋に着陣する。
9月6日
秀忠、稲の刈り取り作業を命令し、真田方を挑発
秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発した。
上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきた。
真田方、徳川方を翻弄する
徳川軍は上田城を攻めるが、真田の策略に陥って敗退。
砥石城までも真田軍に奪還される。
9月7日
秀忠は一時的に小諸に退却
秀忠が上田攻撃を中止し、小諸に退却。
9月11日
「第二次上田合戦」秀忠が西へ向かい始め、終結

秀忠は西方での決戦に間に合わなくなることを危惧し、上田城攻略をあきらめ、小諸城を出て大門峠を越えて、諏訪経由で木曽へ向かう。
信幸と森忠政は上田城への押さえとして小諸城に残る。
第二次上田合戦は真田氏の勝利に終わる。

9月13日
秀忠、諏訪に到着
9月15日
「関ヶ原合戦」
この1日で大勢は決し、裏切りが続出した石田三成が率いる西軍は、徳川家康が率いる東軍に敗れる。
信繁(幸村)の正室利世の父である大谷吉継は関ヶ原にて戦死。
9月16日
秀忠、関ヶ原合戦に間に合わず
秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着。
結局、秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
9月17日
佐和山城が陥落
佐和山城が陥落し、裏切りが続出した三成が率いる西軍は、家康が率いる東軍に敗れた。
五女の夫である宇田頼次は父頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦したが、戦死した。
9月19日
秀忠、美濃国赤坂宿に到着
秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着。
9月20日
秀忠、大津城にいる家康隊に合流
秀忠は何日か家康に面会してもらえなかったと伝えられています。
12月
西軍の昌幸と信繁(幸村)、九度山に幽閉されることになる
家康は西軍として上田城に籠城し、将軍秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた昌幸・信繁(幸村)に切腹を言い渡した。これに対し、信之は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をした。
家康は昌幸と信繁に対して死罪を免除、高野山での幽閉を命じる。
12月13日
昌幸と信繁(幸村)、九度山に向かう
昌幸、信繁は上田を出発して、家来16人を連れて幽閉先の高野山へ向かう。高野山で滞在場所を数カ所転々と移動し九度山に落ち着く。上田城は廃城。
昌幸の正室である山之手殿は、上田に残り出家して寒松院を名乗り、大輪寺での生活を始める。
 
昌幸と信繁(幸村)、高野山付近での住居を転々とする
高野山付近で滞在場所を数カ所転々と移動し、九度山に落ち着く。
 
信幸、上田領を昌幸から受け継ぐことを幕府から許される
上田領(65000石)は徳川方についた信之(昌幸の長男)に与えられる。(沼田領、さらに加増分の30000石を合わせ95000石)
信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前から幸の字を消して、信幸を「信之」に改めた。
12月下旬
上田城は破壊される
徳川方により上田城の中心部は破却されたため、藩主は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあることになった。
これ陣屋支配体制という。
上田藩主館は幕末まで藩主の公私における居場所となった。
関ヶ原合戦直後から、信幸が沼田から移ってくるまでは、諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが上田城の城番を幕府から任された。
1601
慶長6
1月
信幸は三の丸に建てられた館に入る
上田城は破壊されて、使い物にならないため、三の丸に作られた上田藩主館に入る。
昌幸55才
信尹55才
信之36才
信繁35才
徳川家康60才
 
信繁(幸村)の長男、真田大助(幸昌)誕生
この頃、信繁の嫡子である大助(幸昌 ゆきまさ)が生まれる。
8月
信幸、寺社に安堵・寄進を集中的に行う
信之は領内の諸士や寺社へ土地の宛行い・安堵・寄進を行った。
11月
昌幸、嫁である小松から好物を送ってもらう
嫁である小松殿から昌幸の好物である鮭の子が九度山に届き、昌幸は小松殿に礼状を送った。
   
トップ真田氏データベース真田氏年表>安土桃山時代
 
ろくもんせんどっとこむ トップページへ 真田氏データベース トップページへ ルーツ 家紋 歴代藩主 一族 系図 年表 親戚 家臣 勢力範囲 合戦遍歴 関連伝説 真田十勇士 有力者データベース 用語データベース サイトインフォメーション トップへ