真田氏年表【安土桃山時代】

真田氏に関しての総合的な年表を軽視際しています。真田氏を中心に、真田氏に影響を及ぼした大名達の行動も掲載しています。
徳川家康が朝廷から征夷大将軍を賜って江戸幕府を開いてから、徳川慶喜が大政奉還を行うまでを江戸時代です。 
凡例: …真田氏の出来事、 …真田氏に関連した有力者の出来事、 …真田氏には直接関係ない出来事
月日
出来事
真田氏年齢
関連大名年齢

1603
慶長8

 
家康、朝廷より征夷大将軍の地位を賜り、江戸幕府が開かれる
徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。
昌幸57才
信尹57才
信之38才
信繁37才
徳川家康62才
1404
慶長9
7月17日
徳川家光が誕生
徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生。
昌幸58才
信尹58才
信之39才
信繁38才
徳川家康63才
1605
慶長10
4月16日
徳川氏は将軍を世襲で維持することを世間に知らしめる
家康は将軍をやめ、秀忠が将軍になる。
将軍職を徳川氏の世襲で受け継いでいくことを世に知らしめた。
昌幸59才
信尹59才
信之40才
信繁39才
徳川家康64才
 
上田の城下町が整備され始める。
北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理が信之によって始められる。
1606
慶長11
 
上田城下町の区画整理を完了
現在に続く原町・海野町の町並みが確定する。
昌幸60才
信尹60才
信之41才
信繁40才
徳川家康65才
1607
慶長12
 
信之、沼田城に5層の天守を建造。
沼田城の天守は、関東で数少ない天守の1つで、関東では5層の天守は江戸城の天守と沼田城にしかなかった。
昌幸61才
信尹61才
信之42才
信繁41才
徳川家康66才
1609
慶長14
1月
方広寺が起工される
豊臣秀頼は秀吉の権威を継承する象徴として方広寺を起工する。
   
1611
慶長16
6月4日
昌幸、病気の悪化で逝去
真田昌幸が九度山にて亡くなる。
(真田昌幸 享年65才)
長男 信之は昌幸を弔おうことを大規模な葬儀を計画するが、徳川氏重臣である本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得され断念する。
昌幸65才没
信尹65才
信之46才
信繁45才
徳川家康70才
1612
慶長17
 
昌幸家臣、一周忌を済ませ上田へ帰国
昌幸の家臣は一周忌をすませ、九度山から上田へ帰る。信繁のもとに残った家臣は少数。
信尹66才
信之47才
信繁46才
徳川家康71才
 
片倉守信(真田大八)が誕生。
信繁の次男である大八(のちの片倉守信)が生まれる。
 
信繁(幸村)は出家して「好白」を名乗り始めま
1613
慶長18
 
昌幸の正室である寒松院(山手)が逝去
昌幸の夫人である寒松院(信之と信繁の生母)が逝去。大輪寺に葬られる。
信尹67才
信之48才
信繁47才
徳川家康72才
8月
和歌山藩である浅野幸長が38才で病死
浅野幸長 享年38才
真田氏の理解者だった幸長に変わって、その弟の長晟が家康の特命により和歌山藩主になり、これ以後は真田氏に対する監視は厳しくなったと思われる。
1614
慶長19
初夏
方広寺がほぼ完成にする
方広寺には当時最大の大仏が安置された。
信尹68才
信之49才
信繁48才
徳川家康73才
7月21日
鐘銘事件
京都東山に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の開眼供養のための鐘銘(釣鐘の銘文)に家康がクレームをつける。
8月3日には落慶供養(大仏開眼供養)を執り行う予定だったが延期。
後に幕府はこれを豊臣攻めの名目とする。
7月26日
家康が落慶供養(大仏開眼供養)の延期を秀頼に申し入れる
8月3日に方広寺の落慶供養(大仏開眼供養)を執り行う予定だったが延期。
7月29日

淀殿直属の使者として大野治長の母である大蔵卿局と正栄尼が駿府城に着き、家康と面会。

9月20日
徳川方との交渉窓口だった片桐且元の追放を決定
豊臣方は徳川方との交渉を担当していた片桐且元を追放し、徳川幕府との戦が回避できない状態となった。
10月1日
且元、大坂城方脱出
自らの身に危険が迫っていることを察知した且元は、大坂城から300人の軍勢に守られながら退去し、居城である茨木城に入る。
10月2日
豊臣方、戦力集めを開始
豊臣方は、秀吉から信頼されていた大名や牢人に味方をするよう呼びかけ、戦に向けた戦力集めを本格的に始めた。
 
徳川方も豊臣方との戦に備え、諸大名に出陣を命じる
幕府は信濃・甲斐・関東などの諸大名に大阪出陣の準備し、江戸に参陣するよう命じる。
これに対し、信幸は病気で参陣できないことを幕府に伝える
10月4日
幕府は真田氏にも出陣命令
幕府は信之に嫡子である信吉を参陣させるよう命じ、信吉は信政らと幕府方として参陣する。
10月9日
信繁(幸村)と大助、大坂城へ向かう
信繁とその嫡子である大助は、九度山を出発し大阪に向かう。
10月11日
家康が大坂に向け出陣
家康が駿府城を出発し、大坂へ向かう。
真田信尹が家康に従軍。
10月13日
信繁と大助が大阪城に入る
 
信繁(幸村)は真田丸を建造
大阪城に入った信繁は、豊臣幹部から許可をもらい、大坂城で一番弱い部分に真田丸を築く。
10月23日
秀忠が大坂に向け出陣
秀忠は大阪へ向かうため、江戸を出発。
信幸の長男信吉と次男信政が秀忠隊に随行。
信之は戦争未経験の息子達に、矢沢・木村・黒田・大熊ら戦争経験者を補佐役として付けた。
11月上旬
大坂城に集まった牢人は10万人を超えた
11月12日
豊臣方の槙島重利が堺を襲撃
豊臣方の槙島重利が堺を襲撃し、鉄砲や弾薬を奪った。この時、豊臣方から追放され徳川方になった片桐且元は忠誠を表すため、これを撃退する救援隊を送りましたが、槙島隊に破れた。
11月15日頃
徳川軍が大坂城を囲むように大きな群れとなって現れ始めた
11月17日
秀忠が大坂に到着
秀忠は大阪天王寺に到着。徳川軍の陣列が定まり、信吉と信政は酒井家次の指揮下で、青屋口住吉において布陣する。
11月中旬
「大坂冬の陣」開戦
この頃、大阪冬の陣が始まる。
11月18日
家康と秀忠は茶臼山に設けられた家康の本陣で、会議を開いた
この会議で天王寺・今宮・穢多ヶ島(えたがしま)・伝法・岡山・今福・守口など13カ所に前線基地になる城を築いて、時間を掛けてしっかりした包囲網を作りながら攻めていくことを決められた。
11月18日
豊臣方の穢多ヶ島砦が陥落
明石全登と大野治房が守る豊臣方の穢多ヶ島砦に、徳川方の蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の各隊が攻め入った。この時、明石全登が大坂城に出向いていて留守だった為、穢多ヶ島砦は比較的簡単に徳川方によって陥落しました。
11月26日
今福での戦い
徳川方は今福に前線基地の城を作るため、佐竹義宣隊が今福に、上杉隊が鴨野に進撃。
今福に進軍した佐竹隊は木村重成と後藤基次など豊臣方からの反撃に遭い、先鋒である渋江政光が討ち死にした。
一方、鴨野を攻めた上杉隊は、豊臣親衛隊七隊長の一人である渡辺糺からの反撃に遭ったが、これを撃退し、今福で苦戦していた佐竹隊の支援も行った。
豊臣方は大阪城内へ一時退却。
11月29日
豊臣方の博労淵砦・野田砦・福島砦が陥落
蜂須賀至鎮・池田忠雄・石川忠総の徳川方の各隊が、豊臣方である薄田兼相が守る博労淵砦を攻撃。兼相は前夜から砦を留守にしていたので砦内の統率がとれず、徳川方は比較的簡単に博労淵砦は陥落した。
つづいて、大野治胤が守る野田砦と福島砦も徳川方によって陥落した。
11月30日
豊臣方、大坂城総構え内にほぼ全軍を入れる。
豊臣方は船場と天満に火を放って、総構えの外にいた兵を全て大坂城内へ入れた。
大坂城の総構えの外にに設営されていた豊臣方による砦は、徳川方により全て撤去された。 これにより、真田丸だけが総構えより外に出ている唯一の豊臣方の軍事施設になった。
12月2日
徳川方、砲撃を行うため前身
大坂城を包囲している徳川方は大砲の射程距離を有効に生かす為に、城に向かって前進し始めた。この時、家康は「急進してはならぬ。直接攻撃に備えて堀を作り、土塁を築いた上で大砲で攻撃せよ。」 と命令し、真田丸正面まで前進した前田隊も砲撃用の簡易砦を築き始めた。
これに真田隊が挑発。
12月4日
「真田丸攻防戦」
真田丸を攻めた徳川方は多数の死傷者を出して退却。
徳川方の損失は、前田隊約300騎、越前隊約480騎が討ち死にし、一般兵の戦死者数は1万人とも1万5000人とも言われる程、甚大なものになった。
12月5日
大坂城内で織田頼長の家臣が喧嘩騒ぎを起こす
大坂城内で織田頼長の家臣が喧嘩騒ぎを起こした。徳川方の藤堂隊が、この騒ぎに便乗して防護柵を破って城内に進入したが、長宗我部隊によって撃退され、徳川方による進入は成功せず。
12月11日
徳川方、信繁(幸村)を勧誘
真田丸に籠もる信繁(幸村)に対し、徳川方の使者である信尹は信繁に10万石の領地を与えることを持ちかけたが、信繁(幸村)はこれを断る。
12月13日
家康が茶臼山に着陣
徳川方は真田丸を攻撃するが、信繁はこれを撃退
12月14日
徳川方が信繁(幸村)に降伏を勧める
本多正純が信繁に降伏を勧めるが、信繁はこれに応じず。
12月16日
徳川方による砲撃、大坂城の天守と千畳敷御殿に玉が命中
淀殿ら豊臣方幹部が徳川氏との和睦の検討を始める。
12月19日
徳川方と豊臣方は和議を結ぶ
徳川方と豊臣方は和議を結ぶ。徳川方は撤兵
12月20日
家康、埋め立て奉行を任命
家康は松平忠昭、本多忠政、本多康紀を大坂城の堀の埋め立て奉行に任命した。
12月21日
和議が正式に成立
豊臣方と徳川方は誓約書を交換して和議が正式に成立した。
12月22日
家康は茶臼山を出発し、夕方には京都の二条城に入る
信繁はこの時に家康を討つ絶好のチャンスだと秀頼に進言したが、淀殿の反対により実行されず。
12月24日
和議の条件だった堀の埋め立てが開始
和議での合意として、徳川方は大阪城の三の丸の堀を埋め立てるが、徳川方の策略で続けて二の丸の堀まで徳川方の手で埋められていった。
1615
慶長20
1月3日
家康、駿府へ向かう
大坂城の堀の埋め立て作業が進む中、家康は京都の二条城を出発し駿河の駿府城に向かった。
信尹69才
信之50才
信繁49才没
徳川家康74才
1月24日
大阪城の堀の埋め立て作業が完了
大坂城の堀は本丸の周囲のみとなる、
1月24日
信繁(幸村)、姉へ手紙を送る
信繁は大阪城内より、上田にいる姉の村松へ書状を送る。
2月10日
信繁(幸村)、婿に手紙を送る
信繁は大阪城内より、娘すえの夫である石合十蔵に書状を送り、決死の覚悟を伝える。
3月15日
豊臣方と徳川方の交渉が決裂
秀頼の使者である青木一重と淀殿の使者である常高院・二位の局・大蔵卿・正栄尼が家康に会う為に駿府城に着いた。
常高院ら豊臣方の使者は家康に、秀頼に対する移封の免除を申し入れたが、この申し出自体が徳川方に豊臣方が従う姿勢が見られない行為だとして、徳川方は再び大坂城を攻めることになった。
4月4日
秀頼、決意表明を行う
秀頼は会議を開き、豊臣方に集まった者を前にして「家康が来たら潔く決戦を交え、力尽きれば諸君と共に戦死するのみ。」と決意を述べました。
この会議で織田信長の甥である織田頼長が、豊臣方の軍隊の統率役に名乗り出たが、出席者の反対に遭い激怒した頼長は父である有楽と共に豊臣方から脱退し、大坂城を出て京都へ去った。
4月5日
秀頼、大坂城外を巡視
秀頼が大坂城から出て、大坂城南方の阿倍野や天王寺などを巡視した。前衛に後藤・木村隊、秀頼の麾下として長宗我部・真田隊、後衛は大野治房隊だった。これが最初で最後の豊臣秀頼による大坂の陣での城外活動である。
4月6日
家康、再び大坂攻めを決意
家康は大坂に再び攻め入ることを命令。信吉と信政もこれに従い、出陣する。
4月18日
家康、京の二条城に入城
4月21日
秀忠、伏見城に入城
4月22日
4月22日、家康と秀忠は二条城で本多正信・本多正純・土井利勝・藤堂高虎らと戦略を練りました。
4月26日
徳川方の先発隊が大坂に向けて出発
豊臣方が大和郡山周辺で牽制
大野治房隊約2000人が暗峠(くらがりとうげ)を越えて大和郡山の城下に進入して火を放ったり、27日には大和郡山周辺の村を焼き払うなどした。
4月28日
樫井の戦い
豊臣方と浅野長晟の軍事衝突がおこる。豊臣方が敗北。
4月30日
道明寺での戦いの作戦会議が行われる
5月1日
豊臣方の平野と天王寺へ進軍
5月5日
家康と秀忠が着陣
5月6日
「大坂夏の陣」開戦、道明寺の戦い
豊臣方は大坂城付近より出撃し、徳川方を迎え撃とうとするが、打ち負かされ撤退。この時、信繁は道明寺付近で伊達政宗隊と交戦し、退却している。後藤基次が戦死。
5月7日
信繁(幸村)、徳川の本陣を追い回す
信繁は嫡子である大助を大坂城へ戻らせる。
信繁は家康の本陣を追い回し、家康の首を狙いましたが、徳川方に援軍が到着し、形勢が逆転。信繁(幸村)が撤退しました。
信繁(幸村)、戦死
信繁が安居神社で休んでいたところ、本多忠直の家臣である西尾久作に討たれ戦死。(真田信繁(真田幸村)享年49才)
5月8日
大坂城が落城
豊臣秀頼、淀殿らが自害。
信繁の嫡子である大助は秀頼の後を追って自害。
大阪夏の陣は徳川軍の勝利。
この戦いで信吉は27の大坂方の首を取る。
5月28日
片桐且元が急死
片桐且元は大坂城落城の20日後である5月28日に急死
1615
元和元
 
幕府は一国一城令を出す
 
幕府は武家諸法度を施行する
城郭の築城は厳禁とし、修築に関しても厳重な許可制になる。
1616
元和2
4月17日
家康が駿府城で逝去
徳川家康 享年75才
信之にとって家康は義父にあたる。(家康は正室小松の養父)
信尹70才
信之51才
徳川家康75才没
7月
秀忠が家康六男である松平忠輝を改易。
幕府が高田城主である松平忠輝を改易する。
幕府は信之などに高田城を番するように命令する。

1617
元和3

3月9日
家康、東照大権現となる
南光坊天海により、家康に東照大権現の神号と神階正一位が贈られた。
信尹71才
信之52才
 
3月
信之、居城を沼田から上田に移す
沼田城は信之の嫡子である信吉が城主となる。
1620
元和6
2月24日
信之の正室である小松が逝去
小松 享年46才
小松は常福寺(現在の芳泉寺)に葬られる。
小松は死後、大蓮院と称された。
信尹74才
信之55才
 
1622
元和8
2月
信之、大英寺を建立
信之は大蓮院3回忌にあたり、上田に大英寺を建立。(のちに松代へ移す。)
信尹76才
信之57才
 
10月
幕府、真田氏に上田から松代(松城)への移封を命じる
幕府により、信之は松代に移封される。(松代10万石、沼田3万石で計13万石となる。)信之58才。
小諸から仙石氏が上田へ移封される。これにより小県郡(上田地方)の兵農分離が完了する。
1626
寛永3
8月
将軍家光が京都へ上洛
将軍家光が京都へ上洛。
信之らが守護として随行。
信尹80才
信之61才
 
9月6日
御水尾天皇の二条城へ行幸
1632
寛永9
5月4日
真田幸隆の四男である真田信尹が逝去
真田信尹 享年86才
信尹86才没
信之67才
 
1634
寛永11
6月
将軍家光が京都へ上洛。
信之の次男である信政が名代として従う。
信之69才  
10月28日
信之の嫡子で沼田城主の信吉が逝去
真田信吉 享年38才
1635
寛永12
  
信吉の嫡子である熊之助が沼田城主になる
信之70才  
1638
寛永15
 
信吉の嫡子で沼田城主である熊之助が逝去
真田熊之助 享年7才
信之73才  

1639
寛永16

7月
信吉の弟である信政が沼田城主になる
信之74才  

1647
正保4

2月
信之の三男である信重は松代にて逝去
信之74才  
1657
明暦3

2月22日

真田幸道が誕生(真田信政六男)

信政の六男である真田幸道(さなだ ゆきみち)が生まれる。

信之92才  
7月23日
信幸、隠居
信之が隠居し、一当斎を名乗り、松代城北部にある柴村に住み始める。
松代(10万石)は信政が継ぐ。
沼田(3万石)は信吉の子である信利が継ぐ。
1658
明暦4
2月5日2月5日
松代城主で二代藩主でもある信政が逝去
真田信政 享年63才
信政の子である幸道と信利の間で家督相続が起こる。
信之93才没  
信政の子である幸道と信利の間で家督相続争いが起こる
1658
万治元
6月14日
幸道と信利の間で家督相続争いが起こる
幸道と信利の間で起こった家督相続争いは、幸道が真田家を継ぐことで決着が付く。
10月17日
真田昌幸長男である真田信之が逝去
真田信幸 享年93才
長国寺に信之の霊屋が建てられる。
1663
寛文3
 
真田信繁(真田幸村)次男である片倉守信(真田大八)が逝去
片倉守信 享年59才
   
1670
寛文10
 
真田信弘が誕生
真田勘解由信就の七男として真田信弘が生まれる。
   
1681
天和元
 
沼田城主の真田信利が幕府から改易される
沼田領内での悪政と両国橋建造の遅延の責任を、幕府から問われ改易。
   
1711
正徳元
 
松城を松代に名称を改める。
   
1714
正徳4
 
真田信安が生まれる。
   
1727
享保12
 
真田幸道が逝去。
   
1736
元文元
 
真田信弘が逝去。
   
1740
元文5
 
真田幸弘が生まれる。
   
1742
寛保2
 
大型台風による大洪水が起きる。それは「戌の満水」と呼ばれ、千曲川とその支流が流れる各地に甚大な被害が出て多数の死傷者を出した。
   
1752
宝暦2
 
真田信安が逝去。
   
1770
明和7
 
真田幸専が生まれる。
   
1791
寛政3
 
真田幸貫が生まれる。
   
1815
文化12
 
真田幸弘が逝去。
   
1828
文政11
 
真田幸専が逝去。
   
1835
天保6
 
真田幸教が生まれる。
   
1847
弘化4
5月8日
善光寺地震が起きる。御開帳で賑わう善光寺の町の直下で起きたこの地震は、周辺地域も含めて約7000人の死者を出したと言われている。
   
1848
嘉永元
 
上田藩主である松平忠優が幕府老中になる。
   
1850
嘉永3
 
真田幸民が生まれる。
   
1852
嘉永5
 
真田幸貫が逝去。
   
1853
嘉永6
 
ペリー来航。
上田藩主である松平忠優は海防掛かりになる
   
1858
安政5
 
幕府が日米修好通商条約調印。
調印直後、松平忠優(忠固)は堀田正睦とともに老中職を罷免される。
   
1862
文久2
 
参勤交代制が緩和される。江戸詰の藩士が多数国元へ帰る。
   
1867
慶応3
 
15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った。
   
1868
明治元
 
戊辰戦争。北越戦争に松代藩も新政府軍として出兵した。
   
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