真田氏ルーツ

真田氏のルーツについて、現時点で分かっている事について掲載しています。

真田氏のルーツに関しては様々な見解があります。このページには様々な説の中から有力視されている、または主流になりつつある説を、伝承と最近判明したことを併記する形で掲載しています。
最近になり、様々な説を並べることができようになり、真田氏のルーツについて一定の方向性が見えてきたと言うことは言えるかも知れません。
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真田氏のルーツは分かるのか?

真田氏と深い関わりがある海野氏
奈良時代は大伴氏
平安時代中期に滋野氏
平安時代後期に滋野三家
海野氏が台頭
真田氏の記録について
大塔合戦
結城合戦
真田氏の家系図について
真田氏黎明期系図一覧
真田氏黎明期系図 それぞれの特徴
現時点での仮説
真田氏のルーツを推測するにあたって
真田氏が幸隆以前から存在していたと推測できる根拠
真田氏のルーツと勢力範囲の推定チャート
真田氏のルーツはわかるのか?

真田氏のルーツ(出自)について、これまでは海野氏から分家として出た真田幸隆が、真田郷(現在の長野県上田市真田町)に移り住んだことによって、現在に続く真田氏が開かれたと言われてきました。
しかし、これは江戸時代中期になって、当時大名であった真田氏によって採用された史料に基づくものであり、戦国時代や江戸時代初期の事柄については、不確実な部分が指摘されています。
戦後、多くの研究者により、幸隆以前の真田氏の存在、国牧や御牧などが存在した地域の特色など、様々な説が出てきました。

真田氏と深い関わりがある海野氏

真田氏を知るために、多くの人々によって海野氏の研究がこれまで行われてきました。
海野氏についての諸説を以下にまとめてみました。

奈良時代は大伴氏
8世紀の後半(奈良時代)までは大和朝廷の中央政界で大きな影響力を誇っていた大伴(おおとも)一族の一派が、現上田市から東御市の一帯で栄えていました。
奈良時代、朝廷が地方を支配する為に国府が各地に設置されましたが、信濃の国府は上田の地(現上田市国分)に置かれました。
当時の軍事や輸送手段として馬は大事なもので、国府があったところには良質な馬をきちんと飼育できる国営の牧場(国牧)などの牧場が不可欠でした。
ちなみに上田市に隣接した東御市(旧北御牧村)には「御牧原」という地名が残っており、その辺りは地名の通り奈良時代に朝廷の牧場「御牧」があった場所でした。
平安時代中期に滋野氏
大伴氏が没落した後は、その馬を育てることに関わった豪族が力を蓄えていきました。
滋野(しげの)氏もそうした豪族の一つで、平安時代の末期には小県郡や佐久郡は滋野氏によって支配されていました。
滋野氏については、大伴氏の一部が滋野氏に改姓したという説もあります。
真田氏の開祖は盲人(目が見えない人)だったと言う伝承がありますが、これは滋野氏が盲人を多く抱え、養っていたからだと言う可能性があります。(戦国時代になって、武田信玄の二男である竜芳(この人も盲人)は海野氏の養子になっている(海野二郎と名乗る)。)
滋野氏は盲人との関係が深いのと同時に、妖術(今で言う忍術や医術)にも関連しているという説があります。これが後世になって、真田十勇士などの話の種になったのかも知れません。
平安時代後期に滋野三家
滋野氏は平安時代の末期に3つの家に別れ、それが海野(うんの)氏、祢津(ねつ)氏、望月(もちづき)氏となり、滋野三家とも呼ばれました。
この滋野氏から派生した一族(滋野一族)は東は上野・吾妻郡、西は信濃筑摩・安曇の両郡まで広がっていました。
海野氏が台頭
鎌倉時代になると滋野三家の内、海野氏が急激に勢力を伸ばし始め、信濃国(現長野県)では小県(ちいさがた)郡の真田氏・筑摩(ちくま)郡の塔ノ原氏・光氏・田沢氏・苅屋原氏、上野国(現群馬県)では吾妻(あがつま)郡の下尾氏・羽尾(はねお)氏・鎌原(かんばら)氏・西窪氏・湯本氏などが海野氏から派生した武士だと言われ、この頃の海野氏一族は信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲としていたと言われています。
真田氏の記録について
真田氏の存在を記録から推察
真田氏の初期の記録は大変乏しく、室町時代初期である1400(応永7)年に起きた大塔合戦(おおとうがっせん)を記録した「大塔物語」に「実田」として真田氏の名前が初めて登場します。
もう一つ真田氏の名前が出てくる記録は、室町時代中期である1440(永享12)年に起きた結城合戦を記録した書物です。
この2つの合戦において真田(実田)氏の名前が出ていることは、海野氏から分家として出たと言われてきた真田幸隆(1513(永正10)年生まれ)以前に既に真田氏が存在したことを示すものとして重要な資料になっています。
大塔合戦

大塔合戦は室町時代初期の1400(応永7)年、信濃守護である小笠原長秀に対して、信濃の東北部に領地を構える国人が連合を組んで反乱を起こし勝った戦いで、大塔河原(現在の長野市篠ノ井付近)を中心にして起こりました。
大塔城攻めで、大手一の攻口の大将として小県から祢津遠光(禰津遠光)が参戦し、これに桜井(さくらい)、別府(べっぷ)、小田中(おだなか)、横尾(よこお)氏、曲尾(まがりお)氏、といった小県郡の諸将らとともに実田氏も加わったとされています。
実田は真田のことである可能性が高いとされています。

結城合戦
結城合戦は室町時代中期の1440(永享12)年3月、上杉(うえすぎ)氏との戦で滅びた鎌倉公方の足利氏を公方として再興させるために、結城氏朝(ゆうきうじとも)が室町幕府(足利義教)を相手に戦いを挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こりました。
この戦いに幕府方として、村上頼清(むらかみ よりきよ)とそれに従った真田源太・真田源吾・真田源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献したようです。
この真田源太・真田源吾・真田源六は、真田郷から参陣した可能性が高いとされています。
真田氏の家系図について
真田氏黎明期系図一覧
現時点で判明している真田氏黎明期における7つの主な系図を見てみましょう。
7つの系図は、それぞれ相違している部分があります。これは江戸時代中期以降に、昔の記録や伝承に基づいて作成されたからだと言われています。
幸隆以前の真田氏系図
真田氏黎明期系図 それぞれの特徴
上記の系図をA~Dの4つに分類
1.滋野通記
2.寛政重修諸家譜
3.真武内伝
清和天皇の四男である貞元親王が家系の始まり。
貞元親王の子である善淵王が「滋野」姓を名乗り始めた。
善淵王から、およそ数代後である海野廣道が「海野」姓を名乗り、海野の地に住み始めた。
真田氏を海野氏の直系。
4.浅羽本信州滋野三家系図

海野長氏は棟綱よりも、およそ15代前、鎌倉時代の海野氏当主。
海野幸春(うんの ゆきはる)が海野氏から分かれて「真田」姓を名乗り、真田七郎として真田の地に住み始めた。

5.良泉寺矢沢系図 海野棟綱の娘と真田頼昌の子供が幸隆である。
幸隆が生まれる前から真田氏が存在している。

6.白鳥神社石和家海野系図 海野棟綱の娘の子供が幸隆である。
7.飯島家滋野正統家系図 海野棟綱の娘を幸隆が妻として迎えた。
…海野棟綱または幸義の子供として、幸隆を真田氏の開祖としている。
BC幸隆が生まれる前から真田氏が存在していたことを示している。
…幸隆が真田氏の子供である可能性を示している。
…もともと幸隆が真田氏である可能性を示している。

その後の真田氏の家系図は「真田氏家系図」をご覧ください。

現時点での総括

真田氏のルーツを推測するにあたって

真田氏のルーツ(出自)については、これまでは海野氏から分家として出た真田幸隆によって、真田氏が開かれたと言われてきました。しかし、幸隆以前の系図や伝承が複数有り、最近は真田氏は幸隆が生まれる前から存在していたとする説が有力になっています。これは幸隆が生まれる前から真田姓を名乗っている豪族の名前が史料や真田氏関連の系図に登場していること(このページ内の「真田氏の記録について」で記述)と、幸隆が海野一族を継承した時に本来継ぐべきであった海野姓を名乗らなかったことが主な根拠になっています。
真田氏のルーツにつきましては、謎に包まれている部分が多く、家系などの記録の信頼性に幅広い見解があり、真田氏がいつ始まったのかや、真田幸隆の出生について決定的な史料が無く、真田氏の起源や幸隆以前の家系について様々な推測はできても確定させることはできないのが現状です。
この「現時点での仮説」では、真田氏は幸隆の時に海野氏の分家して開かれたのではなく、幸隆誕生以前から存在していたと言う説に基づいて構成しています。

真田氏が幸隆以前から存在していたと推測できる根拠
大塔合戦、結城合戦という2つの合戦において真田(実田)氏の名前が出ている。
複数存在する家系図の中には幸隆以前に真田氏が存在したことを示すものがある。
真田氏は頼昌の妻に海野棟綱(海野氏当主)の娘を迎えたことを示す系図が存在する。
真田頼昌と海野棟綱の娘の間に何人か子供が生まれ、その内の1人が真田幸隆であることを示す系図が存在する。
現在の真田町に古代の牧場にちなんだ地名、牧場に関連した駒形神社の痕跡、牧場を管理したと思われる館の位置が推定できる地名が1970年代に真田町内で調査確認され、さらにその付近での発掘調査で住居跡が確認された。これは、古代に上田周辺を治めていた大伴一族として真田氏が現真田町の地で国牧を運営していた可能性を示すものである。
幸隆が真田氏を継いだあと、海野氏は1541(天文10)年に起こった海野平の合戦で敗れ、海野一族は吾妻郡へ逃亡。この戦いで、海野棟綱の後継者である幸義が戦死。そして棟綱が何らかの理由で亡くなった後、本来は幸隆は海野の姓を継いで海野氏を継ぐべきところを、幸隆は真田姓のまま海野一族を継承。(幸隆は武田氏連携派であり、結果的に支持を広げることに成功したことも、海野氏一族継承できた要因であると思われる。)
真田姓を名乗りながらも海野一族であることに真田氏が"こだわった"理由は、上野国に点在していた海野一族をまとめて、武田氏のもとで領土を確保したいと言う意図があったため。
清和天皇が滋野三家に別れる前の滋野氏の祖先であるという説がありますが、清和天皇が生まれる西暦850年以前に滋野氏が存在した可能性が高いので、海野氏や真田氏が清和天皇の系譜を次いでいる可能性は大変薄いです。
真田氏は清和天皇の曾孫にあたる善淵王を真田氏の初代としていましたが、清和天皇を家系の始まりとするのは、武士が自らの身分を高く見せるための常套手段だったので、真田氏も皇族から滋野氏、海野氏、そして真田氏へと続く直系で由緒ある家系であることを示すことにより、支配の安定と勢力拡大を目指した。
真田昌幸が上田城を築城した時、真田や海野などから住民を移住させたが、これと同時に海野近くの海善寺や八幡社も上田城から鬼門に当たる方角に移築した。海善寺と八幡社は海野氏館(現東御市本海野白鳥台)でも鬼門の方角に立てられていた可能性が高く、真田氏はこういった慣習も海野氏の手法を踏襲した。
海野一族を真田氏が統率し、海野一族を真田一族に変えるために、清和天皇の家系を利用した。
真田氏のルーツと勢力範囲の推定チャート
  \時代
   \
勢力範囲\
~8世紀後半
~平安時代末期
または
鎌倉時代初期
~1541年
海野平合戦
~真田幸隆による
戸石城攻略直前
~武田信玄
死亡直前
筑摩郡     滋野氏から派生した豪族 上杉氏配下
斎藤氏など
武田氏配下
吾妻郡     滋野氏から派生した豪族 【真田氏】
上杉氏の最前線として機能していた村上氏が逃亡し、川中島合戦が起こる。
真田氏は海野平合戦以来の悲願であった旧領回復を果たした。
川中島付近で武田氏と上杉氏の国境線がほぼ確定したため、武田氏は真田氏に小県郡を拠点に吾妻郡への侵攻を命令した。
小県郡
 ・
佐久郡
【大伴氏】
中央(畿内)から移り住み、支配する。

【滋野氏】
可能性1
滋野氏が大伴氏のもとで勢力を拡大し、地元の大伴氏を吸収した。
可能性2
大伴氏が改姓した。

【海野氏】
滋野氏の主流派が海野氏となり、やがて筑摩郡~小県郡~吾妻郡の辺りを勢力範囲とする。
これが海野氏一族が上州に逃亡後、幸隆が武田氏の下で勢力範囲を拡大できた重要な要因だったと言われている。
【村上氏】
海野平の戦いで海野氏一族が逃亡した後は村上氏(上杉氏配下)の領土となる。
真田氏に砥石城を攻略された後、武田氏との一進一退の攻防を続けたが、結局は越後の上杉氏の下へ逃亡した。
真田
(小県郡内の一部)
【真田氏】
鎌倉時代に滋野氏から分かれた分家の1つが、真田氏(真田七郎)になり真田郷の辺りに住んだ。
※この表は大きな流れを把握するためのものであり、細かい部分は省略しています。
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