武田時代

武田氏の配下ではなかった時代

真田氏は滋野一族の末端に過ぎなかった

戦国時代末期、真田氏は滋野氏一族の海野氏の配下の武将に過ぎませんでした。この頃、海野氏は滋野氏一族の中で最も力を持っていました。

1513(永正10)年、真田幸隆が生まれました。

1537(天文6)年、真田信綱は真田幸隆(25才)の長男として、真田の庄にある松尾城で生まれました。信綱の母は河原隆正の妹です。

1541(天文10)年5月、真田氏が属していた海野氏一族は武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍による圧倒的な兵力によって攻められ、「海野平合戦」起こりました。この戦いで、海野一族は大敗したため、勢力を失った海野氏とともに真田氏も上野国へ逃れ、箕輪城主である長野業正(ながの なりまさ)を頼りました。

上州に逃げた海野一族ですが、そのリーダーであるはずの海野棟綱の動向を記した記録は全く残っていません。
真田幸隆は棟綱に取って代わって海野一族を事実上継承し、このあと真田氏が小県での領土回復を目指してして行動していくことになります。どういった経緯を経て幸隆が海野一族のリーダーになったのかどうかは全く分かっていません。そこには海野一族内での権力闘争があったかも知れませんが、幸隆は棟綱にとって孫であり、海野氏の中で一族を引っ張っていける力のある人間が最終的には幸隆以外にいないと言うことになったのでしょう。その後に幸隆が武田氏の家臣になったことも、幸隆が海野一族を掌握できた要因の一つかも知れません。

小県から逃亡した海野一族は長野氏に対して上田小県内にあった旧領を奪還してくれように頼みましたが、村上氏と全面対決になることを長野氏は避けたため、本気で取り組んでくれませんでした。長野氏が真田氏悲願の真田の庄への復帰に協力的でないことに失望した幸隆は、1544(天文13)年頃、海野一族を率いて武田氏の下で旧領復帰を目指す事を選択しました。

そこで、海野氏一族は勢いがあった武田氏を頼っていくことになりました。

武田氏の配下として、成長していった真田氏

幸隆、武田氏の配下で成果を出し始める

幸隆が武田氏の家臣になったのは1544(天文13)年~47(天文16年)年の間(幸隆31~34才)らしいのですが、詳しい時期は分かっていません。1542(天文11)年の暮れ以降の2~3年の間(幸隆29~32才)という説もあります。どちらにしても、海野平の戦いから5年程度は上州で逃亡生活した後に、幸隆は武田晴信につくことが有利であると判断して、上野から脱出して信濃に入り武田氏の家臣になりました。

海野氏一族をまとめる真田氏にとって武田氏は海野平の戦いで負けた敵であり、武田氏にとっても信用できるのか疑問だった状態での召し抱えでした。

この頃から海野氏一族は真田氏一族へと変わっていきます。

佐久地方を攻略しようとしている最中に武田氏の家臣として働き始めた幸隆は、武田氏の思惑通り佐久地方の豪族を次々に攻略または説得していきました。

信玄は信濃先方衆である馬場民部少輔信房(後に美濃守信治)の指揮下に幸隆を配属し、大井貞清・貞重父子の内山城(長野県佐久市内山本郷)、笠原新三郎清繁の志賀城(長野県佐久市志賀)を攻略しました。

これ以後、海野氏の一支族にすぎなかった真田氏は武田氏の下で小県の領地回復を目指していくことになりました。強力なライバルが大勢いる武田氏の中で成果を出していくだけでなく、海野氏から継いだ一族をまとめていくことも相当大変なことだったと思われます。

時期の詳細は不明ですが、この頃、幸隆は武田氏から岩尾城(長野県佐久市鳴瀬)の城主を任されていたこともあります。

1547(天文16)年、昌幸は真田幸隆の三男として生まれました。母は恭雲院です。 

武田氏、上田原合戦で大敗退

やがて武田晴信は諏訪地方、伊那地方、佐久地方をほぼ制圧し、信濃を北上するために村上氏を攻撃しました。村上氏は海野一族が逃亡した後、小県を支配していたので、真田氏にとって仇のような存在でした。

1548(天文17)年2月14日、武田晴信と村上義清による上田原合戦が起き、地元で詳しい情報を知っている幸隆が信玄の作戦に深く関わりました。しかし、この戦いで晴信の重臣である板垣信方(諏訪城代)などの重臣が戦死、晴信本人も負傷し、武田方は村上方に大敗退してしまいました。

信玄の戸石崩れ

1550(天文19)年7月2日、これから松本地方へ攻め込もうとしていた武田信玄は幸隆に手紙を出しています。それは、村上氏討伐が達成された時には、諏訪形の300貫、横田遺跡、上条付近など計1000貫文の地を与えるというものでした。これは真田氏にとって海野平合戦以来失っていた旧領の回復を意味するものでした。そして、上田原の合戦に続いてこの戸石城攻撃でも地元で詳しい情報を知っている幸隆が信玄の作戦に深く関わりました。
この頃、村上氏は領地争いで北信の高梨政頼と戦っていたので、幸隆は村上氏の対武田戦力が不足している時を狙って、戸石城攻略を有利に進めようとしました。

8月24日、今井藤左衛門・安田式部少輔・大井上野助・横田備中守高松・原美濃守虎胤らが砥石城へ偵察に出掛ける。この日、「長窪本陣から辰巳の方角に、黒雲の中に赤雲が立ち、武田氏にとって不吉な予兆が現れた」という逸話が残っています。
8月28日、信玄は砥石城の近くの屋降(やぶり)と言う場所に本陣を置いた。
8月29日、信玄自ら対史上へ偵察に出る。この日の夕方、今度は「西の方角に赤黄の雲が五尺ばかり立ち、紅にたなびいて消えた」とされ、24日の転変に続き、武田氏の陣中には不安が出てきたという逸話が残されています。

9月3日、武田方は、更に砥石城寄りに陣を構えました。

9月9日から、武田方は村上氏の戸石城への総攻撃を開始しました。この頃、村上氏は高梨氏と交戦していたため、この時を突いての攻撃でした。

9月23日、村上義清が高梨政頼と和睦し、22日から寺尾城を攻められている情報が清野氏から入りました。これを受けて、幸隆は寺尾城へ援軍を出しました。

9月28日、幸隆が武田氏の本陣へ戻りました。幸隆は信玄に寺尾城が陥落した事と、村上義清が全力を挙げて砥石城に向かっているという報告をしました。

戸石城を包囲して1ヵ月、戦いはおよそ20日間つづきましたが、信玄は戸石城を攻め落とすことができず、武田方が勝つ見込みが無くなりました。

10月1日、信玄は全軍撤退を決断し、武田方が諏訪方面へ戻り始めましたが、村上方は逃げる武田方をしつこく追撃し、武田方は大勢の犠牲者を出しました。武田軍本隊はなんとか望月城まで撤退できましたが、その援護をしていた武田氏重臣の横田備中守高松が約1000名の軍勢と共に討ち死にしました。

信玄は上田原の戦いに続いて、この戦いでも村上氏に勝つことはできませんでした。

この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれ、信玄の数少ない大敗北の1つになりました。

重要拠点の戸石城を攻略し、本拠地復帰への道筋できる

東信濃・中信濃をほぼ手中に収めた武田氏の勢いは、砥石崩れがあったとしても衰える事がありませんでした。そこで、これまで強固だった村上陣営も段々と力が衰えてきました。

武田氏の大軍をはね除けた戸石城は、戦争状態でない平時では守備が薄く、翌年の1551(天文20)年5月26日、幸隆による村上方組織の切り崩しが成功して戸石城を真田氏が単独で攻略しました。 このことは武田氏内部で幸隆の存在を大きなものにしていく切っ掛けになりました。 そして、真田独特の組織の切り崩しは真田氏の子供達へも引き継がれていきました。

1551(天文20)年、15才迎えた信綱が初陣を果しました。
この頃、父幸隆が砥石城を攻略したので、この時だったのかも知れません。元服した信綱は、その後、父幸隆の下で武勇を身に付けるとともに、親譲りの才能を開花させていきました。

この砥石城攻略の時点で、信玄との契約により真田氏は旧領にほぼ復帰したと言えますが、熾烈な領土争いをしている村上氏と隣接している状況下では、まだ完全な復帰とは言えなかったようです。

なぜ、砥石城を守る兵が寝返ったのか。それは武田氏の圧倒的な勢い(村上方の中に、武田氏に負けた勢力の無惨な姿の噂話を聞いている者がいる)と真田氏のねばり強い諜略によって成し遂げられたと言えます。

約10年の年月を経て、ようやく真田氏は故郷に戻ってこられたのです。 (幸隆39才)

村上氏を攻略し、上田への進出を果たす

拠点の一つである戸石城を奪われた村上氏だが、まだその勢力は強いものでした。

真田氏による村上組織内部への切り崩し工作と、松本平を攻略した武田氏が北上して西側から村上氏を攻めたことにより、村上方から離反者が続出しました。村上氏は味方が減っていく中、ついに村上氏は本拠地である葛尾城から逃亡し、1553(天文22)年4月9日に葛尾城は落城しました。

4月22日、初めての川中島の戦いが起こりました。信玄はいったん兵を引き体制の立て直しに着手しました。

1553(天文22)年8月5日、武田方は塩田城を攻略し、塩田城に籠もっていた村上義清は長尾氏のもとへ逃亡し、これにより武田氏による東信地方制圧がほぼ完了しました。

武田氏から真田と上田の領地を与えられ、旧領に復帰

村上氏に勝った武田氏は真田など、家臣達に小県の所領を与えました。

1553(天文22)年8月10日、幸隆には秋和の地が与えられ、さらに幸隆が小県郡に定住することが許されました。先に武田氏から約束された諏訪形の地などに、この秋和350貫の地を加えて、真田氏は現在の上田市に広大な領地を獲得し、これが真田氏による上田進出の足がかりとなりました。真田氏はこの後、反抗する中小の部族が入り乱れている上田小県の統一に向けて動き出しました。

昔仕えていた海野氏から受け継いだ悲願であった「上田小県への復帰」を見事に果たしたこの頃、幸隆は信濃先方州の旗頭になったようです。 (幸隆41才頃)

村上氏から奪還した小県郡にある領地に定住することを武田氏から許された幸隆は、その代わりに三男の昌幸と四男の信昌(信尹)を武田氏へ人質に出しました。 昌幸は武藤家、信昌は加津野家へ養子として入って、甲府で武田信玄の家臣として働き始めました。

川中島合戦(川中島の戦い)

武田氏は北信地方への侵攻を続け、1556(弘治2)年に武田氏は家臣に水内や高井などの土地を与えたり、雨飾城を幸隆に陥落させたりしました。

1557(弘治3)年2月、武田方は長尾氏家臣が守る葛山城を陥落させました。これに刺激された長尾氏は反撃に転じ、埴科郡の岩鼻や安曇郡小谷へ侵攻し、領土や家来の分捕り合戦が続きました。

その後、約3年間は武田氏と長尾氏の派手な衝突はありませんでしたが、この間に武田氏は今の長野県松代に海津城(のちの松代城)を築城し、これに幸隆も関わっていたと思われます。

1558(永禄元)年4月、幸隆は雨飾城(現在の長野市松代)の城代を武田氏から任されています。このことは、佐久地方の制圧から長尾氏との川中島の戦いに至るまで、幸隆がいつも最前線で活躍していたことを物語っています。

1559(永禄2)年頃、武田晴信は出家して武田信玄という名を名乗り始めます。

この頃、武田氏は雨飾城付近の平野に海津城を築城しました。これは山本勘助が縄張りを決めたと言われていますが、真田氏も関していた可能性も十分あります。

関東管領になって勢いがある上杉氏は1561(永禄4)年8月、善光寺平を進撃して海津城を眼下に見下ろす妻女山に陣を張り、川中島の戦い最大の激戦である八幡原の戦いが起こりました。(第4次川中島合戦)

幸隆とその長男信綱も参戦し、小山田氏や飯富氏と共に上杉氏の本陣があった妻女山への奇襲攻撃部隊に加わりました。

これを機に幸隆は25才を迎えた信綱は信綱に家督を譲り、信濃先方州の旗頭も信綱が継承しました。信綱は信玄の本陣を固める旗本組の一員として参陣しました。人質として甲府の武田氏へいっていた三男の昌幸も、信玄の小姓として戦いに参加していたようです。

武田氏は、主力の妻女山攻撃隊12000人を妻女山に向かわせ、残りの本隊8000人を八幡原へ配置し、上杉方を背後から攻め、八幡原へ出てきたところを挟み撃ちにする計画でした。(俗に「キツツキ戦法」と呼ばれる。)

信綱は、武田方が上杉の本陣がある妻女山へ奇襲攻撃を仕掛けた時には幸隆を補佐し、信綱は武田氏家臣団の中でも次代を担う若武者としての実力をアピールしました。

9月9日夜、上杉方は妻女山への奇襲を察知し、夜中の内に山を下り、 八幡原方面へ向かいました。

9月10日早朝、川中島一帯は霧に包まれ視界が非常に悪い状況でした。しばらくすると、霧が晴れてきましたが、武田方本隊の目の前に上杉方が姿を現したのです。武田方は慌てて上杉軍を向かい打ちますが、キツツキ戦法で部隊が別れていたため、戦力に差があり、武田方は信玄の弟である信繁や山本勘介などの重臣が戦死したり、上杉方も多数の戦死者を出しました。

この戦いでは、武田方の本陣が切り崩され、上杉隊(謙信が居たかどうか真偽は不明。)が信玄に迫りました。旗本の諸隊がちりぢりになった時でも、昌幸は土屋平次郎昌次とともに、逃げることなく信玄の近習としての務めを果たしました。

この第四次川中島の戦いは、5回起きた川中島の戦いの中でも、最も熾烈を極めた戦いでしたが、勝敗の決着はつきませんでした。

武田氏、吾妻郡への侵攻を始める

吾妻郡は平安時代に滋野氏の勢力範囲だったところで、平安時代の終わりに滋野氏が海野氏・望月氏・祢津氏に分かれた後は、更に細かく家が分かれてそれぞれ領地の争いをしていました。 そして、海野平で海野氏が負けた時には親戚筋と言うこともあって逃亡先になりましたが、この辺りは上杉氏と北条氏が領土争いをしていた地域でもありました。

武田信玄は北信濃をめぐって上杉氏との対立が激しかった頃、北条氏康の嫡子である氏政に娘を嫁がせて、北条氏と同盟を結びました。そして、血縁関係がある北条氏を支援するという名目で、上杉氏の支配下にある上野国へ攻め込みました。

吾妻郡は海野一族の旧領ですし、親戚筋がいるところでもあったので、これは真田氏が領地を増やすチャンスでもあったのです。

1561(永禄4)年11月、武田氏は国峰城を攻略しました。

昌幸は父幸隆譲りの才能を信玄の下でいかんなく発揮し、この頃、元服し、信玄の旗本として、戦いでは使番・検使を務めました。

上杉方の岩櫃城、嵩山城、箕輪城を攻略

1563(永禄6)年9月、ついに武田方による岩櫃城攻めが開始されましたが、岩櫃城は要害堅固であることと上杉氏から救援部隊が来たために、この時幸隆は攻め落とすことができませんでした。

武力による攻略が難しいことから、幸隆は岩櫃城を上杉方として守る斉藤氏の内部組織の切り崩しに取り掛かりました。これが成功して、羽尾氏の息子である海野幸光と輝幸や斎藤憲広の甥である斎藤弥三郎が、斎藤憲広を裏切って幸隆方になりました。

1563(永禄6)年10月、幸隆によって岩櫃城は攻略され、岩櫃城主である斎藤憲広は越後の上杉氏のもとへ逃げました。

岩櫃城の攻略には、幸隆の三男である昌幸(当時の名前は武藤喜兵衛)も戦いに加わっている様です。

岩櫃城を攻略した幸隆は、1565(永禄8)年11月には常田氏・海野氏らの協力を得て、池田氏が守っていた嵩山城を攻略し、武田氏の軍事力と幸隆の采配によって岩櫃城を中心にした吾妻郡に真田氏の新しい拠点ができました。

この吾妻郡での戦いの中で、真田氏は領地ばかりだけでなく、有能な家臣達をも得ることができたことで、真田氏の家臣団の層に厚みがでてきました。そして、真田氏はバラバラだった旧滋野一族を結集させることも推し進めていきました。

1566(永禄9)年、武田氏は上杉氏と激しい戦いを繰り広げながら、吾妻郡を制圧した勢いを保ちつつ、西上野で最も大規模な城郭である箕輪城を攻略し、長野氏を滅ぼしました。この時、幸隆は逃亡時代に世話になった恩義がある長野氏の遺臣たちを召し抱えることもしました。

昌幸に2人の男子が産まれる

1566(永禄9)年、真田信幸が生まれました。母は後に弟信繁(幸村)も産んだ山手殿です。

1567(永禄10)年、真田信繁(幸村)が生まれました。

信之誕生以前に長女である村松殿が生まれていますが、生まれた時期は不詳です。

真田上杉氏と北条氏の間に挟まれた吾妻郡を幸隆が死守

1567(永禄10)年11月、勝頼に待望の嫡子である信勝が誕生した時に昌幸は武田氏の重臣として信玄からの祝いの使者を務めました。この頃、昌幸は足軽大将に昇進し、信玄の家臣としての地位を更に確実なものにしていったようです。

この頃、武田氏は北条氏と今川氏との国交を断絶しました。

1568(永禄11)年12月6日、信玄は駿河侵攻を開始し、信綱は信濃先方衆として弟昌輝と共に参戦しました。

武田氏が北条氏や今川氏との国交を断絶したことで、吾妻郡は北からは上杉氏、南からは北条に攻められることになり、2強に挟まれた幸隆は一気に窮地に立たされました。

信玄は徳川家康と組んで今川氏を攻め始め、この戦いには真田氏から、幸隆の子である信綱と昌輝が武田方として参戦しています。

1569(永禄12)年になると信玄による駿河攻めは激しさを増し、さらに相模の北条氏の本拠地である小田原城へも攻めました。小田原城を攻めた帰りに武田方は北条軍の追撃に遭いました。これが「三増峠の戦い」です。この戦いで幸隆と昌幸も参戦して成果を上げています。
この戦いで、昌幸は検使として馬場信春隊にいました。検使(けんし)とは大将である信玄からの命令と、部隊の様子を、派遣された隊と本陣の間を往復して、情報を伝達する重要な役職です。派遣先の隊長が戦死した場合は、その部隊の指揮を取ることも任務でした。

この頃、信玄は昌幸のことを「わが両眼のごとき者」と褒め称えました。

信玄による積極的な攻撃に耐えかねた今川氏と北条氏は、上杉氏に何度も吾妻郡を攻めて救援して欲しいと迫るが、なぜか上杉氏は要請を無視し続けました。

上杉氏に動かれると、今川・北条への攻撃ができなくなるのを恐れた信玄は、姻戚関係で同盟を結んでいた織田氏に上杉氏の動きを封じる様に要請しました。

1570(元亀元)年10月、上洛計画を進め始めた信玄は、織田・徳川両氏との同盟を解消しました。

徳川家康は上杉輝虎と同盟を結び武田氏への攻勢を強めました。

武田氏は北条氏との対立を解消して徳川氏への攻撃を始めるために北条氏に和睦を持ちかけました。これに対して、北条氏は当主である北条氏康が1571(元亀2)年10月に病死し家督が北条氏政に継がれたことと、上杉氏がいつまで経っても煮え切らない態度が変わらないことに嫌気がさしてこれまでの上杉重視の方針を転換し、1571(元亀2)年12月、武田氏と同盟を結びました。武田氏と北条氏が同盟関係になったことにより、吾妻郡の幸隆は上杉氏だけを相手にすれば良いことになり、より積極的に上杉氏への攻撃をしていくようになります。

1572(元亀3)年3月 、幸隆は上杉輝虎(のちの上杉謙信)と親戚である長尾憲景の白井城を攻め落としました。幸隆は信玄から称えられ、箕輪城で高坂弾正の指示を待つように命じられました。

この頃、幸隆は吾妻郡を、信綱を上田小県をそれぞれ分担していました。

武田氏滅亡と真田氏

上洛を目指していた武田信玄が病死

1572(元亀3)年10月、 武田信玄は上洛を開始しました。
この時、昌幸は足軽大将として騎馬15騎、足軽30人を引き連れて参陣しました。

9月末、信綱は山県昌景とともに西に向かう先発隊(先鋒)として出発しました。先発隊に選ばれたと言うことは、これまでの戦功を信玄から評価された証であり、信綱にとっては大きな名誉でした。

信濃と甲斐の軍隊を結集させ、重臣である山県氏と秋山氏の軍隊を徳川氏の三河と美濃へ攻め込ませ、京の都を目指した西上作戦が本格的に始まりました。

この年の12月には遠江三方ヶ原の戦いで、武田氏は徳川・織田連合軍を破り、家康の居城である浜松城近くまで攻め込みました。

1572(元亀3)年12月、三方ヶ原の戦いで武田軍が徳川軍に圧勝したことに貢献しました。

この頃の功績もあって、信綱は父幸隆とともに武田二十四将の一人になっています。

危機的状況に追い込まれた徳川氏は上杉氏に武田方を攻めるよう要請し、これに応じた上杉氏は1573(天正元)年3月には白井城を攻略し、さらに吾妻郡にも攻め込みました。幸隆は信玄が西に進む中、北条氏に気を遣いつつ上杉氏からの攻撃に対処しなければなりませんでした。

東美濃まで兵を進めた信玄でしたが、翌年の1573(天正4)年3月、持病が悪化しして進軍を指揮できる状況になくなりました。体力の回復を待つために信濃に兵を引き返しましたが、4月12日に信玄は伊那の駒場(現在の飯田市)で病死しました。(信玄53才)信玄の死後、武田家は四男である勝頼が家督を継ぎましたが、勝頼がまだ武田家当主になるには経験不足であると感じていた信玄は自らの死を3年間秘密にしておくように遺言したようです。

北の上杉氏と、西の徳川・織田連合軍が連携して同時に攻めてくることになり、武田氏は信玄の死に対する組織内の動揺を静める間もなく、甲府を出て出兵せざるを得ない状況へ追い込まれていきました。

信玄が亡くなったことで、徳川と上杉から武田氏への攻撃が激しくなり、武田氏の家督を継いだ勝頼やその重臣達は激しい攻撃の中で、組織の空中分解を食い止めようと四苦八苦していました。

昌幸は勝頼の代になっても当主の側近として活動し、最前線で奮闘する武将達に勝頼の命令を伝達するなどして働いていました。

真田幸隆、病死

上杉氏は幸隆が守っている吾妻郡を攻めましたが、このころ幸隆の病気が急激に悪化していきました。
幸隆は信玄の死から約1年1ヵ月後の1574(天正2)年5月19日に岩櫃城で亡くなりました。(砥石城で亡くなったと言う説もあります。)(真田幸隆 享年62才)

幸隆の死後、遺体を調べたところ、幸隆の体には25カ所の傷跡があったと伝えられています。

真田信綱、長篠合戦で弟昌輝と共に戦死

幸隆の死により、信綱が真田氏の家督を継ぎました。

信玄が三方ヶ原の戦いで攻略した長篠城は室賀信俊が守っていましたが、信玄が亡くなった混乱を狙って徳川氏が奪還し、武田氏を裏切った奥平信昌がその城主になりました。この頃、父幸隆を亡くし真田氏の家督を継いだ信綱は、激しさを増した上杉氏からの攻撃から吾妻郡を守るのに苦慮しました。

1575(天正3)年5月、武田勝頼は父信玄の死により凍結されていた徳川攻めを再開し、これに信綱と昌輝が随行しました。武田方は徳川方である奥平信昌が籠城している長篠城を包囲しました。

奥平氏の籠城が限界に近づいてきた5月18日、奥平氏が待ち望んでいた織田・徳川方が設楽原に到着しました。これを知った武田方は設楽原に進軍しました。

信綱と昌輝は右翼を担うことになり、織田方の佐久間信盛隊と対峙しました。

5月21日、戦闘が開始され、馬場隊に続き真田隊200人も連吾川を越えて、柵を巡らして柵の中から鉄砲を連射してくる織田徳川方に突入していきました。織田・徳川方は、当時最強と言われた武田騎馬軍団を陣地に近寄らせない様にするために馬防柵を張り巡らし、1000丁の鉄砲を駆使した先進的な戦法を展開しました。この馬防柵により、武田氏が得意とする騎馬での戦闘ができず、鉄砲による攻撃を受けた武田方の戦況は不利になっていました。

それまで最強と言われた騎馬軍団を中心に猛威をるった武田軍は、組織的な手法でその威力を十分に発揮した織田・徳川連合軍の鉄砲隊に惨敗しました。この戦いで武田氏の重臣である馬場信克・山形昌景・内藤昌豊ら多数の名だたる武将が戦死し、武田軍の戦力は大幅に弱体化していきました。そして、武田方の右翼隊として奮戦していた信綱と昌輝は馬防柵を切り崩す為に、最前線へ突入し、この激戦で設楽原にて戦死しました。この時、昌幸は戦線の後方において総大将である勝頼の本陣周辺で働いていたため、戦死は免れました。(信綱享年39才)

この戦いの後、幸隆の三男である武藤喜兵衛が本来の真田姓を名乗り、真田昌幸として真田家を継ぐことになりました。(昌幸 29才)

真田幸隆の三男である真田昌幸が、真田氏の家督を相続して、武田景勝を支える

真田家を継いだ昌幸は、小県と吾妻を治めるだけでなく、武田氏中枢の一役を担う役割も父や兄の後を継いで引き続き任されました。

信綱とその妻である北の長女は、信之の側室になり、信之の長男である信吉を産みました。

昌幸は武田氏が以前より狙っていた上野の攻略を目指しましたが、武田氏と北条氏の和睦が崩壊し、上野の争奪戦で上杉氏だけでなく北条氏も相手にしなくてはならなくなりました。

1576(天正4)年1月、勝頼は岩櫃城を攻略した時に幸隆率いる武田方に味方した海野幸光・輝幸を、吾妻郡の拠点である岩櫃城の城代に任命しました。これは武田氏の中枢部での働きで忙しい昌幸が岩櫃城代としての役割を十分に果たせないことと、吾妻郡内での反武田勢力を押さえ込む為ではないかと言われています。この時に吾妻郡で真田氏の家臣として働いていた湯本氏・鎌原氏・横谷氏・西窪氏・植栗氏・池田氏を海野氏の配下に入れないようにとも勝頼は海野氏に命じています。

同年9月、昌幸は北条氏政が小那淵城を攻略するなど着々と上野攻略を実行していることを勝頼に報告し、これに対して勝頼は昌幸に北条氏政をより一層警戒して北上野の防備強化を命じるなど、昌幸は武田氏中枢と吾妻郡の両方の最前線で活動していました。

1577(天正5)年、勝頼が北条氏政の妹である桂林院と結婚し、武田氏と北条氏の関係が修復されました。

武田氏が勝頼の代になってまだ落ち着かない頃の1578(天正6)年3月に、上杉謙信が春日山城にて病死しました。(上杉謙信 享年49才)上杉謙信には実の子供がいなかったので、景勝と景虎という2人の養子の間に相続争いが起こりました。いわゆる「御館(おたて)の乱」 です。

御館の乱は、上杉内部の上杉方(景勝)と北条方(景虎)の争いでしたが、結局、景勝が景虎を討伐する形で終結しました。景勝が上杉家を継ぐことになり、翌年の1579(天正7)年には武田勝頼と上杉景勝は盟約を結びました。武田氏は北条氏と組んで上杉氏と敵対する方針を変更し、逆に上杉氏と組んで北条氏と敵対することになりました。これにより昌幸は上野の攻略において、上杉氏からもバックアップを受けられる様になり、これまでより有利に展開できる状況になりました。

沼田城を攻略し、吾妻郡に加え上野に領土拡大

1579(天正7)年、武田勝頼は妹である菊姫を上杉景勝と結婚させました。

1579(天正7)年9月、北条氏政と徳川家康が同盟を結びました。織田徳川連合と北条氏が手を結んだことで、武田氏は東西からの脅威にさらされることになりました。

1579(天正7)年9月、勝頼は昌幸に沼田城への攻撃を命令しました。昌幸は、家臣であり叔父でもある矢沢頼綱に沼田城を正面から攻撃させながら、沼田城に対して利根川を挟んだ反対側にある名胡桃城の鈴木主水と小川城の小川可遊斎を味方に引き入れて、着々と沼田城攻略計画を進行させていきました。

昌幸は勝頼の側近として甲府にいて吾妻から離れてている時、1580(天正8)年5月には矢沢頼綱が上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略で大勝し、沼田城から逃げながらも抵抗していた金子氏・渡辺氏が同年4月に、藤田氏は同年5月にそれぞれ降伏し、沼田城は真田一族のチームワークによって陥落しました。

実は、藤田氏と金子氏は真田氏と内通していたという話もあり、この沼田城攻略で昌幸は武力によった攻撃と同時に敵の組織を内部から切り崩す戦術を採りましたが、これは父幸隆が得意とするもので、その子昌幸も父の戦術を受け継いでいたと言えます。

武田軍が勝った場合、本来なら勝頼が領地の分配を行うはずですが吾妻・沼田方面に関しては昌幸が代行しました。吾妻沼田の統治に関しては、真田氏による独立した権限と基盤が形成されていきました。

武田氏新本拠地である新府城築城

武田氏が勝頼の代になって8年が過ぎた1581年(天正9)年2月、武田勝頼は穴山梅雪の提言に従って韮崎の地に新府城を築き始めました。

信玄の時代には「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」として大金を使う大規模な城郭の建設を行わなかった武田氏が、本拠地としている甲斐国に新府城のような城を作ると言うことは、状況がかなり切迫していることを示していました。

築城には昌幸が普請奉行の一人として抜擢され、何回も吾妻郡と甲斐国を往復しました。

身内組織の分裂の対処に奔走する

昌幸は小県郡・吾妻郡・沼田を統治しながら甲府で武田勝頼を支えなければなりませんでしたが、これには真田氏の結束が重要な役割を果たしていました。しかし、1581(天正9)11月、鎌原氏・湯本氏からの昌幸に、岩櫃城主である海野幸光と沼田城主である海野輝幸が謀反を企てているという訴えがありました。昌幸は叔父であり海野輝幸の子供を養子に迎えている矢沢頼綱に相談しました。これに対し矢沢頼綱は「海野兄弟は血の気が多い武将なので北条に味方をするかも知れない。謀反の恐れが有る以上は早く討伐するのが良い。」と助言しました。

昌幸は悩んだあげく実弟である加津野信昌(真田信尹)に海野兄弟(海野幸光と海野輝幸)討伐させました。海野兄弟の討伐は真田一族の組織固めで大きな意味を持っていました。

武田氏の滅亡と真田氏

1581(天正9)年9月、新府城がほぼ完成しました。

1581(天正9)年12月24日、勝頼は武田氏が63年間にわたって本拠地にしていた躑躅ヶ崎館から新府城に本拠地を移しました。

1582(天正10)年1月、武田氏の家臣で勝頼の妹である真理姫が嫁いでいる木曽義昌が織田氏に寝返る事件が起こり、これが武田討伐の幕開けでした。
武田氏が緊急事態に陥ったことで上杉氏による攻撃が高まりました。岩櫃城にいた昌幸は沼田城主の矢沢頼綱に兵を召集させ、昌幸自身は勝頼のもとへ駆けつけました。

2月、武田勝頼は木曽義昌を討つために諏訪の上原城に陣を進めます。これを知った義昌は織田信長に支援を要請し、織田信忠らによる織田方の軍勢が信濃に侵攻し始めました。
織田方は武田方の下条信氏と小笠原信嶺を駆逐しながら伊那谷を怒濤の勢いで北上し、これにより武田氏を裏切る者が続出しました。
ついに勝頼の従兄にあたる穴山信君(梅雪)までもが徳川方に服属してしまい、そのことに衝撃を受けた勝頼は諏訪から新府城へ引き上げました。

1582(天正10)年3月2日、織田信忠は激しい戦いで高遠城を攻略し、勝頼の弟である仁科盛信を討ち取り、さらに翌日の3月3日に信忠は諏訪に入り、諏訪大社の上社を焼き焼き払った上に高島城を攻略しました。

3月3日、武田方は新府城で会議を開きました。その席で、昌幸は勝頼を岩櫃城に迎え入れる準備をしているので、岩櫃城入城を申し出ましたが、同じく勝頼の側近だった小山田氏や長坂氏が昌幸は譜代家臣ではないため信用できないと勝頼に進言し、勝頼も小山田氏の意見に従ったため、実現しませんでした。この時、昌幸は武田氏に人質として出していた妻子を連れ帰りました。

勝頼は新府城に火を放って、小山田信茂の居城である岩殿城へ向かいました。

3月11日、武田氏にとって戦況は絶望的なものになり、勝頼の側近としていた小山田氏や長坂氏は結局、勝頼を裏切りました。最後の最後でも身内に裏切られた武田勝頼とその嫡子である信勝は残りの手勢約50名と共に生き残りをかけて逃亡しましたが、追っ手に包囲されて天目山棲雲寺近くの田野村にて自害しました。

これにより武田家は滅亡しました。(天目山の戦い)(武田勝頼 享年37才)

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