織田・豊臣時代
武田氏滅亡後、主を転々と変える真田氏
武田氏滅亡後、真田氏は織田氏の家臣になる

実は武田氏が滅亡する直前、昌幸は北条氏の家臣である長尾氏に、北条氏の家臣にして欲しいという手紙を2回出していました。それに対し、武田氏が滅亡した翌日の1582(天正10)年3月12日には武蔵国にある鉢形城の城主である北条氏邦から昌幸に、小田原城主の北条氏直の家臣になるように勧める手紙が届いています。

この時昌幸は、上杉氏と北条氏に支援を求める使者を派遣しましたが、実はわざと織田方に捕まるようにしていました。真田方の使者を捕まえて情報を聴き出した織田方は、昌幸に対して投降を促してきました。真田氏は自分から申し出るのではなく、真田氏の面子を守る形で織田方に付くために、この様なことをしたようです。

できるだけ領地を現状のまま維持したい真田氏・矢沢氏・祢津氏・室賀氏など武田氏の家臣達は、織田氏の家臣になることを選択し、3月15日に織田氏がいる高遠城を訪ねて、服従することを織田信忠へ申し入れています。他の多くの武将は20日に鷲峰山法華寺についた時に信長への面会を求めたのと比べて、昌幸の行動の早さが見て取れます。

3月13日、織田信長は飯田で勝頼の首実検を行い、3月20日には諏訪で徳川家康と領地の分配などを話し合いました。

1582(天正10)年4月、昌幸は織田信長に馬を送ることで、織田氏への忠誠を重ねて表しています。

真田氏は小県郡・吾妻郡・沼田を主な領地として統治を行ってきましたが、自ら自律して大勢力を誇る大名達と張り合うことは自滅を意味していました。ですから、武田氏という主を失った真田氏にとって「新しい主を誰にするのか」と言うことは最重要課題だったのです。

信長は滝川一益に信濃国と上野国を与えたので、昌幸は一益の家臣になりました。これにより沼田城は没収され、織田の直臣・滝川益一の甥である滝川益氏が沼田城主として沼田・吾妻郡を統治することになりました。真田氏は滝川氏の家臣として岩櫃城にいることを許されました。そして、昌幸は長女の村松を人質として信長に差し出しました。(この頃、村松は安土城に在城。)

本能寺の変で信長が自害し、真田氏は北条氏の家臣になる

信長が武田氏を滅亡させてから間もない1582(天正10)年6月2日に織田信長が家臣である明智光秀に謀反を起こされて自害してしまう本能寺の変が起こりました。(織田信長 享年49才)この本能寺の変で信長の嫡子である信忠も二条城にて戦死しました。

清水宗治が守る備中高松城を2万の兵で攻めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は陣中で信長急逝を知り、直ちに毛利氏との停戦協議に入り、清水宗治が切腹することで戦いを終わらせ、大急ぎで信長が滞在していた京を目指しました。(秀吉の中国大返し)

6月6日に備中高松を出発した秀吉は姫路などを経て、11日に尼崎に着陣しました。

6月13日、山崎国での天王山の戦いにて、羽柴秀吉が明智光秀を討伐しました。

織田信長という支配者を失った信濃国は、旧武田氏の領地を巡って北条・徳川・上杉という周辺強豪の草刈り場と化し、北条氏は信濃国の佐久、上杉氏は信濃国の川中島、徳川氏は甲斐国へ攻め込んで、敵味方入り乱れて大変混乱しました。( 天正壬午の乱)

そんな中、昌幸は沼田城を滝川氏から奪還することを計画し、成功しました。更に織田氏の家臣になっていた旧武田家臣団から人材を集め、兵力の増強も行い、今後迫り来るであろうポスト織田の権力闘争に備えました。

1582(天正10)年7月、昌幸は北条氏の家臣になることを北条氏に申し出ました。

徳川氏の家臣になる

武田氏が滅亡した時点で武田方だった佐久の依田信蕃は、遠江で家康に命を助けられて家康の家臣になりました。信蕃は本領である佐久郡芦田に戻った後、信濃の武将達に対して徳川陣営への引き込み工作をしていました。

昌幸の弟である加津野信昌(真田信尹)は武田氏滅亡後に北条氏の家臣となったものの、間もなく徳川家康の家臣になっており、これは信蕃による勧誘に応えたものだったのかも知れません。

東信に拠点を持つ依田信蕃にとって重要な課題は昌幸を徳川氏へ服属させることであり、徳川氏の家臣となった信昌にとっても兄昌幸を徳川氏の家臣にさせることは、徳川の組織内での地位を高める為に必要不可欠なことでした。したがって、この2人による昌幸への勧誘は熱烈なものだったようです。

北条氏の勢力が強い上野国で沼田・吾妻郡を領地にしていた昌幸にとって、北条氏と縁を切って徳川氏の家臣になることは、必ずしも有利なことではありませんでした。しかし、弟と依田氏からの意見や徳川氏の勢いを感じたりしたことで、昌幸は徳川氏の家臣になることを決断しました。

1582(天正10)年9月28日、 家康は自分の家臣になった昌幸に所有している小県郡・沼田・吾妻郡に加え上野の箕輪・甲斐の一部・信濃の諏訪郡の一部などを与えていますが、箕輪は北条氏の領地、諏訪郡は依田氏の領地であったので、いわゆる空手形のようなものでした。つまりこの時の褒美は、それ以前から保有していた領地(沼田・吾妻郡・小県郡)を引き続き保有しても良いという意味のものだったようです。

真田氏が徳川方になったことで、沼田・吾妻郡をはじめとした真田氏の領地に、北条方の勢力からの激しい攻撃が起こるようになりました。この時、沼田城には矢沢頼綱、岩櫃城には16才の真田信幸が城主として守っていましたが、この激しい攻撃を乗り切りました。

上田城築城、そして小県郡統一へ

徳川方の家臣になった頃から昌幸は上田小県の統一に着手し始めていました。強豪の間で生き残りを掛ける間、自らの支配体制も着々と確立していったのです。

1582(天正10)年10月29日、徳川家康は旧武田領の信濃と甲斐で争っていた北条と講話を結びましたが、その時の条件は真田にとって受け入れがたいものでした。
1.徳川傘下の真田の領土である上野の沼田と、北条氏の領土である信濃の佐久と甲斐の都留を交換する。
2.北条氏直と徳川家康の娘(督姫)を結婚させる。

沼田周辺は真田氏と同族である海野氏ゆかりの武士が広く住み、武田氏が隆盛を振るっていた頃でも統治を真田に任せていたところでした。真田氏にとって貴重な領土を、徳川と北条の大国の都合だけで取り扱いを決められしまうことに、昌幸は納得できるわけが無く、これを受け入れることはできませんでした。

1583(天正11)年から昌幸が上田城を築き始めました。上田城築城は徳川氏にとって上杉氏を牽制し、北条氏による沼田・吾妻郡への攻撃に対しても後方支援の要ができる意味で利にかなっていたようですが、真田氏にとっては新たな拠点を作ることで、吾妻郡から沼田に至る領土を新たな拠点で統治して、盤石な体制にしていくために必要不可欠な城でした。特に上杉氏から見ると厄介な場所に近代的な城を築かれてしまうことになり、上杉方からの当然妨害工作がありましたが大きな影響は出ませんでした。

小県統一を目指す昌幸は1584(天正12)年、丸子方面を平定しました。この時、丸子三左衛門が真田氏の配下になりました。

1584(天正12)年7月、昌幸は建設中の上田城に室賀信俊を招き寄せて謀殺しました。川西地方を拠点に活動していた室賀氏は同じ徳川方ではありましたが、小県郡の領有を巡って武田氏の時代から仲が悪かったのです。これにより、小県郡は真田氏により統一されました。

沼田の帰属を巡って徳川氏と絶縁、上杉氏の家臣になる

昌幸が小県郡を統一する少し前、1584(天正12)年4月に徳川家康と羽柴秀吉による「小牧・長久手の戦い」が起こりました。

家康は秀吉との対立に専念するために北条氏と和議を結ぶ協議をし、この協議で沼田を北条氏に引き渡すことが条件に出てきました。徳川と北条の国境である旧武田領の線引きについて、甲斐・信濃は徳川、上野は北条にすることを徳川・北条は取り決めたのです。

1585(天正13)年に入ると、徳川氏は1582(天正10)年に決定した北条氏との和議にあった信濃・甲斐は徳川、上野は北条のものにするという条項を実行することにしました。家康は昌幸に上野にある沼田を北条氏に渡すように命令しました。しかし、滋野・海野一族の時代に領地だった沼田・吾妻郡を、武田氏の時代に父幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、昌幸は家康からの命令には従わず徳川氏と絶縁することにしました。さらに昌幸が北条氏から徳川氏に鞍替えした時の報酬も、不履行になっていることも、その原因であるようです。

上杉景勝は昌幸に味方になる様に働きかけてきました。真田・上杉両者の利害が一致したのです。

徳川氏と北条氏の都合で領地を取られることを避けたい昌幸は、秀吉と同盟を結んでいた上杉氏を頼り、1585(天正13)年7月には上杉景勝から家臣になることを許されました。(7月15日に同盟関係成立か。)

信濃と越後の境界線でその昔、武田方として勢いを誇っていた真田氏が、徳川氏と絶縁して自分の家臣になることは、上杉氏にとって政治的にも戦略的にも優位になる要素があったのです。そして、真田氏が支配していた地域が、上杉側から見て敵対する徳川・北条両勢力との間にあったことも重要でした。

昌幸は弁丸(のちの信繁(幸村)19才)を人質として上杉氏に送り、主従関係は成立しました。信繁は矢沢頼幸と共に上杉氏家臣である須田満親が守る海津城に入り、その後、上杉氏の本拠地である春日山城に入り、上杉景勝と面会しました。この時、信繁(幸村)や側近の矢沢頼綱だけでなく、海野氏・望月氏・丸子氏など総勢100騎程度の真田隊が上杉氏の指揮下に入り、これに対し景勝は矢代左衛門の領地である3000貫内の1000貫を信繁(幸村)に分け与えました。信繁(幸村)の逃亡や戦死を恐れてか、上杉氏は信繁(幸村)自身の出陣を許可せず、上杉指揮下の真田隊は矢沢頼綱により指揮されましたが、景勝の出陣に従い各方面で活躍したようです。出陣は許可されませんでしたが、信繁(幸村)は自分の家臣への知行について、ある程度の裁量権はありました。(この頃、信繁(幸村)はまだ元服していなかったようで、家臣への知行安堵での書状には信繁(幸村)の幼名である弁丸の「弁」が署名されています。)

昌幸は上杉氏を通じて、家康のライバルである秀吉との交渉を望んでいました。

上杉氏にとって、言わば長年の懸案だった真田氏との対立が、真田氏が傘下に入ってくることで解決することは、武田氏滅亡後に徳川氏と北条氏の勢力が強くなってきた状況下では受け入れる価値が十分あるものでした。そこで、景勝は人質であるはずの弁丸を優遇し、松代城を任せました。弁丸(信繁(幸村))は人質の身であるので、(信繁(幸村))は春日山城に居て矢沢三十郎が城代として松代に出向きました。

徳川軍襲来、第1次上田合戦が起こる

1585(天正13)年、この頃に上田城は一応完成したようですが、その後も拡張や改良が進められた可能性があります。

1585(天正13)年7月下旬、家康は自分の命令に逆らった昌幸を討伐する為に、鳥居元忠らに出撃命令を下しました。

7月末、徳川方が上田小県に到着しました。

徳川方の主力部隊は鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉・柴田重政らが主力部隊で、さらに信濃の地侍である保科正直・屋代秀政・諏訪頼忠・依田康国・下条頼安・知久頼氏・室賀満俊らに加え、旧武田家臣である岡部長盛・三枝昌頼らも動員し、約7000人とも8500人とも言われる軍勢が集まりました。

一方、真田方は2000人(うち騎馬は約200騎)だったので、多くの軍勢で戦いに望んだ徳川方はかなり油断があったようです。 (真田方は農民約3000人動員説あり)真田方は更に兵力があったようですが、北条氏による沼田城攻撃に備えるため、上田に戦力を集中することは困難で、沼田城も守らなければならないと言うことでも上杉氏からの支援が不可欠でした。

上田小県へ侵入した徳川軍は丸子城を避ける様にして八重原から長瀬河原を通って国分寺方面へ進入しました。それに対して真田軍は、上田城に昌幸、戸石城に信幸、丸子城と矢沢城に主要部隊を配置して、合戦に備えました。この時、上杉氏からの援軍も海津城から地蔵峠を越えて、上田付近に到着していました。

8月2日、第一次上田合戦の中で最も激戦である神川合戦が起こりました。徳川軍は八重原より進軍し、神川付近で信之隊と一戦交えますが、信之は逃げたふりをして徳川方を上田城へ誘いました。徳川方は、事前に統率が取れていた弓隊と鉄砲隊を後退させ、代わりに人数が圧倒的に多い一般部隊を前方に出し、一挙に上田城に攻め込むことにしました。

真田軍の作戦とも知らずに、3つある入口から上田の城下町へ侵入した徳川軍は勢いに任せて進軍し、大手門を突破し、二の丸(本丸とも)の周囲までの来ましたが堀が深く、門構えも堅固な為に進むことが出来なくなりました。

徳川軍が門を打ち破ろうとしている時に、かねてより準備していた撃退作戦が開始されました。門の入り口付近では通路の両側から大木が降ってくるように仕掛けてあり、大木を束ねていた綱が切って落とされ、徳川軍は大木に潰されました。これと同時に上田城の周囲に集まった徳川軍に向かって、城内から銃や弓による一斉射撃が行われ、さらに至る所から伏兵による攻撃が始まり、統率が取れずに有効な反撃ができないでいる徳川軍は大混乱になりました。この時、城内などから女性や子供も含めた農民も、一斉に徳川方へ投石攻撃や熱い粥を掛けるなどの攻撃を行ったようです。

昌幸はこのタイミングを見計らって追撃部隊を城内から投入し、指揮官のコントロールがきかなくなった徳川軍は撤退し始めました。城下町の路地は混乱した大軍が急いで退却するには大変狭いものであり、混乱に拍車が掛かりました。

徳川方の退路の途中にある科野大宮社付近にも実は真田方の部隊が待ちかまえており、この攻撃を受けた徳川方は完全に総崩れ状態となり、烏合の衆となった徳川方は後方からの真田方による追撃を受けながらも無我夢中で神川を逃げ渡り始めました。科野大宮社付近で待ちかまえていたのは信幸の部隊だったという伝承もあります。

昌幸は神川の上流には事前に簡易的なダムを造って水を溜めておき、徳川方が川を渡っている途中で溜めてあった水を放流させたため大勢が流され、これによっても徳川軍の損害は甚大でした。(ダムを作ったと言うのは作り話で、神川(かんがわ)は大雨で元々増水していて、そこを徳川方が無鉄砲に渡り始めたため、溺死者が多く出たという説もあります。)

昌幸は神川が望める黒坪の河岸段丘上に旗を立て、対岸の徳川方が撤退する様子を見ながら真田方の兵士に労いの言葉をかけ、勝ちどきをあげて上田城へ引き上げました。

信之は戦いに勝利したことを沼田城を守っていた城代に手紙で伝え、その中で信之は去る2日に国分寺で一戦を遂げた事と徳川方を1300人も討ち取った事を書いています。(徳川方である大久保彦左衛門忠教は徳川方の死者は300人だったと書き残しています。) 真田方の死傷者は40~300人程だったと言われています。徳川方である大久保忠教(大久保彦左衛門)は自身の回顧録「三河物語」で、この時の味方の状況について「ことごとく腰も抜け果て、下戸に酒を強いたような」と表現しています。

8月3日、前日の神川合戦で惨敗した徳川方は体勢を立て直すため八重原まで陣を後退させ、真田氏の家臣である丸子三左衛門が守る丸子城や尾野山城も攻めましたが、真田氏への援軍である上杉方が前面に出てきたこともあって陥落しませんでした。

8月20日、徳川方は小笠原氏・下条氏・飯島氏・松岡氏といった信濃の家臣達に出陣を命令しました。丸子城付近の丸子河原で再び徳川方と真田方が衝突しましたが、丸子城は陥落せず、徳川方は撤退しました。

9月、真田氏が上田から十分な援軍を送れないこの時を狙って、北条氏直の大軍が沼田城を攻めました。真田氏は上杉氏に支援を要請し、上杉氏は人質として信繁と一緒に越後に来た矢沢頼幸を沼田に派遣し、さらに援軍も送りました。9月29日、北条氏直の軍勢は撤退し、真田氏は上杉氏からの支援を得ながら沼田を守ることができました。

9月下旬、徳川方は小諸城に陣を移して、佐久・諏訪方面の安定を図りました。そして、小諸城に駐留していた徳川方に、援軍である井伊氏5000人の部隊が到着しました。

昌幸は上田城に籠城している最中に羽柴秀吉へ支援を要請し、秀吉はこれに応える手紙を昌幸に送っています。これに対して、秀吉は11月17日付の手紙で昌幸への支援を約束しています。

11月13日、家康の重臣である石川数正が徳川方を裏切って秀吉方になり、徳川方の情報が秀吉方に筒抜けになる状況が発生しました。家康は石川市の寝返りの影響で体制を建て直さなければならなくなり、真田攻めをさせていた全軍を小県郡から遠江に引き上げさせました。

11月17日、徳川方が遠江に撤退した直後、昌幸には徳川方の撤兵理由が分からず、困惑している事を上杉氏に伝えています。

秀吉は11月19日付けの手紙で、昌幸に石川数正が徳川方から寝返ってきた状況と、家康を来年正月15日に討つことを伝えています。

同日、昌幸は秀吉に対して臣従を誓う書を送りました。昌幸は第一次上田合戦の最中、大谷吉隆を通じて秀吉の家臣となりました。

農民までも動員した真田方にとって徳川方は間違いなく強敵であり、石川氏の一件が無ければ再び徳川方が攻めてきた可能性が大きく、その場合はかなりの苦戦を強いられたと思われます。石川氏出奔にも助けられ、戦力の違いを考えると、結果的に真田方の大勝利になりました。徳川方の損害が1300人という信之が書いた数字はやや誇張されている可能性がありますが、開戦前には予想できなかった事が起きたことは間違いなかったと言えます。

徳川氏との対立で真田氏は上杉氏に頼りましたが、今後は豊臣氏の家臣になる事を選択した昌幸は信繁(幸村)は大坂城に向かわせ人質とし、真田氏は正式に秀吉の家臣になりました。これに対して、上杉景勝は激怒して、秀吉に弁丸(信繁、幸村)を戻す様に手紙で要求しましたが、秀吉はこれを無視しました。

この頃、信繁は真田氏家臣である堀田作兵衛興重の妹(この時は興重の養女)と結婚し、長女である菊を産ませています。

真田氏は、豊臣秀吉の命令で、再び徳川氏の家臣になる
羽柴氏、徳川氏と上杉氏への牽制に真田氏を利用

1586(天正14)年、昌幸は徳川軍がいなくなった佐久郡に攻め入って領地の拡大を図っています。

1586(天正14)年5月、上杉景勝が本拠地である春日山を出て上洛をしました。昌幸は景勝が留守になったこの時を狙って、二男信繁(幸村)や上杉氏指揮下にあった真田隊を上田に呼び戻しました。

5月、沼田をどうしても自分の領地にしたい北条氏は再び大軍で沼田城を攻めましたが、矢沢氏はこれも撃退しています。

7月17日、家康は再び昌幸を討つため駿河まで兵を進めましたが、秀吉が仲裁に入って家康による真田討伐を延期させした。

家康を討伐すると公言していたはずの秀吉は、家康との軍事的衝突を避ける方策を執り続けました。そして、真田氏に対する秀吉の態度が急変し、8月3日に秀吉は上杉景勝へ「真田は裏表のある卑怯者なので成敗しなければならない。お前は真田への支援をしないように。」と指示すると同時に秀吉は家康の家臣である水野惣兵衛に対して、家康自身が動いて真田氏討伐をするよう働きかけました。昌幸を形容する時に用いられる「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」は、この時、秀吉によって作られたものです。

9月25日の時点で秀吉は「真田は裏表のある者だが、成敗は一応やめる」と上杉景勝に伝えるなど、秀吉の真田氏に対する姿勢は二転三転しました。

秀吉は、家康の面目を保つために真田氏への攻撃を推奨する様な言動をしていましたが、実際は秀吉による時間の引き延ばしにより、家康による真田攻めの効果は薄くなっていきました。秀吉は、徳川氏と上杉氏への牽制に真田氏を利用していた可能性があります。

秀吉が真田氏に対する態度を二転三転させたのには、徳川氏との関係が大きく関わっていました。天下統一を目指す秀吉にとって徳川氏の存在は決して小さなものではなく、いつまでも敵対し続けるのは得策ではなく、一刻も早く自分の家臣にしておかねばならない存在であったからです。家康が納得して秀吉の家臣になるには、徳川氏が北条氏との交渉に欠かせない沼田領の帰属問題があったので、秀吉は家康との駆け引きの中で落とし所を探っていたのです。秀吉は家康を自分の家臣にするため、自分の妹である旭姫や時の母親である大政所を家康に人質に出すなど色々な画策をしました。

10月27日、家康は大坂城に登城し、秀吉の家臣となりました。

豊臣氏の命令により、真田氏は再び徳川氏の家臣になる

11月初旬、秀吉は信濃大名を徳川氏の配下にする事を決めました。

11月4日、秀吉は上杉氏に信濃の真田氏・小笠原貞慶・木曽義昌などの所領を家康に渡すよう命じています。その時、秀吉は上杉景勝に「お前の顔を立てて真田征伐をやめるのだから、そのことを真田によく言い聞かせて、徳川氏に領地を召し出しださせるように。」と真田氏が徳川氏への忠誠を誓うよう、説得するように命令しています。

12月19日、羽柴秀吉は朝廷から太政大臣の地位と豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉を名乗り始めました。

1587(天正15)年1月4日、秀吉は上杉景勝に真田氏を上洛させるように命じました。

昌幸に会った秀吉は、昌幸に対し家康にも会いに行くよう命令し、1587(天正15)年3月18日、昌幸は駿府(今の静岡市、駿府城)の家康のもとへ挨拶に行き、家康の家臣になりました。

1588(天正16)年、秀吉は北条氏政に上洛するよう促しましたが、氏政はこれに従わず、家康に相談しました。氏政はこの時、上洛の引き替え条件として、沼田領を手に入れようともしました。

1589(天正17)年2月13日、信幸は家康がいる駿府または岡崎に行き、徳川家康の家臣になりました。(信幸24才)「雨降。信州真田むす子出仕候」(家忠日記)この日、岡崎は雨が降っていたようです。

この頃、昌幸は信幸を大名として一本立ちさせたようで、沼田・吾妻郡の統治を信幸が担当するようになりました。これ以後、昌幸は上田城を拠点に小県郡、信幸は沼田城を拠点に吾妻郡を担当する体制がしばらく続きました。(父幸隆が、自分は小県、長男信綱を吾妻郡に、と分担したのを踏襲した可能性があります。)

名胡桃城事件により、豊臣氏が北条氏を討伐
昌幸が秀吉の説得を受け入れ、沼田領の3分の2を北条氏に明け渡す

1589(天正17)年7月10日、秀吉が沼田領の帰属問題に対して決定を下しました。それは、利根川を挟んだ東側は北条氏の領地にして、西側を真田氏の領地にするものでした。

昌幸は秀吉の判断に従い、沼田城を含む沼田領の3分の2を北条氏に明け渡しました。その代替地として家康は真田に伊那郡箕輪の地を与えました。

名胡桃城を含む上野の3分の1と吾妻郡はそのまま真田氏の領地となり、父幸隆の代から培ってきた上野での基盤は一応失わずに済んだ格好になりました。

名胡桃城事件が秀吉による北条討伐に発展

秀吉の家臣になることの引き替えとして沼田を手にした北条氏ですが、沼田領引き渡しから3ヵ月を過ぎても、大坂へ上洛して家臣になる儀式をする事はありませんでした。

1589(天正17)年11月3日、北条方で沼田城を任されていた猪俣邦憲の軍隊が真田氏の名胡桃城を攻略し、吾妻郡まで侵攻する事件が起こりました。名胡桃城を真田氏から任されていた鈴木主水の補佐をしていた中山九郎兵衛が猪俣邦憲からの誘いに乗り、北条氏による名胡桃城乗っ取り作戦が決行されました。

北条方は鈴木主水に対して、昌幸から上田への呼び出しが掛かったかの様な手紙を送り、名胡桃城から鈴木が居なくなったところを中山が手引きをして北条方の軍勢が名胡桃城に入りました。

鈴木が矢沢氏が居る岩櫃城に立ち寄って、上田へ呼び出されたことを伝えると、それを聞いた矢沢氏が不審に思い、鈴木に名胡桃城へ戻るように言いましたが、その時はすでに北条氏に乗っ取られた後でした。これにより名胡桃城の城主だった鈴木主水は責任を感じて切腹しました。

昌幸からの訴えに対し秀吉は真田氏に支援する意志を伝え、これが秀吉による小田原攻めの発端となりました。これが名胡桃城事件です。

11月24日、小田原攻めが決定されました。

秀吉による北条討伐が実行され、豊臣秀吉により天下統一が実現

名胡桃城事件が起きた翌年の1590(天正18)年2月、秀吉は小田原攻めを行うために出発しました。これに次男信繁(幸村)も小田原へ秀吉の小姓として随行しました。豊臣方は総勢約20万でした。

この戦いに真田昌幸と信幸は、北条氏を北西から攻める前田利家・上杉景勝の北陸連合軍に加わり、その先鋒として参戦しました。

3月18日、北陸連合軍は碓氷峠にて北条方の大道寺政繁を破り、28日には大道寺氏の本拠地である松井田城を攻め始めました。

4月に入り、西牧城と厩橋(前橋)城を陥落させました。

4月20日、北陸連合軍は北条政繁の松井田城を陥落させ、次いで4月24日には箕輪城を攻略しました。

北陸連合軍は北条氏一族が陣取る城が密集している武蔵国に侵攻し、川越城・松山城・鉢形城城・八王子城を陥落させ、忍城を包囲しました。

7月5日、秀吉軍がついに小田原城を陥落させ、北条氏政が切腹し、北条氏は滅亡しました。

7月16日、北陸連合軍が包囲していた忍城が陥落しました。

最期まで豊臣秀吉に従わなかった北条氏が滅亡したことで、秀吉による天下統一が達成されました。

(信繁(幸村)がどのような形で北条討伐に参加していたのか、詳細は不明ですが、この頃、次男信繁(幸村)は大谷吉隆を通じて秀吉の家臣になり大坂にいたようで、秀吉に随行して小田原にいたという説があります。別に父兄と合流して北陸連合軍に加わっていたという説もありますが、本サイトでは秀吉随行説を採用しています。どちらにしても、北条討伐が真田信繁(真田幸村)にとっての初陣だったようです。)

真田氏、豊臣方と徳川方の両方と縁組みをし、豊臣氏最盛期を生きる

秀吉、天下人として国替えに着手

1590(天正18)年、天下統一を果たした秀吉は諸大名の国替えに着手し、北条氏の領土だった所は徳川氏のものとなり、信濃の諸大名は関東などへ移され、変わって秀吉の家臣である仙石秀康が小諸、石川康政が松本の領主になりました。

そんな中、昌幸は例外的に国替えの対象から除外されました。これは、昌幸が前田氏や上杉氏同様に秀吉の直臣であるとの判断があったからで、秀吉はさらに吾妻郡を含む沼田領も昌幸に引き続き領有を認める方針であることを家康に相談し、それを家康も了承しました。それまでの働きから真田氏は秀吉の家臣として、秀吉から直々に小県と沼田の領地を与えられたことで、豊臣政権での大名としての地位が確立されました。

1590(天正18)年、北条氏滅亡後のこの頃から信濃諸大名による大規模な城郭の普請が行われ、慶長初年頃までに松本城などの信濃の代表的な城が完成しました。

(豊臣氏から、移封を免除されたり、沼田領地において格別の計らいを受けた真田氏も、これら周囲の城郭近代化に合わせて、上田城でも金箔で装飾された5層程度の天守・複数の櫓で囲まれた曲輪・豪華な御殿など、大規模な整備事業を進めたものと思われますが、関ヶ原合戦後に真田氏が築城し上田城は幕府によって破壊されたため、現在その頃の上田城の状況は謎に包まれれています。)

信幸が家康の養女と結婚し、真田氏と徳川氏は親戚になる
1590(天正18)年、昌幸の長男である信幸は本多忠勝の娘で家康の養女である小松と結婚し、真田氏は徳川氏と縁戚関係を結びました。長男に徳川方の女性と結婚させる事は、真田氏が徳川氏との距離を保つ事に非常に重要な事でした。これが、後々の、真田氏の運命を左右する事になります。
朝鮮出兵が始まる

1591(天正19)年、秀吉による朝鮮出兵の計画が動き出し、肥前名護屋城の築城が始まりました。

1592(文禄元)年、日本軍が朝鮮半島へ出撃し、文禄の役が起こりました。

真田氏にも出陣が命じられ、名護屋在陣部隊700名・朝鮮半島へ向かう部隊に500名を出すことになりました。これを受けて1592(文禄元)1月、信幸は上州吾妻郡の家臣、田村雅楽助に朝鮮出兵を命じました。

肥前名護屋城に昌幸・信幸それぞれの陣屋跡がありますが、実際に真田氏からの兵が朝鮮出兵でどのように働いたのかは記録が残っていないので不明です。

1593(文禄2)、朝鮮出兵が休戦になり、文禄の役が終わりました。

信繁(幸村)が大谷吉継の養女と結婚し、真田氏と豊臣方の縁が深まる

1594(文禄3)年、次男信繁(幸村)が大谷吉継の娘と結婚しました。これにより、昌幸の長男信幸は徳川方、二男信繁(幸村)と、豊臣方、徳川方、それぞれの幹部の娘と結婚したことになり、これも真田氏生き残りの手段でした。これが、1600年に起きる関ヶ原の合戦や、それ以後の真田氏の命運において重要な意味を持ってきます。

豊臣時代最盛期の中、朝鮮出兵失敗、秀吉の死

1594(文禄3)年、秀吉の伏見城普請に真田氏も動員されました。(人足役1680人分)

1594(文禄3)年4月、秀吉の養子である豊臣秀次により、昌幸に諸大夫の官職が授けられました。

1594(文禄3)年11月、信幸に従五位下伊豆守、信繁(幸村)に従五位下左衛門佐の官職が授けられました。

1595(文禄4)年1月、秀吉は草津での湯治を計画し、真田氏などの信濃諸大名に座所の普請や経路の警戒を命令しましたが、入湯は実現しませんでした。

1595(文禄4)年、この年の豊臣秀吉の朱印状に「上田 さな田安房守居城」と書かれており、これが「上田」という名称が城郭名および町名として確実な史料に残る最古のものです。

1597(慶長2)年、朝鮮出兵が再開され、慶長の役が起こりました。

1597(慶長2)年、沼田城で信幸の長男である信吉(のぶよし)が生まれました。母は真田信綱(真田幸隆の長男)の娘説が有力とされています。(小松殿説もあり)

1597(慶長2)年、信幸の次男である信政(のぶまさ)が生まれました。沼田城で真田信之とその正室小松の間に生まれました。

1598(慶長3)年4月、秀吉が計画して実現できなかった草津での湯治を前田利家が行いました。草津は真田氏の領地だったので、真田氏が前田氏を受け入れる準備をしたと思われます。

1598(慶長3)年8月13日、秀吉が伏見城で病死しました。(秀吉62または63才)このとき信幸は伏見城にいました。

秀吉は遺言で、息子の秀頼を後継者とした形で五大老(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家)と五奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による合議制での政治を執り行うよう命令しました。

秀吉の死により朝鮮出兵は中止され、慶長の役は終わりました。

秀吉の死後、家康は独断での行動が目立ち始め、五大老や五奉行奉行の中で孤立を深めていきました。

1599(慶長4)年、秀頼が大坂城に入城し、秀頼を前田利家と石田三成が補佐しました。この頃、真田氏は昌幸と幸村は家康がいる伏見にいました。

1599(慶長4)年3月、五大老の中で最も秀吉から信任されていた前田利家が逝去しました。(前田利家 享年63才)

利家の嫡子である利長は家康に従う意向を示したため、豊臣方の力が弱まり、家康に主導権が移り始めました。

真田氏、豊臣方と徳川方に分裂する
合議制による豊臣政治を徳川氏が壊し、上杉討伐に乗り出す

秀吉の病死後、真田氏は家康に従って行動をとっていました。

1600(慶長5)3月、家康が伏見から大坂に移ると、それに伴い真田氏も伏見から大坂に移りました。家康は大阪城二の丸に自分用の天守を建てたため、豊臣氏の権威は目に見えても衰えていくのが分かるほどでした。

多くの大名に対して家康の影響力が強くなり、これまでの合議制による豊臣政治が崩壊しました。

五大老は各所領に帰国し、徳川氏との対立を深めていきました。

特に上杉景勝は家康に反抗する姿勢を示し、領地である会津に戻り籠城に近い状況になりました。

6月16日、五大老の中で家康の上洛命令に従わなかった上杉景勝を討伐するために、家康は大坂から関東へ約6万の大軍を率いて向かいました。(会津征討)
家康は自分が大坂から離れると反徳川勢力である石田三成が挙兵することを確信していたようで、徳川軍は反徳川の勢力が兵を挙げるかどうか様子をうかがいながら東に進み、秀吉恩顧の大名であった福島正則・黒田長政・細川忠興・堀尾忠氏・浅野幸長・池田輝政らも家康に同調し、江戸に集まり出しました。

上杉討伐から関ヶ原合戦へ

家康が上杉討伐に出掛けた頃、三成は秀吉恩顧の大名に対して徳川討伐の挙兵に協力するよう要請をしています。会津の上杉氏と西国の大名で挟み撃ちにする意図がありました。これは関ヶ原合戦が起こる切っ掛けになりました。

7月に入ると、石田三成は佐和山城から大坂城へ移り、かつての五奉行衆に名を連ねていた増田長盛・長束正家・前田玄以らと共に秀頼を擁立して兵をあげました。しかし、増田長盛は徳川方のスパイだったので、西軍の情報は筒抜けだったようです。

7月19日、西軍の宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋らは家康の留守居役である鳥居彦左衛門が守る伏見城を攻撃し、関ヶ原の決戦に向けて大きな戦闘が始まりました。

信幸は江戸まで兵を率いて将軍秀忠のもとへ参陣し、1600(慶長5)年7月19日、他の徳川家臣とともに徳川本隊として江戸を出発しました。

7月20日、昌幸・信繁は下野の犬伏宿に着陣し、秀忠隊も宇都宮に着陣しました。

7月21日、犬伏宿にて待機していた昌幸へ石田三成から7月17日付の密書が届きました。その手紙は豊臣氏の奉行である長束正家(なつか まさいえ)・増田長盛(ました ながもり)・前田玄以らの連名があり、豊臣家をないがしろにする家康を討伐するために西軍へ加わって欲しいというもので、密書を届けた使者からは昌幸の娘婿である宇田頼次と信繁(幸村)の義父である大谷吉継が西軍に入ったという事を聴きました。

れを受けて昌幸は、秀忠本陣付近にいた信幸を呼び寄せて、犬伏のとある民家の離れに呼び、真田父子3人で今後の行動について話し合いました。この時、話し合いが長くなっていることを心配した家臣が様子を見に行ったところ、それに気が付いた昌幸は「誰も来るなと命じたはずだ。」と怒鳴り下駄を投げつけ、その下駄が顔に当たって家臣の歯が折れてしまったと言う逸話が伝わっています。

真田父子3人で話し合った結果、昌幸は過去の経緯から家康に対して信頼感を持つことができず豊臣方になることを選択し、長男信幸は正室が本多忠勝の娘で徳川家康の養女であることや、徳川氏の家臣として沼田領の領主になったという経緯もあったため、徳川方につきました。次男信繁(幸村)は豊臣氏の家臣であり、正室である竹林院の父である大谷吉継が石田三成からの説得で豊臣方になったことともあり、父昌幸に従いました。

その結果、昌幸と信繁(幸村)は豊臣方へ、信幸は徳川方へと別れて、それぞれ西軍と東軍に入り、親子で敵対する陣営に別れてでも、武士としてそれぞれの立場を保ちつつ真田氏の家系と領地は守らねばならないと判断したのです。

信幸は会談後すぐに秀忠のもとを訪ねて、父弟が西軍に入った事を報告し、自らは東軍に入る意志があるを伝えました。

真田氏が徳川方と豊臣方の東西に別れたことを詠った川柳があります。
「東西にみごろを分ける真田縞 銭づかい上手にしたは昌幸 たね銭が関東方に残るなり」

関ヶ原の戦いに伴い、第2次上田合戦が起こる

1600(慶長5)7月21日、大坂から江戸に着いた家康は、上杉氏を牽制するために江戸を出発し北上しました。

7月23日、西軍に加わることを決めた昌幸と信繁は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発しました。

昌幸と信繁は犬伏から上田へ帰る途中で沼田城に立ち寄ろうとしましたが、信幸の妻である小松殿は2人を城に入れるとそのまま占領されてしまうのではと危惧し、昌幸らは入城を拒否されました。長男信之は滞在する宇都宮から小松殿に対して「父弟が沼田に寄った時は城内に入れないように」という指示を、2人が到着する前に出していた可能性があります。

沼田城への入城を拒否された昌幸・信繁(幸村)は、武力で沼田城を攻略することなく、上田へ帰りました。この時、信繁(幸村)が腹いせに沼田城下へ火を放とうとしたところ、昌幸に止められたという話も伝わっています。

西軍にとって、沼田は大坂から上田、さらに会津までの連絡中継点として重要な場所でした。

家康は上杉討伐の先発隊である秀忠と合流し7月24日に下野の小山に着陣しました。

信幸は着陣した家康に拝謁し、東軍に加わったことを報告した上で、嫡子である信政を人質として江戸へ送ることを確約し、忠誠を誓いました。 この時、家康は東軍に入った信幸を大いに褒め称えたと言われています。この時、家康は信之を褒め称えて「吉光の短刀」与え、これは真田氏に代々家宝として伝わりました。

会津や越後などの監視をする為に沼田へ戻った信幸は、4歳だった信政を人質として江戸に送りました。

家康は7月27日付けの書状で、昌幸の領地である小県郡を信幸に与えることを約束しました。

徳川方に石田三成が挙兵する事が伝わり、徳川方は上杉対策は伊達氏と最上氏に任せる事にして、石田三成率いる軍勢(これより西軍と呼ぶ。)を討つために、西へ向かう事になりました。(徳川方をこれより、東軍と呼ぶ。)

7月25日に徳川氏率いる東軍は、石田三成を中心とする西軍に対して合戦を挑むことを小山にて話し合い、本来、秀吉恩顧の大名である福島政則・池田輝政らが先発隊として西に兵を進みはじめました。この2人の武将は石田氏と仲が悪かったので、東軍になりました。この時、信幸も会議に参加するため、小山にいたものと思われます。

家康は江戸に戻って諸大名に向かって自分へ味方するように連絡を取りつつ、周囲の状況を伺っていました。このことは、家康が東軍である福島政則らかつて秀吉恩顧であった大名を完全に信頼しきっていた訳ではなく、大坂を出発した時から上杉氏と伊達氏の行動を注意深く見守りつつ、味方の中にも分裂の要素が多分にあった事を物語っています。

東軍が、上杉氏から背後を突かれて大損害が出る可能性は、伊達氏が東軍に入ったことで、ほぼ解消され、東北では伊達氏と上杉氏が対立する構図が固まりました。

西軍として行動するために上田へ戻った昌幸は、三成に対して挙兵について事前に相談がなかったことを三成に手紙で怒り、さらに8月に入った時点でも三成西軍へ正式に加わるという返事を昌幸は出しませんでした。三成を焦らす事で西軍での真田氏の重要性を強調するためだったようで、信幸が東軍になったことも8月に入るまで西軍には伝えていませんでした。その間に三成は昌幸を西軍に引き入れるため、何度も昌幸宛に書状を書いています。

7月30日付の書状で三成は、今回の決起の事を事前に昌幸へ相談しなかったことを詫び、8月10日付では信州のみならず甲斐までも昌幸に任せることを西軍幹部で決めた事を書くなど、三成の昌幸に対する気遣いは日に日に高まっていきました。

8月10日、石田三成が大垣城に入城し、東軍との衝突に備えました。

8月21日、信之は会津と上田の中間に位置する沼田で国境の警備を指揮するために、沼田に戻るため出発しました。

福島らの東軍先発隊の活躍を知った家康は、上杉氏への牽制で宇都宮に留めておいた秀忠軍に西へ向かうように命令しました。秀忠は家康の後継者であり、事実上の徳川方本隊であったと思われます。

秀忠は東西決戦が行われるであろう尾張方面に向かう途中で、信濃の諸大名で唯一西軍に加勢した真田昌幸・信繁(幸村)を征伐をすることになりました。この時、沼田にいた信幸にも昌幸・信繁(幸村)討伐に参加するように命令が出ました。

秀忠に従い討伐に参加した主な武将は、本多正信・榊原康政・大久保忠隣・大久保忠常・本多忠政・酒井家次・奥平家昌・菅沼忠政・牧野康成・戸田一西・小笠原忠成・石川康長・諏訪頼水・西尾吉次らに、信濃の外様大名である森忠政・仙石秀久・真田信幸らも加わりました。

家康から秀忠の補佐役を命じられていた本多正信は真田討伐について反対しましたが、これを秀忠は聞き入れなかったと言われています。

8月23日、福島政則・池田輝政ら東軍先発隊が岐阜城を落としました。
そして、先発隊は大垣北方の赤坂まで兵を進めて、家康が来るのを待ちました。

8月24日、秀忠は沼田で警備していた信之に対し上田城攻めを行うので参陣せよと命令し、秀忠隊約38000人の兵は真田昌幸・信繁(幸村)がいる上田城を目指して宇都宮を出発し、中山道を西へ進み、8月28日には松井田に到達しました。

同じ日、東軍先発隊は岐阜城を陥落させ、さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも東軍は勝利しました。

福島政則ら東軍先発隊の快進撃や西軍への内部工作の進展、そして上杉と伊達が動かない事など、自分に有利な状況が整ったと感じた家康は9月1日になって、ついに江戸城から約30000人の兵を率いて東海道を西へ進み始めました。

9月1日、秀忠隊は碓氷峠を越え軽井沢に着き、9月2日には道案内役の信幸と共に小諸城に着陣しました。

真田信幸と本多忠政を上田へ派遣して降伏を勧告しました。忠政は小松殿の兄であり、信幸にとって義兄でした。

信濃国分寺で真田方と徳川方による会議が行われました。

9月3日、上田城で籠城している昌幸が信幸を介して秀忠に降伏してきましたが、翌日9月4日に昌幸の降伏は嘘であることが判明し、時間稼ぎであることを知った秀忠は森忠政に真田氏への攻撃を命じました。

これにより、秀忠が率いる東軍本隊と真田昌幸・信繁(幸村)父子による第二次上田合戦が始まりました。 (秀忠22才)

攻める徳川秀忠隊の3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だったと言われています。

信幸は秀忠から信繁(幸村)が守る戸石城への攻撃を命じられ、あわや兄弟対決になろうかという場面でしたが、9月5日に兄弟対決を嫌った信繁が(幸村)が戸石城から上田城へ退却し、それは回避されました。

信幸はまず、信繁(幸村)が退却した戸石城に隣接した伊勢崎城に入り、続いて戸石城に入りました。

これに伴い秀忠は味方である信幸が入った戸石城を背にして、上田城と向かい合う位置にある染屋に陣を構えました。

9月6日、秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発しました。

上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきました。

真田方の兵を追って、刈田をしていた康成の嫡男である忠成の部隊が、挑発に乗って上田城の城壁近くまで押し寄せました。

この瞬間を狙っていた真田方は城内から一斉射撃を始めました。

上田城内から真田の部隊が出てきたのを見て、人数で勝る秀忠隊はこの挑発に乗ってしまい、上官が攻撃を制止してももはや止めることはできませんでした。秀忠軍は上田城の周りへ押しかけましたが、城内からの一斉射撃を受け大きな損害を出しました。

昌幸と信繁(幸村)は徳川方を挑発する様に40~50騎を率いて上田城外へ偵察に出ました。これを知った秀忠は依田肥前守の鉄砲隊に攻撃させ、昌幸と信繁(幸村)は交戦せずに城内へ引き揚げました。

真田氏の策略によって徳川方は混乱に陥って敗退し、戸石城までも真田軍に奪還されるなど、上田城周辺で激しい攻防戦が繰り広げられました。人数で圧倒的有利な状況であるはずの徳川方が混乱し、敗走する部隊が出る中で徳川方の槍の達人7人が真田氏との戦闘で目立つ戦果を収めたようで、この武者達には「上田七本槍」と言う異名がつきました。

徳川方は大混乱に陥り、多くの死傷者を出して神川を越えて撤退し始めました。

本多正信は軍令違反をした部隊を厳しく処分し、大久保忠隣の旗奉行である杉浦文勝、牧野康成の旗奉行である贄掃部(にえ かもん)に切腹を命じました。文勝は命令に従い自害しましたが、掃部は康成から逃亡を黙認されました。これにより康成は軍列から外され、後にこの責任を問われて領地を没収されました。

9月7日になると秀忠は上田攻撃を中止し、小県郡から小諸城に退却しました。

真田氏に対しては、最小限の抑えの部隊を残して西を目指すべきという本多正信などの意見と、真田氏に恥をかかされたため上田城を陥落させるまで戦うべきだという意見で、秀忠隊は2つに割れました。

その後も再度の大規模な攻撃を検討しましたが断念し、9月11日(8日説も有)、石田三成側との本戦に間に合わなくなることを危惧した秀忠は真田氏討伐をあきらめ、西に向けて小諸城を出発しました。

秀忠軍は真田の勢力が支配している和田峠を避け、大門峠を越えて諏訪経由で木曽へ向かいましたが、仙石秀久・石川康長・日根野高吉・森忠政・真田信幸らは上田城への押さえとして小諸城に残りました。

徳川方は家康による第一次上田合戦に続いて、その息子秀忠による第二次上田合戦に際しても、上田城周辺に押し寄せて一斉射撃で叩かれるという同じ失敗を犯したのです。

9月13日、秀忠隊は諏訪に到着しました。

9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する「関ヶ原合戦」が起こりました。

次男信繁(幸村)の妻利世の父大谷吉継は関ヶ原にて戦死しました。

9月16日、秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着しました。

9月17日、佐和山城が陥落し、裏切りが続出した三成が率いる西軍は、家康が率いる東軍に敗れました。

昌幸の五女の夫である宇田頼次は、父頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦しましたが、戦死しました。

この時点で、秀忠隊は関ヶ原から遠く離れた木曽にいました。真田討伐に手こずり失敗した秀忠は結果として関ヶ原合戦に間に合いませんでした。

9月19日、秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着しました。

結局、秀忠が大津城にいる家康隊に合流したのは9月20日でした。秀忠は何日か家康に面会してもらえなかったと伝えられています。

関ヶ原合戦で東軍は秀吉恩顧の大名の力を借りないと勝てなかったため、家康は秀吉恩顧の大名に多くの領地を与えなければなりませんでした。その影響は、幕末、そして明治維新まで及んだと言われています。

昌幸、信繁(幸村)は幽閉、信幸は改名し上田と沼田を引き継ぐ
昌幸と信繁は九度山で幽閉生活を送り、昌幸が死す

昌幸と信繁(幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍秀忠隊の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。

西軍の諸大名から没収された領地は、徳川氏譜代大名や東軍に入った外様大名(豊臣恩顧大名)に分け与えられました。

豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の3カ国66万石の一大名になりました。

家康は西軍として上田城に籠城し、将軍秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた昌幸・信繁(幸村)に切腹を言い渡しました。これに対し、信之は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。これに秀忠が最も抵抗をしましたが 、本多正信からの勧めもあり家康は助命嘆願を受け入れて、秀忠も康政から説得されて、昌幸・信繁(幸村)の切腹は回避されました。

家康は1600(慶長5)年12月上旬、昌幸と信繁に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。

1600(慶長5)年12月13日、昌幸は近い立場にあった16人の家来、信繁(幸村)とその妻子や家来らと共に上田を出発しました。昌幸の正室である山手殿は九度山へは行かず、上田に残りました。 随行した家臣16人は、池田長門守・原出羽守・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵と言われています。(昌幸54才、次男信繁(幸村)は34才)

昌幸の妻である山之手殿は、その後出家して寒松院を名乗り、上田の北に位置する大輪寺で生活し始めました。

幽閉先の高野山についた昌幸たちは、真田氏をはじめとした上田小県の人々が菩提所としていた高野山蓮華定院をまずは訪れました。その後、滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に屋敷を構えて落ち着きました。これは女子は高野山に入れないため、適地を探していたのだと言われています。

一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた信幸に対し、幕府は本領である吾妻郡・沼田領に加え、家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。
9万5000石の大名になった信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前で昌幸から受け継いだ幸の字(諱)を変えて、信幸を「信之」に改めたのです。

2度にわたって徳川氏の攻撃をかわした上田城は昌幸が去った後、本丸や二の丸などの中枢部が徳川氏によって破壊され、信之が入城するまでの間は幕府の命令により佐久や諏訪の領主である諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが城番を務めました。

1601(慶長6)年11月、嫁である小松殿から昌幸の好物である鮭の子が九度山に届き、昌幸は小松殿に礼状を送りました。

1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。上田城の中枢部は利用できる状態ではなかったため、信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。城主が城ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配体制と言います。

1601(慶長6)年、この頃、信繁(幸村)の嫡子である大助(幸昌 ゆきまさ)が九度山で生ました。

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