発祥について
信之が真田氏の立て直しに着手、昌幸と信繁(幸村)は苦しい幽閉生活
徳川家康が征夷大将軍になり、信之は上田城を立て直す

1603(慶長8)年2月、家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開きま、翌年の1604(慶長9)7月17日に徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生し、そのまた翌年の1605(慶長10)4月16日に家康は将軍を秀忠が将軍に譲り、全国に徳川幕府の将軍は世襲制であり、豊臣氏への政権委譲はあり得ないことをアピールするなど、徳川氏の政権基盤の安定化が着々と進んでいきました。
同年7月、家康は孫の千姫を豊臣秀頼(65万7000石)と結婚させました。

その頃、家康から赦免されて自由になる日が近いと信じていた昌幸でしたが、徳川氏と豊臣氏の対立が続く中ではそれが実現しませんでした。

上田城に入った信之は、北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理を1605(慶長10)年から始めました。

1605(慶長11)年には上田城下町の区画整理を完了し、現在に続く原町・海野町の町並みが確定しました。

信之は沼田城の整備にも力を注ぎ、1607(慶長12)、沼田城に5層の天守が建造されました。

真田昌幸、苦しい幽閉生活の中で、死去

昌幸や信繁(幸村)らの生活資金は信之のもとから出ていましたが、大名生活に慣れていた昌幸らにとって満足できる生活ではなく、借金が増え続けることになりました。上田にいる信之からの定額の入金や地元の和歌山藩主である浅野幸長からの贈与だけでは足りず、臨時に必要になったお金の催促や、馬を送って欲しいと嘆願する手紙を数度にわたって昌幸は国元の親戚筋に書いています。

昌幸は関ヶ原合戦以前に、刀の柄巻が切れやすいことから真田紐を自ら編み出して、貞宗の太刀の柄巻にしたと伝えられています。

九度山に幽閉された昌幸らは、その真田紐を量産し、京や大坂で売りさばくことで生計を立てていました。昌幸にとって真田紐を売ることは、単に金銭を稼ぐというだけではなく、政治情勢を収集するための情報網を広げていくという目的もあり、九度山にいながらも政治的復活を目指した昌幸のしたたかな計算もあったのです。

浅野幸長は昌幸・信繁(幸村)が九度山へ来る1ヵ月ほど前に、関ヶ原合戦での戦功により甲斐の国から移ってきました。

幸長の父長政と昌幸は同世代で、共に秀吉の下に仕えていた事もあり、仲が良い付き合いがあった可能性があります。幸長は高野山で幽閉生活を送っている昌幸・信繁(幸村)に対しを複雑な感情を抱いていたいたことでしょう。

昌幸・信繁(幸村)が国元と書状を取り交わしたり、金の無心をする場合は、徳川氏の機嫌を損ねない範囲で融通を利かせていたと言われています。

昌幸が亡くなる直前についての逸話があります。病の悪化で死期が近づいていたことを悟った昌幸は、信繁(幸村)に「かねてより秘策を考えていたが、これを実行に移さず無駄死にするのは、まことに残念なことだ。」と語りました。これに対し信繁(幸村)はその計画を今後のために聴いておきたいと言いました。しかし、昌幸は「とてもお前では無理だ。」と言って計画を打ち明けることはなかった、または計画を打ち明けた後、「計画が優れているか否かではなく、それを真田昌幸が指揮するということが重要であり、将兵が信じて付いて来てくれるのだ。お前は優れた武将だが、無名であるがゆえ不安に陥る将兵も出てくるので、失敗するだろう。」と言ったとも伝わっています。

家康からの赦免を心待ちにして苦しい幽閉生活を過ごしていた昌幸は1611(慶長16)年6月4日、かねてより患っていた病気が悪化、九度山にて逝去しました。(真田昌幸 享年65才)

信之は昌幸を弔うことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得され、大規模な葬儀の挙行は断念せざるを得ませんでした。幕府と豊臣の対立の中で、自分の父親をきちんと弔うことができない厳しい現実に、信之は直面したのです。

豊臣氏への忠誠は昌幸から信繁(幸村)に引き継がれる

昌幸が亡くなった翌年の1612(慶長17)年、昌幸の家臣は一周忌をすませ、少数の家臣を信繁(幸村)のもとに残し九度山から信之がいる上田へ帰りました。信之は九度山で昌幸に仕えていた家臣達に「昌幸御在世中相詰め、別して奉公奇特に候。いよいよ向後身上の儀取り立つべく候。」と感謝を伝え、信之の家臣としての役職と領地を与えました。

同じ年である1612(慶長17)年、信繁の二男である大八(のちの片倉守信)が生まれました。(大八は後に仙台藩で信繁(幸村)の男系の血筋を引き継ぐことになります。)

さらにその翌年の1613(慶長18)年には、昌幸の正室で信之と信繁の生母である寒松院が逝去し、上田の大輪寺に葬られました。

1613(慶長18)年8月、和歌山藩である浅野幸長が38才で病死しました。
真田氏の理解者だった幸長に変わって、その弟の長晟が家康の特命により和歌山藩主になり、これ以後は真田氏に対する監視は厳しくなったものと思われます。

昌幸が亡くなった後でも、信繁(幸村)は再起へのチャンスを待っていました。

大坂冬の陣
鐘銘事件が発端で豊臣氏と徳川氏の軍事衝突が秒読み段階へ

徳川家康は将軍となり、豊臣氏は徳川氏の配下の一大名という位置づけになりました。しかし、豊臣方はあくまで徳川氏よりも格が上であると主張していました。大坂城には膨大な秀吉の遺産が残されており、これが淀殿や秀頼の行動を支えていました。

家康はその大坂城の金銀を豊臣氏に浪費させるために、各地の神社仏閣の建造を秀頼に勧めました。

秀頼にも支持者を増やすメリットがあった為、それに取りかかりました。その中で最も大がかりだったのが、秀吉が生前に創建した方広寺の再建でした。方広寺は大仏殿がある大規模な寺院で、まだ秀吉が存命だった1596(慶長元)年に起きた地震で倒壊していました。

1609(慶長14)年1月に起工され膨大な再建費用が掛けられた方広寺は、1614(慶長19)年の初夏にはほぼ完成し、8月3日には落慶供養(大仏開眼供養)を執り行う予定でした。

しかし、その開眼供養の直前の7月21日になって家康は秀頼にある苦情を寄せてきました。それは 方広寺境内に設けられた釣鐘に刻まれたの鐘銘に不審な点があるというものでした。鐘銘の中で「国家安康」は家康の二文字を切り刻んで呪いを掛け、その一方で「君臣豊楽」は豊臣を繁栄させる願掛けであり、これは将軍家である徳川を呪って豊臣を繁栄させる願掛けであると指摘し、豊臣は天下太平を乱す反逆者だという言いがかりを、徳川氏が言い出しました。これが世に言う「方広寺鐘銘事件」です。

7月26日になって、家康は秀頼に落慶供養の延期を命じました。これを受けて豊臣方は、 家康に弁明するために重臣の片桐且元を駿府城へ向かわせましたが、家康に面会することができず、代わって本多正純が且元に応対しました。

且元は今回の鐘銘の件に加え、牢人(主を持たす、安定した収入を持たない失業した武士。江戸中期以降は浪人。)を大阪城内に雇い入れていることを戦力増強につながるものだとして責められ、秀頼を他国へ移封することを示唆されました。

一方で、淀殿直属の使者として大野治長の母である大蔵卿局と正栄尼は7月29日に駿府城に着きましたが、こちらは家康に面会でき手厚くもてなされました。

近江土山で、且元と大蔵卿局で駿府での成果を話し合いましたが、家康の態度が急激に硬化していることを実感した且元は、「淀殿を人質として江戸へ送る」「秀頼と千姫が江戸に住む」「秀頼を他国へ移封」の3つの内どれかを受け入れなければ家康が納得しないと言うことを、大蔵卿局に言いました。

それを聞いた大蔵卿局は、自分達をもてなしてくれた家康の態度と且元からの情報が大きく食い違っていることに疑問を感じました。

そして、これは且元が家康に豊臣家を売ろうとしているのではないかと思い始めたのです。

且元より先に大坂城に帰った大蔵卿局は、且元が徳川方と内通し、豊臣家に不利な企てを進めていると、淀殿に報告後、豊臣幹部に報告しました。これを受けて9月20日に豊臣方は幹部会議を開き、一連の動きを見ていると且元が徳川氏と内通していることは明白で、討つか追放するべきだということになりました。且元と不仲だった大野治長は且元を討つべきだと主張しましたが、結局追放することを決めました。

徳川方の意志を伝達している且元を追放する言うことは、徳川との交渉を打ち切ることを意味し、これで合戦は避けられない状況になりました。

自らの身に危険が迫っていることを察知した且元は、 10月1日に大坂城から300人の軍勢に守られながら退去し、居城である茨木城に入りました。

豊臣方の一部は茨木城まで追いかけましたが、且元へ多くの応援兵が到着し、大坂城へ退却しました。

真田信繁(真田幸村)に豊臣方より加勢の要請、大坂城に信繁が入る

1614(慶長19)年10月1日、片桐且元を追放し徳川幕府との戦が回避できない状態となった豊臣方は、翌日の2日には秀吉から信頼されていた大名や牢人に味方をするよう、戦に向けた戦力集めを本格的に始めました。世の中の流れが徳川氏に向かっていたこの時点で、豊臣からの誘いに乗る大名は全く居ませんでした。これとは逆に主を持たない牢人は報償と名声を得る為に大坂城に集まり始めました。

九度山で約14年間の幽閉生活を送っていた信繁(幸村)にも豊臣秀頼の命令を受けた大野治長から勧誘があり、その報酬として黄金200枚、銀30貫目、または50万石が約束されていたと言われています。(その前金として黄金200枚、銀30貫目、勝利した時には50万石が約束されていた。・・・との説もあります。)

この頃、幕府でも豊臣攻めのために兵を召集し始め、幕府は信濃・甲斐・関東などの諸大名に対して江戸に参陣するよう命じましたが、兄信之は病気で参陣できないことを幕府に伝えました。これに対し、10月4日に幕府は信之に嫡子である信吉を参陣させるよう命じ、信之の長男信吉と次男信政が矢沢頼幸・鎌原重宗ら重臣と共に幕府方として参陣することになりました。

この頃、真田氏の当主である信之は病床の身であり、出陣できる状態ではありませんでした。小松が実家である本多氏に信之が出陣できる状況でないことを伝え根回しをしてもらった結果、10月4日に出た出陣の命令書には「貴殿ご病気の場合は御息河内守(信吉)殿にご数人をつけて早々に出府されたい」という但し書きが付き、これにより真田氏の面目が保たれました。
長男信吉は次男信政や矢沢頼幸・鎌原重宗ら重臣と共に幕府方として参陣することになりました。(1614年は信之49才、信吉22才、信政18才) 息子2人は小松殿の弟である本多忠朝隊に入りました。この時、小松は2人に随行する矢沢頼幸に「何事についても、くれぐれも気をつけてくれるように」と申しつけました。

10月初旬、長宗我部盛親・後藤基次・仙石秀範・明石全登ら有力牢人や大勢の無名牢人が豊臣方から金銀を受け取り大坂城に入城しました。

豊臣方となって徳川氏と戦う決意をした信繁とその嫡子である大介(幸昌)は、10月9日に九度山を出発して大坂に向かいました。

この時の逸話として、九度山がある和歌山藩主である浅野長晟(ながあきら)の目を盗んで地元の庄屋・年寄・百姓たちを残らず宴会に招待して、彼らが酔いつぶれたところで、彼らが乗ってきた馬を使って九度山を出たという話があります。しかし実際には、地元の地侍や有力者が幸村に同行しているようですから、大坂への準備に際しては地元の強力なバックアップがあったと考えられます。

この紀伊国は雑賀・根来など強力な土豪がいた場所であり、反徳川の勢力が多く、浅野氏の支配下になった後も抵抗が続いていたので、この反徳川の地元民の力が信繁(幸村)を大坂城に送り出したのかも知れません。

地元の農民は酔ってしまって気がつくのに遅れてしまったと言うことにし、浅野氏も信繁(幸村)が屋敷から居なくなっているのを発見した時には、すでにだいぶ時間が経っていたと言うことにして、信繁(幸村)を大坂へ送り出して、武士としての最後の花道を歩かせてやりたかったのでしょう。

1614(慶長19)年10月9日、豊臣方として徳川氏と戦う決意をした信繁とその嫡子である大介(幸昌)は九度山を出発して大坂に向かいました。九度山からの出発は、徳川方からの監視を潜り抜けるため、深夜から未明になったものと思われます。

の時、最初に上田から真田昌幸・信繁(幸村)とともに九度山に随行してきた家臣の中で、昌幸1周忌後も信繁(幸村)のもとに居続けた幸昌(大助)の家老である高梨内記・青柳清庵が信繁(幸村)・幸昌(大助)とともに大坂城への入城しました。信繁(幸村)・幸昌(大助)に随行した側近は、高梨・青柳に三井仁左衛門を加えて3人とする説もあります。さらに平野吉次(学文路村)・高坊常敏(中飯降村)・中橋弘高(政所別当)・小松盛長(丹生川村)ら九度山の土豪や鉄砲に使い慣れた猟師数十人も、信繁(幸村)に随行しました。

九度山を出発した信繁(幸村)の軍勢は約150人でした。

信繁(幸村)が九度山を出た2日後の10月11日、家康が駿府城を出発し、大坂へ向かい始めました。この時、父昌幸の弟である真田信尹が家康に随行しています。

九度山を出て4日後の10月11日前後に信繁と大助が大坂城に着きました。

10月23日、信幸の長男信吉と次男信政が秀忠隊に随行して江戸を出発しました。信之は戦争未経験の息子達に、矢沢・木村・黒田・大熊ら戦争経験者を補佐役として随行させました。

信吉・信政兄弟は大坂冬の陣の際、大坂城のやや東北の方向にある鴫野村付近または大坂城北方の備前島に陣を置いたと言われています。冬の陣は約2000人を率いました。

冬の陣開戦までに上田から海野氏・望月氏・禰津氏など譜代衆数十人が大坂城に集まりました。

信繁(幸村)が大坂へ向かったとの報告を高野山文殊院から受けた金地院崇伝は、信繁が大坂に着いた日の10月13日に本多正純に伝え、翌日14には藤堂高虎にも伝えています。

信繁(幸村)が大坂城に入城したことを聞いた家康についての逸話が伝わっています。
家臣から真田が大坂城に入ったことを聞いた家康は驚き、手を添えていた木戸はガタガタと音を立てながら揺れていたそうです。
そして、家康が「それは親か?子か?」と尋ねると、家臣は「親は病死しているので、大坂城に入ったのは子の左衛門助です。」と言うと、驚いていた家康は落ち着きを取り戻したと言うことです。左衛門佐とは信繁(幸村)が秀吉から賜った官位です。 現実には、家康が昌幸が九度山で病死を知らないはずは無く、これは作り話であることは明白ですが、真田が家康にとって大変厄介な存在であることを的確に表現していると言えそうです。

一方、信之の二人の息子である信吉と信政は秀忠軍に随行して10月23日に江戸を出発しました。

真田信繁(幸村)が大坂城に入るも、今後の方針を巡って対立が起こる

徳川方からの圧力を前に、秀吉恩顧の大名のことごとくが豊臣方からの勧誘を断って徳川方につく状況でしたが、徳川からの圧力が比較的効かない有力牢人は大坂城に集まりました。

豊臣方からの勧誘で集まった有力牢人は、長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)・真田信繁(幸村)・毛利勝永(森勝永)・仙石秀範・後藤基次・明石全登(あかし てるずみ、あかし たけのり)らです。
(大名扱いである長宗我部盛親・毛利勝永・真田信繁を三人衆、そこに後藤又兵衛・明石全登を加えて五人衆とも言われていました。)

大坂城に集まった有力牢人に対して豊臣方幹部は、その個人的な能力だけではなく、昔の家臣達を集めて統率できることに期待していました。これは即戦力が不足していた豊臣方にとって大変重要なことでした。

信繁(幸村)が大坂城に入場した時は、豊臣方にとって大きな戦力としての期待はあったものの、父昌幸の栄光が先行してしまい、信繁(昌幸)自身の能力には懐疑的な見方も多くあったようです。

秀頼の側近である豊臣譜代の大名は戦いに慣れておらず、彼ら有力牢人衆に頼らざるを得ませんでした。しかし、豊臣幹部の間で完全に有力牢人たちを信頼しきっていたとは言えず、立場の違いによる意見対立によって、大胆な戦略を打ち出せずにいました。

10月中旬に開かれた会議で、信繁(幸村)たち牢人衆は、まず秀頼が大坂城を出て天王寺に陣を置き豊臣軍の士気を高めることを提案します。さらに信繁(幸村)と勝永は京都の伏見城に進撃し、京都に火を放った後、宇治と瀬田に布陣し、徳川軍を待ち受けます。一方で 盛親と基次は大和路を東に進み、徳川軍を食い止めます。そうすることで、豊臣恩顧の大名が多くいる西国と徳川方が多い東国を分断し、徳川方になびいている大名を豊臣方に引き入れて大坂城に戦力を結集させようと言う思惑でした。

それに対し、治長など豊臣幹部は秀頼の出陣は論外だと主張、さらに籠城することが現状では最も有利だと結論づけたため、徳川方の体制が整わない今を狙って出撃したいという牢人衆の意見は、秀忠の側近である大野治長ら重臣によって却下されて、豊臣軍は大坂城に籠城することになりました。

豊臣方からの要請で大坂城に入った信繁でしたが、豊臣幹部の間で信繁に対する評価は複雑でした。関ヶ原合戦での戦功で評価されている一方で、兄信之を通じて徳川方と内通し裏切り行為をするのではないかとの不信感もあったのです。信繁(幸村)が提案した大胆な戦略が受け入れられなかった背景には、こうした疑心暗鬼が大阪城内に渦巻いていたことを表していました。

11月上旬、大坂城に集まった牢人は10万人を超えました。

大坂城に真田丸を築く

大坂城から出撃することを断念した信繁は、籠城に備えて大坂城の弱点を補う作戦を提案しました。これは昌幸から受け継いだ自分の持ち味を生かす意味もありました。

大坂城は攻めにくい地形に築かれており、西に横堀、北は天満川、東は大和川・平野川が流れ、さらに自然の河岸段丘を生かした高石垣や土塁に守られていました。しかし、南側の総構えは空堀や土塁で囲われているだけと言う、他の部分に比べて守りがやや手薄な構造になっていました。

信繁は今の豊臣の戦力では、徳川の猛攻で南側の守りを突破される危険性があると感じ、大坂城の弱点である総構え南東部に出丸を築くことを思いついたのです。豊臣幹部は有効な籠城策として、信繁(幸村)からのこの出丸建造の申し出を受け入れました。

これが後に大坂冬の陣で大きな戦功を出すことになる「真田丸」です。

「真田丸」は大坂城本丸から南東に約2キロメートル、総構えの南東端付近に築かれ、南北ともに約200メートル程の規模でした。周囲に空堀と土塁を築き、土塁の上には鉄砲狭間を備えた城壁をめぐらしました。このような出丸は、籠城する場合に威力を発揮する城郭施設で、戦国時代では特に武田氏が好んで城郭に採用していました。真田氏は信繁(幸村)の祖父幸隆と父昌幸が武田氏に仕えていたので、それが信繁(幸村)にも受け継がれていた可能性が大きいです。

真田丸には真田隊約5000人が籠もりましたが、信繁(幸村)や昌幸の旧家臣たちが短期間で軍事訓練で牢人たちを指導し、実戦で十分な働きができる状態にしていきました。伊木遠雄・御宿政友の他、和久半左衛門、久嶋頼母、戸田兵庫、伊藤修理ら有力牢人も信繁(幸村)を大将にして真田丸に籠もりました。

こうして、実戦の体制が整っていった真田隊は真田丸の南方にある篠山にも柵を巡らして、ここからも鉄砲で攻撃ができる体制も整えました。

豊臣方の真田隊は甲冑・旗・幟・指物など全ての武具を赤一色で統一し、六文銭の旗印を使われなかったと言われています。これは、徳川方である兄信之やその息子達の立場に気を遣ったからだと思われます。武具などを赤一色で統一する「赤備え」は武田氏の家臣である飯富虎昌が始めたもので、その後武田家臣の間で山形昌景などが真似して一部の猛将の間で広がっていったスタイルです。この武田氏から派生したスタイルを用いたところにも信繁(幸村)のこだわりがあったと考えられます。

信繁(幸村)が出丸を作り、そこを守る事になった背景や理由は諸説あります。それらに共通したことは、兄信之が徳川家康やその重臣である本多氏と近い関係であることに対して豊臣方の一部が猜疑心を抱いているというものです。大野長治が後藤基次に対して、「信繁(幸村)が出丸の担当を買って出たのは家康と内応しているしているからでないか」とに相談しましたが、基次に「信繁(幸村)は信義を守る男だ」と言われ諭されたという逸話が伝わっています。さらに信繁(幸村)自身が豊臣内部からの雑音から逃げるために出丸に籠もったとか、信繁(幸村)を信頼できない豊臣方は万が一信繁(幸村)による謀反が起きた場合に備えて、真田丸の背後の総構えに1万人を配備したという逸話なども伝わっています。

ちなみに豊臣幹部は大坂城の西方海岸にある穢多ヶ島(えたがしま)にも砦を築き、そこは明石全登に守らせました。

大阪冬の陣はじまる

11月12日、豊臣方の槙島重利が堺を襲撃し、鉄砲や弾薬を奪いました。この時、豊臣方から追放され徳川方になった片桐且元は忠誠を表すため、これを撃退する救援隊を送りましたが、槙島隊に破れました。

11月15日頃には徳川軍が大坂城を囲むように大きな群れとなって現れ始めました。

信吉と信政は徳川氏の重臣である酒井家次の管轄下で、青屋口住吉において布陣しました。

11月17日、将軍である徳川秀忠が率いる徳川本隊が天王寺へ到着し、これにより徳川軍の集結がほぼ完了しました。

信吉と信政は徳川氏の重臣である酒井家次の指揮下で、青屋口住吉において布陣しました。

11月18日、家康と秀忠は茶臼山に設けられた家康の本陣で、会議を開きました。そこで天王寺・今宮・穢多ヶ島(えたがしま)・伝法・岡山・今福・守口など13カ所に前線基地になる城を築いて、時間を掛けてしっかりした包囲網を作りながら攻めていくことを決めました。

11月19日、明石全登と大野治房が守る豊臣方の穢多ヶ島砦に、徳川方の蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の各隊が攻め入りました。この時、明石全登が大坂城に出向いていて留守だった為、穢多ヶ島砦は比較的簡単に徳川方によって陥落しました。

11月26日、鴫野・今福の戦いがありました。徳川方は今福に前線基地の城を作る為、佐竹義宣隊が今福に、上杉隊が鴨野に進撃しました。この時、真田兄弟は後方で待機していたようで、戦闘後に戦闘した佐竹義宣隊と配置転換をしています。

今福に進軍した佐竹隊は木村重成と後藤基次など豊臣方からの反撃に遭い、先鋒である渋江政光が討ち死にしました。

一方、鴨野を攻めた上杉隊は、豊臣親衛隊七隊長の一人である渡辺糺からの反撃に遭いますが、これを撃退し、今福で苦戦していた佐竹隊の支援も行いました。そして、豊臣方は大阪城内へ退却しました。

家康が11月28日の朝に福島方面を船で巡視という情報が、信繁(幸村)のもとへ入りました。信繁は家康を討ち取る好機と考え、あえて豊臣上層部には相談をせず、独断で行動しましたが、基次にだけは大介が手紙で伝えました。

11月27日午後10時、信繁(幸村)は鉄砲隊など数十名を率いて天満川を下り、博労淵に茂る葦(あし)の中に紛れて、家康が通りがかるのを待ちました。この日は天候が悪く、霰(あられ)混じりの雨が降り、気温も大変低い状態でした。家康の体調を気遣った本多正信や天海和尚は、家康自らの巡視を取り止め、代わりに本多正純を行かせました。

28日朝、巡視に来たのが家康ではないと知った信繁(幸村)は博労淵から大阪城へ戻りました。

11月29日、蜂須賀至鎮・池田忠雄・石川忠総の徳川方の各隊が、豊臣方である薄田兼相が守る博労淵砦を攻撃しました。兼相は前夜から砦を留守にしていたので砦内の統率がとれず、徳川方は比較的簡単に博労淵砦は陥落しました。

つづいて、大野治胤が守る野田砦と福島砦も徳川方によって陥落しました。

11月30日、豊臣方は船場と天満に火を放って、総構えの外にいた兵を全て大阪城内へ入れました。

大坂城の総構えの外にに設営されていた豊臣方による砦は、徳川方により全て撤去されました。

これにより、真田丸だけが総構えより外に出ている唯一の豊臣方の軍事施設になりました。

真田丸での激しい攻防

徳川方の真田丸付近の布陣は、真田丸正面(南側)には前田利常隊、東側に南部利直隊・小出吉英隊・水谷勝隆隊、西側は井伊直孝、その間を埋めるように松倉重政隊・榊原康勝隊・桑山一直隊・吉田重治隊・脇坂安元隊・広沢広高隊がいました。

大坂城の総構えや真田丸の堀から約1500メートルの所には、豊臣方からの銃弾を避けるために竹を束ねた縦が、徳川方によって隙間無く立てられていました。

12月2日、大坂城を包囲している徳川方は大砲の射程距離を有効に生かす為に、城に向かって前進し始めました。この時、家康は「急進してはならぬ。直接攻撃に備えて堀を作り、土塁を築いた上で大砲で攻撃せよ。」 と命令し、真田丸正面まで前進した前田隊も砲撃用の簡易砦を築き始めました。

信繁(幸村)は戦線に張り出している篠山などから配下の部隊を出撃させて、土木作業に多くの人員を割いてしまっている前田隊を攻撃し、前田隊に大きな損害を与えました。

12月3日、徳川方による総攻撃が迫っていることを感じた後藤基次は大坂城本丸に出向いて豊臣幹部に報告し、遊軍を各方面に割り振って防備を固めることを提案しました。これにより、豊臣方の陣列の一部が再編されました。この日まで暫くの間、真田隊は真田丸の南方にある篠山で、散発的に城へ接近してくる徳川方を迎え撃っていました。

1614(慶長19)年12月4日未明、加賀の前田利常の家老である本多政重と山崎長徳が指揮する約5000人の前田隊が、総構えへの攻撃路を作るため真田隊が陣取っている篠山を攻めました。しかし、豊臣方は事前に徳川方の動きを察知し、真田隊はすでに篠山から真田丸に退却していました。豊臣方が弱気になって逃げたのではないかと考えた前田隊は、そのまま真田丸東側まで進みました。

前田隊が真田丸の空堀際まで進んだところで、真田丸の中から挑発が始まりました。前田隊の一部が、その挑発に乗り気勢を上げ始め、防御用の竹束や鉄盾を用意が不十分なまま、前田隊は軍勢の規模で真田丸を潰してしまうとして一斉に攻め始めました。
後方からその様子を真田丸南西から見ていた井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎の各隊も、徐々に真田丸西側と総構え八丁目口を攻め始めるようになりました。

真田丸後方の城内で石川康勝隊の一部が誤って火薬桶に火縄を落とす事故を起こしました。大阪城内から大きな爆発音と煙が出たため、徳川方は事前に画策していた豊臣方にいる内応者が動き出したのだと勘違いをし、徳川方の突入の勢いが増しました。

真田丸や総構えの内側で、この期が来るのをじっと待っていた真田・長宗我部・木村など豊臣方各隊は、空堀の周囲に設けた柵に押し寄せ、空堀の中に突入して来た徳川方に向かって一斉射撃を始めました。

防御用の竹束や鉄盾を用意が不十分なままでも大軍の勢いで真田丸の防御を破って進めると考えていた徳川方の最前線の部隊は、真田丸や総構え内部からの思わぬ反撃により、多くの死者を出しましたが、犠牲者が出ている先発隊は後発隊が押し出てくるので退くに退けず、不利な状況下で応戦し死傷者が続出、そしてそれを挽回しようと次々に後発隊が出て援護しましたが、挽回できずに更に犠牲は広がっていきました。特に前田隊は統率が不十分で闇雲に突入して行たっため損害が甚大で、本多正重が体制を立て直そうとしても多くの指揮官が戦死し、統率することは非常に難しい状況に陥っていました。

豊臣方が優勢な状況を更に後押しするため、信繁(幸村)の長男である幸昌(大介)は伊木遠雄とともに500人の兵を率いて真田丸から出撃し、寺沢隊と松倉隊を破り、さらに松平忠直隊にも大きな損害を加えました。

家康は再三にわたって、各隊に対して攻撃中止と戦線後方への撤退を命令していましたが、早朝から続いた戦闘状態は正午を過ぎてもなかなか収まりませんでした。

午後3時頃になって、ようやく徳川方は撤退を始め、午後4時頃に撤退が完了しました。

この攻撃によって徳川方は、前田隊約300騎、越前隊約480騎が討ち死にし、一般兵の戦死者数は1万人とも1万5000人とも言われる程、甚大な損害を出しました。

一方の大坂方は籠城戦が大成功を収め、戦死者数は徳川方と比べて大幅に下回りました。

家康は統率を執ることができず多数の戦死者を出した前田氏などの諸将に対して激怒した一方、井伊・藤堂の両隊は攻撃と防御のバランスが取れたことが評価されたようです。

こうして、真田丸での攻防戦は豊臣方の大勝利で収束し、これが家康を豊臣方との和睦に向かわせたと言われています。

信吉隊はこの戦いには巻き込まれませんでした。

冬の陣の最中、信繁(幸村)への勧誘工作が行われる

12月5日夕方、大坂城内で織田頼長の家臣が喧嘩騒ぎを起こしました。徳川方の藤堂隊が、この騒ぎに便乗して防護柵を破って城内に進入しましたが、長宗我部隊によって撃退され、徳川方による進入は成功しませんでした。

12月13日(12月6日との説も)、家康が茶臼山に着陣しました。

大坂の役が始まる直前からあったと思われる徳川方による信繁への勧誘工作は冬の陣の最中にも行われていました。

勧誘の責任者には本多正純が選ばれ、直接交渉は信繁の叔父で徳川方の大坂陣中目付役である真田信尹が担当することになりました。

信繁(幸村)が戦闘中に徳川方と直接やり取りすると言うことは、豊臣方から内通者として見られる危険性がありましたが、信繁は徳川方との交渉に応じました。

なぜ、信繁(幸村)は交渉に応じたのか?それは徳川方の交渉最高責任者が本多正純だったからだと言う説があります。昌幸は正純の父正信と親交があり、関ヶ原合戦の戦後処理で家康が昌幸と信繁(幸村)を処刑せずに九度山へ幽閉させたことについて、家康の側近だった正信の働きがあったと言われています。九度山へ幽閉されていた時も、昌幸は正信が家康に赦免の許しを促してくれていると信じて、その日を心待ちにしていました。残念ながら、昌幸の願いは実現しませんでしたが、父親同士の信頼関係が信繁(幸村)と正純の間にも続いていたようです。

真田丸での激戦から7日後の12月11日、徳川方の使者である信尹は信繁に10万石の領地を与えることを持ちかけましたが、信繁は「私たちは牢人として、高野で乞食(こじき)同然の暮らしをしていたのにも関わらず、秀頼様は私を召し抱えて曲輪の大将にまで命じてくださりました。ありがたく幸せなことだと思っているので、ここを出ることは到底できません。和睦が成立すれば、その時にたとえ1000石でもご奉公します。」と言って勧誘を断りました。
「我等牢人仕り高野にて乞食の体に罷り成り候処を秀頼様より召し出だされ一曲輪仰せ付けられ有り難き仕合わせに候の間、中々罷り出で申す事罷り成らず候」

12月14日、本多正純は前田利常の家老である本多政重に対し、信繁の叔父である真田信尹と良く協力して信繁(幸村)を徳川方に引き入れるように工作を行うように命令し、勧誘が成功した時、信繁(幸村)の身柄は正純が預かるとも伝えています。

大坂の陣 一時停戦
和議で停戦、大坂城の防御が大幅に削り取られる

家康は大きな堀や高い石垣や土塁に守られた大坂城を力ずくで攻略することは最初から考えていませんでした。

開戦前は豊臣方から譲歩を引き出しつつ、従わなかった場合には開戦をさせるように仕向ける為に片桐且元を利用しました。

開戦後は淀殿の2人の妹である常高院と秀忠の正室である江与、さらに大野治長の弟である大野治純を通じて、豊臣方に停戦条件について譲歩を促していました。

そうしたルートを通じて徳川方は大軍で大坂城を包囲しながら、豊臣方の幹部である大野治長や織田長益らに停戦協定を結ぶ説得工作をしていました。

12月16日、徳川方からの砲撃によって天守と千畳敷御殿に玉が命中しました。これに驚いた淀君を中心とした女性たちの意見によって、豊臣幹部は徳川方との和解に一気に動き出しました。これは開戦当初より、家康から要求されていた交渉のテーブルに着くことに豊臣方が応じることを意味し、豊臣方にとって不利な条件が提示されることは明らかでした。

信繁(幸村)など牢人衆はこれに反対しましたが、織田有楽や大野治長らは「牢人衆は戦を続けなければ牢人に戻ってしまうのを恐れている。停戦している間に家康は老いて死んでいく。そうすれば、秀頼による統治が実現するはず。」と、一歩も譲りませんでした。

信繁(幸村)は治長らに対して、家康を甘く見ると痛い目にあるので注意するように忠告しましたが、結局は治長に従わざるを得ませんでした。

12月19日、徳川方から停戦条件が示されました。
 1.牢人の解雇はしなくても良い
 2.秀頼の知行はそのままで大坂城に居て良い
 3.淀殿の江戸上洛はしなくても良い。
 4.豊臣方への処分を軽くする代わりに大坂城の総堀の埋め立てを行う。

家康は一見して豊臣方に譲歩した様に見える停戦協定を結びましたが、真の狙いは大坂城を難攻不落の城にしていた堀や石垣などの防護設備の破壊だったのです。

大坂城は北には天満川が流れ、西は海、東と南は大規模な高石垣や土塁と堀に囲まれた難攻不落と言われた城だったからです。

秀吉の遺産である大坂城と膨大な資金によって、秀頼を中心とした豊臣氏の抵抗が続いていることに、家康は苛立っていました。

多くの犠牲を出してまで大坂城を無理矢理攻めるより、豊臣方から譲歩を引き出して停戦させ防護設備を取り除き、言わば豊臣氏の延命装置である大坂城の機能を停止させることで、豊臣方が籠城できないようにし、徳川ペースの交渉の場に引きずり出す事が得策だったのです。

豊臣方は大坂城の守りの政治的な重要性とセイン略的な重要性について認識していなかったのか、それとも堀の埋め立てを受け入れるしかなかったのか、どちらにしても豊臣方は大坂城の総堀など総構えの破壊を受け入れました。

12月19日(20日、22日との説も。)に徳川方と豊臣方は和議を結びました。

12月20日、家康は松平忠昭、本多忠政、本多康紀を大坂城の堀の埋め立て奉行に任命しました。

12月21日と22日に誓約書を交換して和議が成立しました。

12月22日、家康は茶臼山を出発し、夕方には京都の二条城に入りましたが、信繁はこの時に家康を討つ絶好のチャンスだと秀頼に進言しましたが、淀殿の反対により実行されませんでした。

一方の徳川方でも伊達政宗や藤堂高虎など今回の停戦合意に納得できない大名たちが家康に戦闘再開を進言しましたが退けられました。

12月24日(27日説もあり)、停戦合意に基づいて堀の埋め立てが開始されました。 しかし、徳川方は合意の範囲である大坂城三の丸の堀だけではなく、二の丸の堀まで埋めていきました。これには豊臣方は約束違いであると猛反発しましたが、徳川氏のペースに逆らう力はありませんでした。

治長が埋め立て奉行に抗議したところ、「総堀とは全ての堀のことである。」と言って作業をそのまま進めました。これに納得できない豊臣方は埋め立て作業の責任者だった本多正信や本多正純に埋め立ての中止を申し入れましたが、やりとりをしている間にも堀は埋め立てられていきました。堀の石垣やその上にあった櫓のみならず、近所の住宅や墓石までも放り込みながら、猛スピードで大坂城の堀は埋められていきました。

1月3日、大坂城の堀の埋め立て作業が進む中、家康は京都の二条城を出発し駿河の駿府城に向かいました。

1615(慶長20)年1月24日、本丸以外の大坂城の堀の埋め立て作業が完了しました。

徳川方は大坂城の防備を完全に無力化する為に総構えだけでなく、なんと約1ヵ月で三の丸と二の丸の堀までも埋めてしまうという強固な策に打って出ましたが、豊臣方に堀の埋め立てを提案した時には、すでにそのつもりだったのです。

2月家康が遠江の中泉に着きました。

1月18日、秀忠は大坂城の南方にある岡山から京都に向けて出発、2月7日には家康が居る遠江の中泉に入りました。ここで、家康と秀忠、そして徳川家重臣である本多や大久保などが今後の対策方針を巡って会議を開きました。そして、家康は駿府に戻りました。

この頃、豊臣方の台所事情は大変な状況でした。集められた牢人衆などの兵力が10万人を超えていましたが、秀頼が治めている摂津の国66万石の経済力では、秀吉の遺産があっても支えきれる限界を超えていました。そこで、豊臣方は徳川方に石高の加増を求めましたが、これが認められる訳がありませんでした。かえって徳川方からは大和の国か伊勢の国に移るか、牢人衆を追放して戦力放棄をしろと言う要求が出ました。これらの徳川方からの要求は停戦協定に違反するものでした。

大坂城の防備の要である堀を埋められた上に、秀頼の移封や戦力放棄を要求された豊臣方は再び一戦交える為に開戦の準備を始めました。

過熱する真田信繁(真田幸村)勧誘工作の中、故郷へ手紙

冬の陣の戦闘中から続いていた徳川方による信繁への勧誘工作はさらに活発になりました。

今度は「今なら信濃一国をくださるとのことですので、味方になりませんか?」と徳川方は伝えてきましたが、それを聞いた信繁は馬鹿にするなと言って叔父信尹を追い返しました。信濃一国は約40数万石ですが、信濃には10人程の大名が居たため、仮に信繁(幸村)に与えるためには大掛かりな移封が必要でした。信繁(幸村)は現実離れした恩賞の大きさで惹き付けようとする徳川方のやり方に疑念を持ち反発しました。

信繁(幸村)にとって、冬の陣が停戦されて大坂城の堀の埋め立てが完了した頃から、次の戦で命を絶つ予感をしつつも国元の人々と手紙のやり取りをしていました。

1615(慶長20)年1月24日には小山田茂誠へ嫁いだ姉の村松へ、2月2日には義兄の小山田茂誠へ、2月10日には娘すえの夫である石合十蔵へ、3月10日には小山田氏へ近況報告・礼状などを送っています。

大坂夏の陣
大坂夏の陣へ向けての動き始まる

1615(慶長20)年3月15日、秀頼の使者である青木一重と淀殿の使者である常高院・二位の局・大蔵卿・正栄尼が家康に会う為に駿府城に着きました。常高院ら豊臣方の使者は家康に秀頼に対する移封の免除を申し入れましたが、この態度が徳川方に豊臣方が従う姿勢が見られないとして、徳川方は再び大坂城を攻めることになりました。

徳川方との再対決が決定的になってから、豊臣方は再び牢人を集めました。大坂札の陣で豊臣方に集まった兵力は10万人~15万人と言われています。

豊臣方の主である秀頼がいる大坂城は冬の陣の停戦協定により、総構えや真田丸などが破壊され、堀と高い石垣は本丸だけにしか残されていませんでした。大坂城での籠城戦が不可能な豊臣方は、城外に出て大名により構成された大軍の徳川方と戦うしかありませんでした。

4月4日、秀頼は会議を開き、豊臣方に集まった者を前にして「家康が来たら潔く決戦を交え、力尽きれば諸君と共に戦死するのみ。」と決意を述べました。この会議で織田信長の甥である織田頼長が、豊臣方の軍隊の統率役に名乗り出ましたが、出席者の反対に遭いました。これにより激怒した頼長は父である有楽と共に豊臣方から脱退し、大坂城を出て京都へ去りました。

4月5日、秀頼が大坂城から出て、大坂城南方の阿倍野や天王寺などを巡視しました。前衛に後藤・木村隊、秀頼の麾下として長宗我部・真田隊、後衛は大野治房隊でした。これが最初で最後の豊臣秀頼による大坂の陣での城外活動でした。

4月6日、家康は大坂に再び攻め入ることを命令し、この時も、真田信之は病気により出陣できず、代わりに長男信吉と次男信政が出陣しました。信吉は、井伊直孝の管轄下で本多忠朝が指揮する二番隊に所属しました。この時信吉・信政隊は約2300人を率いました。

4月18日、家康が二条城に入りました。

4月21日、秀忠が伏見城に入りました。

家康がいる二条城周辺には伊達政宗・黒田長政・加藤嘉明・前田利常・上杉景勝・京極高知・堀尾忠晴・森忠政・生駒正俊・有馬豊氏などが集まり、秀忠が居る伏見城周辺には松平忠明・本多忠政・井伊直孝・成瀬正成などが集まりました。

大坂夏の陣で徳川方に集まった兵力は15万人~20万人と言われています。

大阪夏の陣が開戦

4月22日、家康と秀忠は二条城で本多正信・本多正純・土井利勝・藤堂高虎らと戦略を練りました。

徳川方は全軍を2つに分け、京都を起点にし、左縦隊は大和(奈良)を経由して大坂城南方に入るルートを進み、右縦隊は淀川沿いにまっすぐ河内(河内口(八尾))に入って大坂城を迂回して大坂城南方に入るルートを進むことにし、2つの部隊は八尾や道明寺付近で合流し体制を整えた後、大坂城を南方から攻めるというものでした。

4月26日、最初に出撃する左縦隊が豊臣討伐に向けて出発しました。

徳川方の戦力
左縦隊…一番手は水野勝成隊約3000人、二番手は本多忠政隊約4000人、三番手は松平忠明隊約4000人、四番手は伊達政宗隊約10000人、五番手は松平忠輝隊。

右縦隊…右先鋒は藤堂高虎隊約5000人、左先鋒は井伊直孝隊約3000人、一番手右備えは榊原康勝隊、一番手左備えは酒井家次隊、二番手右備えは本多忠朝、二番手左備えは松平康長隊、三番手右備えは松平忠直隊、三番手左備えは前田利常隊。

本隊(本隊は右縦隊に続いて進軍しました。)…酒井忠世隊、土井利勝隊、本多忠純隊、徳川秀忠隊、徳川家康隊、最後尾の殿(しんがり)を徳川義直隊、徳川頼宣隊。

真田信之は冬の陣に続き、この合戦にも病気により出陣できず、代わりに長男信吉と次男信政が出陣し、井伊直孝の指揮下へ入りました。

豊臣方は大和郡山城主である筒井正次に味方するように働きかけをしていましたが、これを正次は拒否しました。

4月26日、大野治房隊約2000人が暗峠(くらがりとうげ)を越えて大和郡山の城下に進入して火を放ったり、27日には大和郡山周辺の村を焼き払うなどした。

徳川方の左縦隊一番手の水野隊や、徳川に味方する松倉隊や奥田隊が奈良に入った時には、すでに豊臣方が引き揚げた後でした。

樫井の戦い

豊臣方は和歌山城主である浅野長晟にも味方するように要請しましたが、長晟もこれを拒絶。

豊臣方は徳川方が大坂城に近づく前に長晟を叩こうと、紀伊の領民を扇動して決起させ、そこに大坂から軍隊の一部を出撃させ、長晟を攻撃しようとしていました。

4月28日朝、大野治長指揮の下で大野治胤(おおのはるたね)隊・塙直之隊・岡部則綱隊・御宿正友隊・淡輪重政隊・長岡正近隊など約3000人が和歌山に向けて南下を始めました。(先鋒は直之と則綱。)

これを迎え撃つため、長晟は同じ日の朝に5000人を率いて和歌山を出発し、午後1時には佐野・信達に着きました。

この夜、長晟は家臣に対して「大坂勢2万人(実際は3000人)が明日、和歌山に攻めてくる。」ことを予測して報告し、迎え撃つ為の作戦を練りました。

安松に前哨を配置し、本隊は安松から約4キロ後方の樫井に陣を置きました。

4月29日、豊臣方の則綱と直之は夜明けと共に、浅野方が安松まで来ていることを知りました。

則綱と直之は大野隊などの支援を待たないで、数十人という少数部隊で浅野隊と戦闘を始めました。

これに対して浅野隊は一斉射撃で応戦し、樫井まで後退して本隊へ合流しました。これを無謀にも則綱と直之は少人数の部隊で深追いしてしまった為、この戦いで直之は討ち死にし則綱は負傷しました。

則綱と直之が暴走して打ち負かされた事を知った治房は長晟がいる樫井に向かって急進しました。これを察知した長晟は全軍を山口まで後退させました。

樫井に着いた治長は直之らの遺体を収容して大坂城に撤退し、浅野討伐は失敗しました。

この時、関係が悪化していた堺へ豊臣方は侵攻し弾薬を奪い取り、慢性的な不足に悩まされていた弾薬不足を解消することができました。

大坂夏の陣、道明寺の戦い

本丸以外の堀を埋め立てられたため籠城できなくなっていた豊臣方は、大坂城の南東から入ってくる徳川方左縦隊と北東から入ってくる徳川右縦隊を、それぞれ分担して迎え撃つことにしました。

左縦隊が入ってくる大和口(道明寺付近)では後藤又兵衛・薄田隼人・毛利勝永・真田幸村などが、右縦隊が入ってくる河内口(八尾・若江付近)では木村重成・長宗我部盛親などが迎え撃つことになっていました。

4月30日、豊臣方の作戦会議が開かれ、そこで後藤基次が道明寺へ出撃し徳川軍を迎え撃つことを提案し、真田信繁(幸村)や木村重成らもこれに賛同し、会議でこれが了承されました。道明寺は大坂城から南東約20キロメートル、大和と道が通じている交通の要所です。

夏の陣での信繁(幸村)の寄騎は、大谷吉治・渡辺糺(わたなべ ただす)・伊木遠雄・福島武蔵・福島伊予・吉田玄蕃(よしだ げんば)・石川康勝・津田左京・結城権之助らです。

豊臣方の道明寺出撃隊の部隊編成
前軍…後藤基次隊(後藤隊約2800人が先鋒)・薄田隊・井上時利隊・山川隊・北川隊・山本隊・槙島隊・明石隊
後軍…毛利勝永隊・真田信繁(幸村)隊・福島隊・ 渡辺隊・小倉隊・大谷隊・長岡隊・宮田隊

5月1日、豊臣方の前軍が平野へ、後軍は天王寺へ進軍しました。

5月5日朝、徳川方の左縦隊先鋒である水野隊が奈良を出発し、午後4時には国分に到着しました。

左縦隊四番手の伊達隊が三番手や二番手を追い越して、夜には国分の西側、小松山の東南辺りに到着しました。

その後やや遅れて、本多隊や松平隊も伊達隊がいる小松山付近に到着しました。

5月5日夜、豊臣方の信繁(幸村)と勝永は平野にいる基次を訪ね、「今夜の内に我ら3隊が道明寺で合流し、夜明け前に国分の山を越えて隘路口で徳川方を迎え撃つ。3人が死ぬか、家康が死ぬか、どちらかだ。」と3人で訣別の杯を交わして、信繁(幸村)と勝永は天王寺へ戻りました。

5月6日午前0時、後藤隊は平野から出発し、大和街道を東に進みました。夜明けには藤井寺に着き、後続隊を待ちました。しかし、合流の予定時刻を過ぎても真田隊や毛利隊が来ませんでした。基次は単独で藤井寺を出発し道明寺まで進みました。ここで徳川方約3000人が国分にまで来ていることを知った基次は小松山に向かって兵を進めました。

5月6日午前2時、徳川方左縦隊の先鋒である水野勝成は大和街道を東に進む後藤隊を発見し、戦闘準備を整えて待ち構えました。

夜明けと共に後藤隊は小松山の東側で、徳川方の松倉隊と奥田隊が戦闘状態に突入し、大坂夏の陣での本格的な軍事衝突が始まりました。後藤隊の攻撃により松倉隊と奥田隊が壊滅の危機に陥った頃、徳川方の堀隊や水野隊、さらに伊達政宗隊・本多忠政隊・松平忠明隊が到着し、後藤隊を取り囲むようにして攻め始めました。

5月6日昼前、基次は腰に銃弾を受け動けなくなった為、家臣に首を切らせ、切腹しました。

後藤隊は道明寺方面へ敗走しました。

その頃、薄田兼相隊・山本隊・井上時利隊・槙島隊・山川隊・北川隊・明石隊が道明寺から誉田に展開し、敗走してきた後藤隊の生存者を収容しながら、追撃してきた徳川方を迎撃しました。この時、薄田兼相や井上時利が討ち死にしました。

毛利隊は5月6日の夜明けに天王寺を出発し、道明寺付近で敗走してくる後藤隊や薄田隊に出会いました。

5月6日午前11時、真田隊・福島隊・渡辺隊・大谷隊などが天王寺に到着しました。

5月6日の朝は天王寺一帯が濃い霧に覆われた為、豊臣方では連絡が上手く取れずに兵力が分散化し、大和口に向かうはずの信繁(幸村)が道明寺付近に到着した頃には、すでに後藤又兵衛・薄田隼人などが戦死して混乱状態になってました。

毛利隊は藤井寺付近に、真田隊や渡辺隊などは誉田稜(ほんだりょう)の西南に展開し、徳川方と交戦しました。

午後2時、豊臣方に大坂城から撤退の命令が出ました。

午後4時、豊臣方は民家などに放火するなどしながら、岡山・天王寺・茶臼山などに後退しました。

徳川方の水野勝成などの若い武将たちは、優位な状況なのでこのまま豊臣方を撃破することを望んでいましたが、伊達政宗が深追いしないことを説得し、藤井寺・誉田・道明寺・古市に宿営しました。

松平忠輝隊は5月6日朝にようやく奈良を出発したため、この戦闘に間に合いませんでした。

大坂夏の陣、八尾・若江の激闘

八尾・若江の地域は大坂城から東南東約8キロメートル、道明寺から北約8キロメートルの所にあります。この一帯は長瀬川と玉串川に挟まれた地域で、深い水田が広がっていました。水田部分は大変なぬかるみで、人が歩けるところは水田の間の狭いあぜ道しか無く、戦闘するには適さない地域でした。

八尾や若江の地域には大坂城を避けるように山沿いを南下してくる徳川方の右縦隊が迫っていました。

5月6日午前2時、木村重成は4700人を率いて大坂城を出発し、河内口方面を目指しましたが、大和橋を渡っている時に道明寺方面から戦闘による銃声が聞こえた為、進路を大和口方面に変更しました。しかし、重成隊の進路の先には沼地が広がっており、迷ってしまいました。

重成は軽率に進路を変えたことを反省して、当初の予定通りに河内口に向かうべく、進路を北に変更しました。途中、東方の彼方に徳川方の藤堂高虎隊を発見しましたが、交戦をせずに更に北上を続けました。

5月6日午前4時、長宗我部盛親が8000人を率いて大坂城を出発し、八尾に着いた時、先鋒の吉田隊が徳川方と交戦中であることを知りました。

徳川方右縦隊先鋒である藤堂隊は、濃い霧で覆われた中、徳川方の合流ポイントである道明寺を目指して藤堂高虎隊は南下していました。

夜が明けた頃、霧が晴れ始めましたが、その時、家康がいる本営に向かって久宝寺・八尾・若江一帯を北上する豊臣方の軍列を発見しました。

高虎は急遽進路を豊臣方の軍列がいる西に変更し、独断で八尾・萱振(かやふり)の豊臣方に向かって攻撃を開始しました。

同じ頃、井伊隊も藤堂隊と共に道明寺への進路を変更して、豊臣方への攻撃に移りました。

5月6日午前5時、重成は若江付近で高野街道を進む徳川方がこちらに向かって前進しているを知り、交戦に備えました。主力部隊は若江村南側で井伊隊を迎え撃ち、萱振から来る藤堂隊と奈良街道から来る別の徳川方には別働隊を作って、徳川方と交戦状態になりました。

木村隊と長宗我部隊は藤堂隊に大きな損害を与えましたが、徳川方に応援の井伊隊が加わってからは形勢が逆転しました。

重成が討ち取られた木村隊が敗走し始め、続いて長宗我部隊も苦戦を強いられたので大坂に向かって退却しました。木村・長宗我部隊の損害は約900人でした。

徳川方は深追いをせずに、藤堂隊は八尾、井伊隊は千塚に陣を敷きました。

家康は重成の首実検をしたとき、兜に残っていた薫香(くんこう)に感嘆したと言われています。

5月6日夜、家康は枚岡(ひらおか)に、秀忠は千塚に宿営しました。

宿営した徳川方は明日の陣容を決めました。

岡山口へは先鋒を前田利常隊が務め、これに本多康紀・片堂・藤堂・井伊・細川の各隊が続きます。

天王寺口へは先鋒を本多忠朝指揮下の混成部隊が務め、 これに松平忠直・真田信吉・小笠原・堀・水野・本多忠政・松平忠明・一柳・徳永の各隊が続き、さらにその隣にもう一列伊達・溝口・村上・松平忠輝の各隊が続きます。

京橋口の監視は京極・石川の各隊が当たります。

徳川方は各大名が戦線を請け負う担当を1万石につき1.8メートルとし、戦場での敵味方の区別をスムーズに行う為に合い言葉を定め、さらに味方であることを確認できる標識を右肩に付けることを決めました。

真田信繁(真田幸村)、最期の日

1615(慶長20)年5月7日未明、信繁(幸村)が陣していた茶臼山に大野治長が今後の方針を決める為に訪ねてきました。この会議で治長は信繁(幸村)が提案する陣容を受け入れました。

豊臣方の布陣
茶臼山…真田信繁(幸村)隊
天王寺南門…毛利隊
茶臼山南側…大谷・渡辺・伊木・福島の各隊
毛利隊の南側…浅井・竹田の各隊
毛利隊の左右…吉田・篠原・石川・木村の各隊
毘沙門池の南側…大野治長隊・後藤隊や薄田隊などの残兵が結集し、予備隊として待機
岡山口…大野治房の指揮下に大野治胤(はるたね)・御宿・山川・北川の各隊
毘沙門池の北川…7隊長を集めて遊軍にしました。
明石全登(あかし てるずみ)…船場で待機して、戦況に応じて出撃する
大坂城付近…長宗我部・仙石・津田の各隊と秀頼直轄の部隊が守備
大坂城本丸南側の桜門付近…豊臣秀頼

5月7日午前2時、秀忠は千塚を出発し、平野に進みました。

午前4時、家康は枚岡を出発し、10時頃に平野で秀忠に岡山へ進むよう命令し、自らは茶臼山へ進みました。

徳川方は夜明けと共に宿営地を出発して、前日に打ち合わせした所定の位置へ移動し始めました。

5月7日正午、本多忠朝隊が毛利隊に接近しました。

信繁(幸村)は勝永と、射撃を開始する時は十分に敵を引きつけてからにするように打ち合わせをしていましたが、本多隊の射撃に影響されてしまい毛利隊も射撃を始めて、猛烈な銃撃戦になりました。報告を受けた信繁(幸村)は勝永に無理をしないように使者を送りましたが、手遅れな状況でした。

5月7日正午、激しい銃声が天王寺口から秀忠の陣にも聞こえてきました。これを聞いた秀忠は直ちに攻撃の開始を命令しました。

前田隊が治房隊へ攻撃を開始し、藤堂隊と井伊隊は劣勢にあった本多隊を救援すべく、天王寺口へ進みました。

その後、毛利勝永隊は2つに別れ、本多隊を挟み撃ちにして撃破し本多忠朝を討ち取りました。そしてそれぞれの隊が、東から攻めてきた真田信吉隊、西から攻めてきた松平忠直隊など徳川方を撃退しました。

徳川方は天王寺口と岡山口で豊臣方と戦闘を繰り広げました。真田兄弟は天王寺口の右翼の先鋒になりましたが、叔父信繁(幸村)は左翼との戦闘になったので、親戚対決は回避されました。真田兄弟は毛利勝永・竹田永翁(たけだえいおう)らの隊と激戦になりました。25~29名を討ち取り、35~39名の戦死者を出しました。

叔父信繁(幸村)が豊臣方の中核として真田丸などで活躍したことと、真田兄弟は徳川方内で比較され肩身の狭い思いをした可能性があります。豊臣方である叔父信繁(幸村)と真田兄弟ら信之側が内通しているのではないかという疑念が徳川方内からありました。成果を上げる事に焦り、自分達家の疑惑を晴らすためにも、死体の首を切って手柄に入れるようなことをせずに、犠牲者の比率が多くても正直に報告したものだと思われます。

真田信繁(真田幸村)、家康を追い詰めるも戦死

5月7日午後、幸村は毛利隊の暴走で作戦通りに事が運ばず戦線が混乱してしまい、家康を討ち取る事が困難になった事を一緒に戦っていた伊木遠雄に言い、息子の大介(幸昌)を呼びました。

信繁(幸村)は、「あとは命が尽きるまで戦い、家康の本営に突入して家康の首を取るしかないが、お前は大坂城に戻って秀頼様と生死を共にしなさい。」と大助(幸昌)に言って、大助を秀頼がいる大坂城へ戻らせました。

甲冑・旗指物など全ての武具を赤一色で統一していた真田隊(2000人)は大谷・渡辺・伊木の各隊の協力を得ながら松平忠直隊(15000人)に突入しました。

毛利隊は本多隊・小笠原隊に続いて秋田・立花隊も撃破しました。

徳川方は混乱していました。住吉街道を今宮へ進んだ浅野隊を見て、徳川方の一部で「浅野が豊臣方へ寝返った。」という噂が広がったためです。

徳川方は各隊が争って前進するなか、逆に逃げる者も出てきて、大変混乱していました。

家康を守る為に本陣にいた重臣は小栗正忠ただ1人でした。(家康本陣にいたのは、本多正重と金地院崇伝だったとう説もあります。)

信繁(幸村)は2000の兵で松平直忠隊を突破したあと、家康隊を蹴散らして本陣に突入しました。

家康本陣は3度も真田隊に追われたため、馬印を隠しながら12キロメートルも移動し、一時は家康自身が切腹を覚悟したとも言われています。 家康本陣が追われて移動したのは三方原合戦以来でした。

信繁(幸村)は家康の間近まで迫りましたが、事態を知った徳川方の救援部隊が到着して形勢は逆転し、信繁(幸村)は本陣から撤退しました。

徳川方の忠直隊が茶臼山を占領しました。

豊臣方の士気は低下し、大坂城方面へ後退を始めましたが、信繁(幸村)は徳川方への激しい攻撃を続けていました。

午後2時頃、信繁(幸村)は徳川方からの抵抗に疲れ、安居神社で休息をしていたところを松平忠直の鉄砲隊に見つかり、そこに属している西尾宗次(にしお むねつぐ)(西尾仁左衛門、久作)に討たれました。(信繁(幸村)享年49才)

大野治房・治胤たちは秀忠の本営を攻撃しました。秀忠が自ら槍を持って迎え撃とうとしていた頃、徳川方の黒田隊と加藤隊が救援に駆けつけ、豊臣軍は撃退されました。

豊臣方はあと一歩の所で家康と秀忠を討ち取れる状況になりながらも、力及ばず撃退されたのです。

徳川方の本多康紀や片桐などの各隊が豊臣方の側面を攻撃し、豊臣方は大きな損害を出しました。

各戦線で敗れた豊臣軍は玉造口方面に退却しました。

秀頼は5月7日朝から天王寺口へ出て戦おうと、本丸の専門にあたる桜門付近で準備をしていましたが、徳川方から講話の使者が来たり、内通者が大阪城に放火するという噂が出るなど、秀頼が城から離れられない状況が続きました。

秀頼が出撃できずにいる内に、大野治長や真田大介らが大坂城に戻り、真田信繁(幸村)が最期の突入に向かった事を秀頼に伝えました。

そして、天王寺口方面や岡山口方面から敗れて戻ってきた兵で大阪城は混乱状態になりました。

秀頼は出撃しようとしましたが、速見守久の説得に応じて天守へ行きました。

内通者が大阪城の台所に火を放ちました。強風によりその火はたちまち御殿や天守などに燃え移りました。

徳川方は先を争って城内へ侵入し、午後5時頃に二の丸を制圧しました。この頃になると、城内の組織的抵抗はすでに無くなっていました。

旗奉行の郡宗保(こおりむねやす(郡主馬宗保こおりしゅめむねやす))と津川左近(つがわさこん)が秀頼の旗を千畳敷御殿の畳に立てて自害し、渡辺糺(わたなべただす)もここで自害しました。

真野頼包・中島氏種・成田兵蔵らも自害しました。

大野治房・大野治胤・長宗我部盛親・仙石宗也などは脱出しました。

本丸の主要部分が火災に見舞われたため、秀頼・淀殿・千姫らは速水守久の誘導で芦田郭に入りました。

治長は家康に秀頼と淀殿の除名嘆願をしてもらうために千姫を大坂城外に脱出させました。

脱出した千姫を徳川方の坂崎成正が発見し、茶臼山に陣していた家康のもとへ護送しました。

この戦いで信吉は27(29と言う説も有)の大坂方の首を取りました。 信吉隊は徳川内部での信用を得るべく最前線で戦闘を繰り広げた結果、32人の戦死者を出しています。

大坂城落城、真田幸昌は秀頼の後を追って自害

1615(慶長20)年5月8日朝、大阪城内に詳しい片桐且元が、秀頼・淀殿らが山里丸(芦田郭)にいる可能性が大きいことを秀忠に進言しました。これを聞いた秀忠は井伊直孝に山里丸へ行き確認するよう命じました。

秀忠が家康に今後の対応について問い合わせている間に、秀忠が家康に今後の対応について問い合わせている間に、山里丸付近で徳川方が銃を撃ちました。これを聞いた大野治長・速水守久が徳川方がすぐそこまで迫っていることを知り、山里丸に火を放ちました。

豊臣方は秀頼の子である国松とその妹を城外へ逃がし、秀頼と淀殿は自害しました。

大野治長・速水守久・真田幸昌(大助)など約30名が後を追って自害しました。

この時、幸昌(大助)は毛利勝永(吉政)から大坂城脱出を進言されましたが、そうしませんでした。

秀頼の自害を聞いた家康は、密かに桜門から大坂城本丸へ入り京橋から出て、千姫を連れて京都に戻りました。

大坂夏の陣で大坂城は落城、徳川軍が勝利し、豊臣氏は滅亡しました。

信繁(幸村)の首実検がが行われました。秀忠は信繁(幸村)の叔父で勧誘工作にもあたった真田信尹に「昨年、2度信繁(幸村)に会ったから、見覚えがあるだろう。」と問いましたが、信尹は「見覚えがありません。その時は夜中で、信繁(幸村)は用心していたため、近づくことはできませんでした。」と答えました。

豊臣氏滅亡の直後と徳川家康の死

その後、家康は大坂城付近・高野山・大和で大規模な落ち武者狩りを行い、さらに諸国の代官に豊臣方の残党とその妻子の逮捕を命じました。

秀頼の子である国松は京都で徳川方に捕まり、六条河原で斬首されました。

国松の妹は助命され、のちに天秀院として鎌倉の東慶寺の庵主になりました。

長宗我部盛親・大野治房・大野治胤も身柄を確保されました。

片桐且元は大坂城落城の20日後である5月28日に急死しました。

大阪の役の論功行賞は5年間にわたり、約80人を対象に行われました。

しかし、滅ぼした豊臣氏の財産は66万石と残り少ない秀吉の遺産のみでした。

豊臣方に集まった戦力は、そのほとんどが牢人であったために、徳川方が大坂の陣での褒賞として家臣に与えられるものは僅かなもので、井伊直政の加封10万石が最大でした。

薩摩島津の当主である島津忠恒が、江戸滞在中に信繁(幸村)の戦いぶりを聞きつけ、そのことを薩摩への手紙に「真田日本一の兵(つわもの)、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」と書き記し、細川忠興は「古今これなき大手柄」と書き記しました。

大阪の役が終わってから1年も経たない1616(元和2)年4月1日、信繁の宿敵である徳川家康が駿府城で逝去しました。(家康75才)

その後、信繁(幸村)の墓(供養塔)が真田氏ゆかりの地の各所に建てられました。大雲山龍安寺大珠院(京都府)、田村家墓所(宮城県白石市)、善名称院(真田庵)

信繁(幸村)の首を取った西尾宗次は孝顕寺に信繁(幸村)の首塚を建立しました。この首塚は「真田地蔵」と呼ばれ、現在は福井市立郷土歴史博物館にあります。

真田幸村として伝説化していった信繁と幸昌(大助)

江戸時代では「真田三代記」、そして明治時代以後では「立川文庫」で真田幸村を中心に真田一族、忍者、真田十勇士などが活躍する小説が、民衆の間に広まりました。これにより信繁は幸村の名前で戦国の伝説的ヒーローになっていきました。

幸村・大助の薩摩生存説などは、こうした中から出てきた現象だと言われています。

大坂の陣に出陣できず、謀反の疑いを掛けられた信之

大坂の陣の間、信之は弟信繁(幸村)が豊臣方になった事で関ヶ原合戦の時と同じような苦しい思いを再び味わう事になりました。

信繁(幸村)が豊臣方で活躍している噂が出れば出る程、徳川幕府での信之の肩身は狭くなっていったのです。

持病である瘧(おこり=マラリアの一種)により出陣できない信之は、豊臣方である弟信繁(幸村)の援護をしているのでないかという疑念を持たれました。

信之は病で疲れている体をおして江戸城の将軍秀忠へ拝謁して大坂の陣を後方で支援することを願い出たり、出発前の息子達に叱咤激励をするなど、周りに気を遣っていたようです。

大坂の役の後、徳川方の信之が豊臣方の信繁(幸村)に兵や物資を送って支援をしたのではないかとの疑惑が持ち上がりました。この時、信之は自らの命にかけて疑惑を否定し、家臣の宮下藤右衛門が疑惑の一切を被って浪人になりました。

徳川政権下で真田氏を存続させた真田信之
徳川政権の下で真田氏を継いだ信之

1615(元和元)年、幕府は一国一城令を出しました。

1615(元和元)年、幕府は武家諸法度を施行しました。その中で、城郭の築城は厳禁とし、修築に関しても厳重な許可制になりました。

1616(元和2)年4月17日、徳川家康が駿府城で逝去しました。(徳川家康 享年75才)

同年7月、幕府が高田城主である松平忠信を改易しました。これに伴い幕府は信之などに高田城を番するように命令しました。

1617(元和3)3月、信之は居城を沼田城から上田城に移し、沼田城は長男信吉(信吉24才)に任せました。これは父昌幸が自らを上田城主、信之を沼田城主にしたことを手本にしたと思われます。

1617(元和3)年、信之が病気を患った体をおして将軍秀忠の上洛に随行しました。

1620(元和6)2月24日、前年から病気が悪化していた信之の正室である小松殿が、療養していた江戸から草津へ当時の為に向かう途中、武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣市)で容体が急変し亡くなりました。(小松 享年47才)

大蓮院として常福寺(現在の芳泉寺)に葬られました。1622(元和8)2月、信之は大蓮院3回忌にあたり、上田に大英寺を建立しました。(現在上田にある芳泉寺の前身)

徳川政権により上田から松代へ移封される。徳川家康が死去

1622(元和8)年10月、信之は幕府から松代(松城)藩への移封を命じられ、上田藩には小諸藩から仙石氏が移ってくることにました。

松代への移封については、海野氏の時代から代々一族で守ってきた土地から離れる事に抵抗がありました。

信之は幕府から移封を命じられた帰り道、鴻巣にある小松殿の墓に立ち寄りました。信之は墓前で移封のことを、亡き妻に報告したに違いありません。そして、信之はこの地から国元に移封に納得した事を手紙で「我らこと、もはや老後に及び、万事要らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ、松城(のちの松代)へ相移る事に候」と伝えています。

この後あまり経たないうちに、信之は小野お通(真田信政の長男である真田信就の母)にも移封についての気持ちを手紙で伝えています。「もはや浮世にいらぬと存じ候へ共、子供のためと存じ、露の命の消えぬまでとて、世を渡り、あさげの煙心細さ、御押し測りて下されべく候」

信之は松代(松城)に移り、大連院の廟所である大英寺も松代へ移しました。

信之は松代10万石、沼田3万石で計13万石になりました。(信之57才。)

松代に移った信之は松代藩内に「侍は申すに及ばず末末にも哀憐を加え召し使うべきこと。」「実なるものを好めば家中その風になるものなり。驕りある者一旦は勇者のように見ゆるなり、よくよく勘弁のこと。」「常に法度多きはよろしからざること。」などの藩政の基本方針を示すとともに、奉行制度を拡充させて藩内政治の基礎固めを推し進めました。松代は上田と同様に北国街道が通っているところでもあり、城下町の整備もしました。

沼田3万石ついて、信之は引き続き長男信吉に任せ、松代10万石のうち、1万石を松代藩の支藩として次男信政に、7千石を三男信重に分け与えました。この埴科藩について詳しい事は分かっていませんが、領地は埴科郡と水内郡の中の16ヵ村だったようです。

1632(寛永9)年5月、信吉は正室である松仙院との間に、真田熊の助をもうけました。(信吉40才)

1626(寛永3)年8月、将軍家光が京都へ上洛し、これに伴う9月6日の御水尾天皇の二条城行幸では、信之らが守護を務めました。

1634(寛永11)年6月、将軍家光が京都へ上洛し、この時は信之の次男である信政が名代として随行しました。

1634(寛永11)年11月28日、信之の嫡子で沼田城主の信吉が江戸屋敷で逝去。(信吉42才)信吉の遺骸は沼田へ送られ、迦葉山で火葬されのち、天桂寺に葬られました。

1635(寛永12)年、信吉の嫡子である熊之助が沼田城主になりました。

1638(寛永15)年、信吉の嫡子で沼田城主である熊之助が逝去しました。

1639(寛永16)年7月25日、に信政が沼田4代藩主になりました。この時、沼田3万石のうち5千石を甥(兄信吉の次男)である信利に与えました。
松代藩の支藩である埴科藩は弟信重に譲りました。(信政43才)

信重は相撲や鷹狩りが好きで、これらに関した逸話が伝わっているようです。

信政は沼田藩主で、新田の開発に尽力し、石高を増やしていきました。

信政が治めていた松代藩の支藩である埴科藩1万石を三男信重が引き継ぎ、これまでの7000石とともに埴科藩17000石は三男である真田信重が治めました。(埴科藩については建藩の年月日や領地の範囲など詳細は不明です。)

1645(正保2年)年6月23日夜、三男信武が沼田城中にて次男信守に殺傷されました。(信政49才)

1647(正保4)年2月、2代埴科藩主である三男信重は武蔵国鴻巣にて亡くなりました。信重には嫡子がいなかったため、埴科藩は松代藩に統合され廃藩になりました。埴科藩は25年で幕を閉じたのです。埼玉県鴻巣市にある勝願寺には母小松殿の墓と並んで、信重夫妻の墓があります。

徳川家光に随行して京都滞在中に、信政は小野宗鑑尼(小野お通の娘である図子)との間に長男信就ができました。

1657(明暦3)年2月22日、右衛門佐(幸道)が沼田藩江戸屋敷で六男として生まれました。(信政61才)

隠居後に家督の相続争いが勃発

1657(明暦3)年7月23日、信之(92才)が35年間務めた松代藩(10万石)の家督を次男信政(61才)に譲り隠居し一当斎を名乗り、松代城から鬼門の方角にある柴村に住みました。この時、将軍である徳川綱吉はまだ11才という若さだったので、幕府のためにも信之の隠居を引き留める声が多かったようです。この時、信政が沼田から連れてきた側近達は「沼田侍」と呼ばれ、松代藩政で強い影響力を持ちました。

8月10日(9月説も有)、沼田藩(3万石)はそれまで藩主だった信政から、信吉の次男である信利(23才)に譲られました。

隠居後に家督の相続争いが勃発

松代藩主になった信政でしたが、病気が悪化して死期が近づいていることを悟り、自分の六男である右衛門佐(うえもんのすけ、後の幸道)に家督を継がせることを遺言として残しました。この時、幸道の上の4人の兄は無くなっており、長男信就は母親である小野宗鑑尼(二代目小野お通)が真田氏に入るのを遠慮したため、分家に出て旗本になりました。

松代藩主になってから約半年後の1658(明暦4)年2月5日、松代2代藩主である信政が亡くなりました。(真田信政62才)長国寺に葬られ、高野山の蓮華定院にも分骨されました。

松代藩を継いだ信政が病死したことにより、信政の子である右衛門佐(うもんのすけ、のちの幸道)と沼田藩主である信利の間で松代藩を巡る家督相続騒動が起こりました。

信政は生前に幕府幹部宛に遺書を出しており、そこには右衛門佐(幸道)に家督を譲ることが書かれていました。遺言書は信之に相談無く書かれたもので、信之は不愉快だったようですが、右衛門佐に家督を継がせるように動きました。

真田氏内部は右衛門佐派と信利派に分かれ、互いに幕府幹部への激しい工作合戦が繰り広げられました。

信利派の主なメンバーは、母松仙院の甥である老中・酒井忠清(厩橋15万石)、信利の妻の実家である山内忠豊(高知20万石)、親類の高力高長、信政の長男で分家として勘解由家を立ち上げていた真田信就などでした。

右衛門佐(幸道)派の主なメンバーは、祖父信之と信政が松代藩主になった時に松代へ移った家臣団でした。

右衛門佐(幸道)派の家臣達は、信利が家督を継いだ場合は切腹するという連判状まで用意しました

右衛門佐(幸道)と信利の間で起こった家督相続は、1658(万治元)年6月14日、幕府が松代3代藩主を信政の六男である右衛門佐(幸道)にする命令を出したことにより決着がつきました。

信之について、晩年は金銭に関してはケチだったと言う逸話も残っています。

真田信之、逝去

1658(万治元)年10月17日、93才で信之は逝去しました。

真田氏の菩提寺である長国寺に信之の霊屋が建てられました。

隠居所があった場所には大鋒寺が建てられ、信之の墓と霊屋があります。

側近の鈴木右近忠重が、生前にその約束があったようで、信之の後を追って切腹しました。

真田信政の側室、小野宗鑑尼と長男信就

信政の側室である小野宗鑑尼(二代目小野お通)の母は、信之と親交があった小野お通の娘です。

信政と小野宗鑑尼の間に長男信就が生まれましたが、小野宗鑑尼(二代目小野お通)は真田氏に入るのを拒んだ為、信就は信政の長男であるにも関わらず勘解由という姓を姓を名乗り、分家を立てました。

松代藩は信就の弟である幸道が継ぎ3代藩主になりましたが、幸道の長男が亡くなった後は幸道に男子が産まれなかったため、1703(元禄12)年に信就の七男が幸道の養子になって、1727(享保12)年に幸道が亡くなたっため真田信弘として4代藩主になっています。
昌幸は道鏡恵端禅師(正受老人)だった?

信之には、李雪という側室が存在したという伝承もあります。

李雪は身分が低かったため、当時大名だった真田氏の記録には載っていないのだそうです。

李雪は当時70才代だった信之との間に子供をもうけましたが、真田氏では身分の違いや家督争いの火種になることを警戒して、認知しませんでした。

この子供が後に、高僧である道鏡恵端禅師(どうきょうえたんぜんじ、通称:正受老人(しょうじゅろうじん))になったのだそうです。

李雪母子は松代には住めなかったため、飯山で暮らしたそうです。

鏡恵端禅師は至道無難禅師の弟子で、1642(寛永19)年生まれです。

長野県飯山市にある「正受庵」は、道鏡恵端禅師(正受老人)が過ごした臨済宗の古刹です。日本三庵の一つに数えられています。

沼田藩取り潰し
沼田藩の真田信利、圧政に走る

10万石の松代藩の藩主になることができなかったことで松代藩に対する強烈なコンプレックスが生まれてしまったのか、信利は沼田藩の実情に合わない派手な出費を重ねていきました。
沼田城の改造や神社仏閣の建造、江戸の藩邸を新改築するなど派手な金遣いが目立ち、藩の財政は厳しい状況だったようです。

沼田城の改造や神社仏閣の建造、江戸の藩邸を新改築するなど派手な金遣いが目立ち、藩の財政は厳しい状況だったようです。

信利は自分の藩政に異議を唱える家臣達を更迭して、自分の思い通りに動く家臣を身近に置いていきました。
その中でも塚本舎人を重用したようで、この塚本を中心に普請奉行の麻田権兵衛、御金奉行の宮下七太夫が信利による圧政を支えていったと言われています。

1662(寛文2)年、信利は厳しい沼田藩の財政を領民への負担を大きくする事で解決することにしました。
それは実質3万石だった沼田藩の石高を14万4000石として扱う事により、領民に重税を課すというものでした。

両国橋事件が起こり信利が失脚し、沼田藩が改易される

1680(延宝8)年夏、長雨や暴風雨が関東地方へ襲いました。

これにより、沼田藩は水害や冷害になり作物は不作になり沼田城にも損害が出ました。そして、江戸でも藩邸に大きな損害が出ました。

この時、江戸の大川(隅田川)に掛かる両国橋にも損害が出たので、幕府(将軍は徳川綱吉)は橋奉行である船越為景と松平忠勝に両国橋の掛け替えを命じました。

工事入札で大和屋久右衛門がで8500両にて落札しました。

大和屋はある日、江戸の小石川にある沼田藩の藩邸を訪れた際、沼田藩普請奉行の麻田権兵衛に両国橋建造に使う幕府御用木の調達を持ちかけました。

利から倒壊した藩邸の再建を命じられていましたが、資金難で頭を悩ましていた麻田にとって、大和屋から提示された契約金の3000両はのどから手が出る程欲しかったに違いありません。

沼田は山林が豊富だったので、御用木の調達は簡単だろうと思っていたのでしょう。

麻田は塚本を通じて信利から計画実行の許可を得ました。

沼田藩が大和屋から請け負った御用木は690本で、そのうち30本はケヤキでした。このケヤキは末口2尺7寸以上、長さ9間以上10間未満、納入期限は1681(延宝9)年8月20日でした。

沼田の領民が御用木の伐採に駆り出されましたが、日頃からの重税、さらに水害で疲弊していたところに重労働を課せられ、領民の不満はさらに高まっていきました。事前の調査を十分に行う余裕が無く、手探り状態で条件に合うケヤキの探索が行われました。山奥で容易に運び出せるところではなかったり、難航を極めました。

1681(天和元)年1月、信利は5年ぶりに国元である沼田で正月を迎えました。

信利は家臣を集め、御用木の調達を急ぐように命令しました。

1681(天和元)年1月、信利の悪政に耐えかねた2人の沼田領民が直訴状を持って江戸へ向かいました。

松井市兵衛は目付、杉木茂左衛門は将軍家に訴状を持って行きました。

5月、幕府の巡検使が沼田を訪れ、藩内を視察しましたが、江戸にいた幕府幹部が状況を心配していたのか、夜になって巡検使は江戸に急飛脚を向かわせました。

8月、御用木の納期になりましたが、ケヤキについては30本無ければならない所を8本しか間に合いませんでした。
幕府は、納期を10月に延期することを許しました。

10月、延期された納期を過ぎましたが8月の分を合わせて13本しか集まっていませんでした。

延べ168,673人、食糧5200俵、金8127両を掛けましたが、納期までに江戸に着いた御用木は6本で、納期を延期した10月になっても合計で13本でした。

御用木が調達できなければ両国橋の建造はできず、延期をしても調達のめどが立たなかった事を重く見た幕府は、大和屋久右衛門を投獄しました。

10月29日、幕府は麻田権兵衛を呼びつけ、御用木が調達できなかったことについて問いました。

10月30日、幕府は奉行である船越為景と松平忠勝に閉門を命じました。

11月1日、幕府は信利に謹慎を命じました。

1681(天和元)年11月22日、信利と信利の嫡子である信音が幕府評定所に呼び出されました。
老中である大久保加賀守忠朝が列席。10ヵ条に渡り、厳しく問いただされました。

この評定で信利は釈明できず、信利は領地を没収、改易、配流されることが決まりました。信利は出羽国の山形藩主である奥平小次郎昌章、信音は播磨国の赤穂藩主である浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)に身を預けられることになりました。

翌日23日には塚本舎人、麻田権兵衛、宮下七太夫が切腹しました。

こうして、信利の藩主生命24年の幕が閉じました。同時に、1580(天正8)年5月に曾祖父昌幸が勝ち取った沼田城は、真田氏在城101年目にして真田氏の手から離れることになりました。

松井市兵衛は斬首、杉木茂左衛門は磔(はりつけ)の刑になりました。

沼田真田藩が取り潰しになった直後の1682(天和2)年1月、幕府によって沼田城が破壊されました。この時、関東に唯一存在していた5層の天守などが失われました。

沼田藩は幕府の直轄地(天領)になり、代官が派遣されるようになりました。

1684(天和3)3月、幕府による再検地が行われ、沼田領は64500石になり、領民への税金が低くなりました。

1685(貞享2)年6月22日、幕府による四方領知替えにより、奥平氏に山形から宇都宮への移封が命令され、それに伴い信利も宇都宮へ移りました。

1688(貞享5)年1月16日、宇都宮にて真田信利が亡くなりました。(信利享年54才)江戸神田の吉祥寺(現在は文京区)に葬られましたが、この墓石は現存していないと言われています。墓は龍華院弥勒寺に現存しています。

幸道以後の松代藩の歴史
歴代の真田藩主

幸道以後の真田氏に関しては、「真田データベース」の各藩主ページをお読みください。

松代3代藩主 真田幸道

松代4代藩主 真田信弘

松代5代藩主 真田信安

松代6代藩主 真田幸弘

松代7代藩主 真田幸専

松代8代藩主 真田幸貫

松代9代藩主 真田幸教

松代10代藩主 真田幸民

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