真田氏年表(ダイジェスト版)
月日
出来事
真田氏年齢
関連大名年齢
1400
応永7
9月
~10月
大塔合戦
村上頼清が率いる豪族連合が信濃守護である小笠原長秀を破る。豪族連合に実田氏(真田氏の事だという説が現在では有力か。)が参加。
   
1441
嘉吉元
12月30日
結城合戦
真田源太・真田源五・真田源六が参加。
   
1501
文亀元
3月11日
村上義清 誕生
 
  村上義清 1才生
1513
永正10
 
真田幸隆 誕生
幸隆の名前については「幸綱」とする説が最近有力になっていますが、rokumonsen.comでは幸隆を採用している。
幸隆 1才生 村上義清13才
1515
永正12
 
北条氏康 誕生
 
  村上義清15才
北条氏康 1才生
1519
永正16
 
今川義元 誕生
 
  村上義清19才
今川義元 1才生
1521
大永元
11月3日
武田晴信 誕生
 
幸隆 9才 村上義清20才
北条氏康 7才
今川義元 3才
武田信玄 1才生
1530
享禄3
 
安智羅明神に真田幸隆の木像が奉納
この木像のモデルについては、真田幸隆説と真田信繁(真田幸村)説の2種類が、幸隆説が有力。
幸隆18才 村上義清30才
北条氏康16才
今川義元12才
武田信玄10才
上杉謙信 1才生
1月21日
上杉謙信(長尾景虎)誕生
 
1534
天文3
5月12日
織田信長 誕生
 
  村上義清34才
北条氏康20才
今川義元16才
武田信玄14才
上杉謙信 5才
織田信長 1才生
1535
天文4
 
武田信虎が諏訪頼継と和睦
 

 

幸隆23才

村上義清35才
北条氏康21才
今川義元17才
武田信玄15才
上杉謙信 6才
織田信長 2才

1537
天文6
 
真田信綱(真田幸隆 長男) 誕生
 
幸隆25才
信綱 1才生
村上義清37才
北条氏康23才
今川義元19才
武田信玄17才
上杉謙信 7才
織田信長 4才
豊臣秀吉 1才生
2月6日
豊臣秀吉 誕生
 
1538天文7  
北条氏政 誕生
 
幸隆26才
信綱 2才

村上義清38才
北条氏康24才
今川義元20才
武田信玄18才
上杉謙信 8才
織田信長 5才
豊臣秀吉 2才
北条氏政 1才生

1540
天文9
5月
武田信虎が佐久郡に侵攻し、諸城(北佐久郡)を攻略
 
幸隆28才
信綱 4才
村上義清40才
北条氏康26才
今川義元22才
武田信玄20才
上杉謙信11才
織田信長 7才
豊臣秀吉 4才
北条氏政 3才
11月
信虎の娘(晴信の妹)が諏訪頼重に嫁入り
武田氏と諏訪氏は親戚関係になる。
1541
天文10
5月
「海野平の合戦」
武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍が海野氏一族を破り、村上氏が小県郡と佐久地域を制圧。
海野氏の嫡子である海野幸義が戦死、大将である海野棟綱は没落。
真田氏一族は上州(上野)へ逃れ、箕輪城主である長野業正を頼る。
幸隆29才
信綱 5才
村上義清41才
北条氏康27才
今川義元23才
武田信玄21才
上杉謙信12才
織田信長 8才
豊臣秀吉 5才
北条氏政 4才
6月
信玄、父信虎を駿河国へ追放し、武田氏当主になる
武田信玄(晴信)は、父である武田信虎を駿河へ追放し、武田氏の当主になる。(信玄21才)
7月
海野棟綱は領地を奪還のため、上杉憲政らに出兵を要請
海野棟綱は領地を奪還するために、関東管領である上杉憲政らに出兵を要請。
これに対し、上杉氏は佐久や小県に出兵はしたものの、長尾・武田・村上の各氏と決定的な対立状態にしたくなかった。そのため、形式的な出陣となり成果は無かった。
真田氏にとって「真田」の領地を回復することは悲願であり、他力本願にならざるを得なかった真田氏にとって我慢の日々だった。
1542
天文11
7月
武田晴信は諏訪頼重を破り、諏訪を制圧
頼重は自害し、諏訪氏は滅亡。
幸隆30才
信綱 6才
村上義清42才
北条氏康28才
今川義元24才
武田信玄22才
上杉謙信13才
織田信長 9才
豊臣秀吉 6才
北条氏政 5才
徳川家康 1才生
12月
祢津元直の娘が武田晴信に嫁入り
武田氏と祢津氏は親戚関係になる。
12月26日
徳川家康 誕生
 
1543
天文12
 
真田昌輝(真田幸隆 二男)誕生
 
昌輝 1才生

村上義清43才
北条氏康29才
今川義元25才
武田信玄23才
上杉謙信14才
織田信長10才
豊臣秀吉 7才
北条氏政 6才
徳川家康 2才

1544
~45
天文13
~14
 
武田晴信(信玄)は上伊那と東筑摩方面に侵攻
信玄、信濃の広範囲な侵略を始める。
幸隆32才
~33才
信綱8才
~9才
昌輝2才
~3才

村上義清44才
北条氏康30才
今川義元26才
武田信玄24才
上杉謙信15才
織田信長11才
豊臣秀吉 8才
北条氏政 7才
徳川家康 3才

1544
~47
天文13
~16
 
この頃、真田幸隆と矢沢氏が武田晴信(信玄)の配下に入る
正確な時期は諸説あり断定できないが、この頃に旧海野一族を率いて真田幸隆は武田氏の配下に加わった。
ここから、真田一族の活躍が始まるのである。

 

幸隆32才
~35才
信綱8才
~11才
昌輝2才
~5才
村上義清44才
北条氏康30才
今川義元26才
武田信玄24才
上杉謙信15才
織田信長11才
豊臣秀吉 8才
北条氏政 7才
徳川家康 3才
1546
天文15
 
武田勝頼 誕生
 
幸隆34才
信綱10才
昌輝 4才
村上義清46才
北条氏康32才
今川義元28才
武田信玄26才
上杉謙信17才
織田信長13才
豊臣秀吉10才
北条氏政 9才
徳川家康 5才
武田勝頼 1才生
5月
武田晴信(信玄)が佐久郡にある内山城を攻略
幸隆はその先鋒を務めた。
1547
天文16
 
真田昌幸(真田幸隆 三男)誕生
 
幸隆35才
信綱11才
昌輝 5才
昌幸 1才生
信尹 1才生

村上義清47才
北条氏康33才
今川義元29才
武田信玄27才
上杉謙信18才
織田信長14才
豊臣秀吉11才
北条氏政10才
徳川家康 6才
武田勝頼 2才

 
真田信尹(真田幸隆 四男)誕生
 
 
武田晴信(信玄)が佐久郡の志賀城を攻略
武田氏による佐久での合戦で、幸隆は日常的に動員されていたと思われる。
この頃、幸隆は武田氏から岩尾城(長野県佐久市鳴瀬)の城主を任されていたこともある。
1548
天文17
2月14日
武田晴信(信玄)と村上義清による「上田原合戦」
真田幸隆は開戦前から武田方として村上氏攻略に武田方への投降を促すなど、武田氏家臣として根回しをした。
武田方と村上方は上田原で戦闘を繰り広げた。
幸隆の働きが実らず、武田方は大敗退。
晴信の重臣である板垣信方が戦死。
幸隆36才
信綱12才
昌輝 6才
昌幸 2才
信尹 2才
村上義清48才
北条氏康34才
今川義元30才
武田信玄28才
上杉謙信19才
織田信長15才
豊臣秀吉12才
北条氏政11才
徳川家康 7才
武田勝頼 3才
7月
武田氏の勢いが鈍っていると判断した小笠原氏を破る
武田氏が村上氏に大敗したことを切っ掛けにして、林城主の小笠原氏が諏訪に向けて進軍してきたが、武田氏は塩尻峠合戦でこれを破り、体制の立て直しに成功した。
12月
長尾景虎が家督を継ぐ
後に上杉謙信として信玄と張り合う景虎が長尾氏の家督を継いだ。
1549
天文18
3月
幸隆の名前を確認することできる最古の資料
武田晴信(信玄)が佐久の望月源三郎に所領を与えた文書が現在残っているが、そこにその時の使者として真田幸隆の名が文献に記されている。(これが幸隆の名前を確認することできる最古の資料。)
幸隆37才
信綱13才
昌輝 7才
昌幸 3才
信尹 3才
村上義清49才
北条氏康35才
今川義元31才
武田信玄29才
上杉謙信20才
織田信長16才
豊臣秀吉13才
北条氏政12才
徳川家康 8才
武田勝頼 4才
4月
晴信が佐久郡にある春日城を攻略
望月氏、伴野氏が武田氏の家臣になった。
9月
晴信が平原城を攻撃
佐久郡平定になお力を注ぐ。
1550
天文19
7月2日
幸隆、信玄から砥石城陥落達成後の恩賞を約束される
幸隆は、晴信(信玄)から「砥石城攻略が上手くいった時には小県郡にある諏訪形の地などを与える」と約束される
幸隆38才
信綱14才
昌輝 8才
昌幸 4才
信尹 4才

村上義清50才
北条氏康36才
今川義元32才
武田信玄30才
上杉謙信21才
織田信長17才
豊臣秀吉14才
北条氏政13才
徳川家康 9才
武田勝頼 5才

7月
武田晴信が林城を守る小笠原長時を破り松本平を制圧
小笠原氏を討伐した武田氏は村上包囲網を作り上げていった。
9月
砥石合戦が開戦
晴信が再び砥石城を攻める。
10月1日
砥石合戦でも晴信(信玄)は村上勢に再度敗れ退却
この戦いは「信玄の戸石崩れ」とも言われる。
1551
天文20
5月26日
真田幸隆は独力で村上氏の戸石城を攻略
幸隆は武田氏から諏訪形の地(上田)などを与えられる。
幸隆39才
信綱15才
昌輝 9才
昌幸 5才
信尹 5才
村上義清51才
北条氏康37才
今川義元33才
武田信玄31才
上杉謙信22才
織田信長18才
豊臣秀吉15才
北条氏政14才
徳川家康10才
武田勝頼 6才
7月
晴信が飯富虎昌と上原昌辰に信濃への出陣を命令
信玄はそのことを幸隆にも知らせる
1553
天文22
4月初頭
武田軍が松本経由で村上義清を攻め始める
松本平に残った反武田の残党の討伐に乗り出し、村上氏を東信方面から攻めるだけでなく、中信方面からも攻めていった。

幸隆41才
信綱17才
昌輝11才
昌幸 7才
信尹 7才

村上義清53才
北条氏康39才
今川義元35才
武田信玄33才
上杉謙信24才
織田信長20才
豊臣秀吉17才
北条氏政16才
徳川家康12才
武田勝頼 8才

4月9日
村上義清の葛尾城と塩田城が陥落
義清は長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後へ逃れ、これが後に景虎が信濃に侵攻する理由になる。
これ以後、武田氏と村上氏の国境線を維持していた村上氏がいなくなったことで、武田晴信と長尾景虎(のちに上杉政虎、その後更に謙信と改名)による川中島の戦いが断続的に起こるようになる
4月22日
「第一次川中島合戦」武田、上杉の両軍が衝突
この日の戦いで武田軍は後退し、義清は領地を回復し、小県郡にある塩田城へ入る。
7月
~8月上旬
武田、和田城、高鳥屋城、内村城を次々と攻略。
信玄、東信地方の平定を目指す。
8月5日
武田、塩田城を攻略
村上義清は再び上杉氏のもとへ逃亡
小県郡は武田領となる。
8月10日
幸隆は、三男昌幸と四男信尹を、武田氏へ人質として出した
昌幸と信尹はこれより以降しばらく甲府にて暮らす。
昌幸は武田家ゆかりの武藤姓を与えられ武藤喜兵衛と名乗る。
信玄は人質のかわりとして、幸隆に小県の秋和の地を与える。
 
この頃、幸隆は念願の旧領復帰を果たす。
海野平合戦以来、12年ぶり。
9月
「第一次川中島合戦」終結
長尾景虎が川中島に出兵し、退却
信濃国と越後国の国境付近で長尾軍と武田軍の攻防が続く。
1554
天文23
 
この頃、武田晴信はほぼ信州一円を支配下に納めた
 

幸隆42才
信綱18才
昌輝12才
昌幸 8才
信尹 8才

村上義清54才
北条氏康40才
今川義元36才
武田信玄34才
上杉謙信25才
織田信長21才
豊臣秀吉18才
北条氏政17才
徳川家康13才
武田勝頼 9才
 
真田氏が本領である真田へ復帰
 
12月
武田信玄は娘を、北条氏康の嫡子である氏政に嫁がせた
これにより武田と北条の和睦が成立。
1555
弘治元
7月
「第二次川中島合戦」開戦
武田軍と長尾軍は4ヶ月間、対峙する。
幸隆43才
信綱19才
昌輝13才
昌幸 9才
信尹 9才

村上義清55才
北条氏康41才
今川義元37才
武田信玄35才
上杉謙信26才
織田信長22才
豊臣秀吉19才
北条氏政18才
徳川家康14才
武田勝頼10才

10月
「第二次川中島合戦」終結
武田軍と長尾軍は和睦して両軍が撤退した
1556
弘治2
9月8日
信玄が幸隆に松代東条にある雨飾(尼飾)城の攻略を促す
 
幸隆44才
信綱20才
昌輝14才
昌幸10才
信尹10才
村上義清56才
北条氏康42才
今川義元38才
武田信玄36才
上杉謙信27才
織田信長23才
豊臣秀吉20才
北条氏政19才
徳川家康15才
武田勝頼11才
 
幸隆が雨飾(尼飾)城を陥落させる
(陥落させた時期は定かではない。)
1557
弘治3
2月
武田軍が水内郡にある葛山城を攻略する。
 
幸隆45才
信綱21才
昌輝15才
昌幸11才
信尹11才

村上義清57才
北条氏康43才
今川義元39才
武田信玄37才
上杉謙信28才
織田信長24才
豊臣秀吉21才
北条氏政20才
徳川家康16才
武田勝頼12才

4月
「第三次川中島合戦」
武田軍と長尾軍は4ヶ月間、対峙する。
1558
永禄元
4月
幸隆、信玄から雨飾(尼飾)城の在番に命じられる
幸隆は小山田昌行とともに信玄から雨飾(尼飾)城の在番に命じられる
幸隆46才
信綱22才
昌輝16才
昌幸12才
信尹12才
村上義清58才
北条氏康44才
今川義元40才
武田信玄38才
上杉謙信29才
織田信長25才
豊臣秀吉22才
北条氏政21才
徳川家康17才
武田勝頼13才

1559
永禄2

 
将軍足利義輝から関東管領になることを許される。
この時、長尾景虎は京に約半年間滞在していたため、この期を逃すまいと武田氏は越後方面を攻めた。
幸隆47才
信綱23才
昌輝17才
昌幸13才
信尹13才

村上義清59才
北条氏康45才
今川義元41才
武田信玄39才
上杉謙信30才
織田信長26才
豊臣秀吉23才
北条氏政22才
徳川家康18才
武田勝頼14才

昌幸ら、関東管領になった謙信に祝いの太刀を送る
武田氏と上杉氏の間で微妙な立場であった海野・真田・祢津・室賀などの小県の諸侍は、それぞれの立場を守るために祝いの太刀を景虎へ送っている。
武田晴信は武田信玄と名乗り始める
武田晴信はこの頃、武田信玄に改名した。
1560
永禄3
5月19日
「桶狭間の戦い」
今川義元が織田信長との合戦で戦死。
(今川義元 享年42才)
幸隆48才
信綱24才
昌輝18才
昌幸14才
信尹14才
村上義清60才
北条氏康46才
今川義元42才没
武田信玄40才
上杉謙信31才
織田信長27才
豊臣秀吉24才
北条氏政23才
徳川家康19才
武田勝頼15才
 
海野一族の全てが武田氏や真田氏と完全合流が完了
石井棟喜や真田綱吉ら武田傘下に入っていなかった海野一族の一部が武田氏の家臣になり、この頃に海野一族の全てが武田氏や真田氏と完全に合流したものと思われる。
海野氏の居城である海野城(現在の東御市本海野白鳥台)の修築が行われ、幸隆も工事に協力した。
1561
永禄4
3月
長尾景虎(上杉謙信)は上杉を継ぎ関東管領職に就く
長尾景虎は北条氏康の小田原城を攻撃。
その後、鎌倉に入り上杉氏の家督を相続、名前を上杉政虎に改名、関東管領職に就いた。
幸隆49才
信綱25才
昌輝19才
昌幸15才
信尹15才
村上義清61才
北条氏康47才
武田信玄41才
上杉謙信32才
織田信長28才
豊臣秀吉25才
北条氏政24才
徳川家康20才
武田勝頼16才
9月21日
「第四次川中島合戦」
川中島合戦の中で最大の激戦である「八幡原の戦い」が武田軍と上杉軍の間に起こる。
幸隆も嫡子である信綱とともに参戦。
幸隆の三男である武藤喜兵衛(真田昌幸)も小姓として信玄と共に来ていた。
幸隆は山本勘助の啄木鳥(きつつき)作戦に従い、深夜になってから景虎がいる妻女山を背後から攻めた。
しかし、幸隆隊らが妻女山に着いた頃は上杉軍の姿はなく、幸隆隊らは慌てて山を下り始めた。
朝霧が晴れた時、両陣営は大変接近していたため、姿が見えた途端に合戦に発展しし、武田・上杉両軍による大規模な戦闘が始まった。
信玄の弟である信繁や軍師である山本勘助など重要人物が多数戦死。
激しい戦いだったが、決着はつかなかった。
11月
武田氏は国峰城(上野国)を攻略
武田氏は北関東への進出を始める。
12月
上杉政虎が上杉輝虎に改名
上杉政虎(上杉謙信)が将軍義輝から一字を拝領し、輝虎に改名する。
1562永禄5  
北条氏直 誕生
のちに北条氏5代当主になる氏直が誕生。
  北条氏直 1才生
1563
永禄6
9月
武田方による岩櫃城攻めが開始
真田幸隆は斎藤憲広が守る岩櫃城を攻撃。
この合戦には、昌幸の三男である武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)も戦いに加わっている。

幸隆51才
信綱27才
昌輝21才
昌幸17才
信尹17才

村上義清63才
北条氏康49才
武田信玄43才
上杉謙信34才
織田信長30才
豊臣秀吉27才
北条氏政26才
徳川家康22才
武田勝頼18才
北条氏直 2才
10月
幸隆、岩櫃城を攻略
真田幸隆は斉藤憲広を破り、上州吾妻郡の要害である岩櫃城を攻略
この勝利で、幸隆は信玄に吾妻郡の守将を命ぜられる。
1564
永禄7
 
幸隆、長野原で長期滞在し、安定化を図る
このころ幸隆は海野、祢津らとともに長野原に布陣し、経略に務める
幸隆52才
信綱28才
昌輝22才
昌幸18才
信尹18才
村上義清64才
北条氏康50才
武田信玄44才
上杉謙信35才
織田信長31才
豊臣秀吉28才
北条氏政27才
徳川家康23才
武田勝頼19才
北条氏直 3才
3月
文献に「一徳斎」の名
この頃、幸隆は隠居し「一徳斎」に改名した。
幸隆、家督を長男信綱に譲る
幸隆が隠居したことで、真田氏の家督は信綱に継承された。
8月
「第五次川中島合戦」
1565
永禄8
9月
信玄、長男を謀反の疑いで幽閉
信玄は今川から正室を迎えた義信を謀反の疑いで幽閉
幸隆53才
信綱29才
昌輝23才
昌幸19才
信尹19才
村上義清65才
北条氏康51才
武田信玄45才
上杉謙信36才
織田信長32才
豊臣秀吉29才
北条氏政28才
徳川家康24才
武田勝頼20才
北条氏直 4才
11月
真田幸隆が上州吾妻郡の岳山(嶽山)城を攻略
岳山城主の池田氏は武田氏に服属。
1566
永禄9
 
昌幸の長男、真田信幸が生まれる
真田昌幸(武藤喜兵衛)の長男である真田信幸(真田信之)が生まれる。

幸隆54才
信綱30才
昌輝24才
昌幸20才
信尹20才
信之 1才生

村上義清66才
北条氏康52才
武田信46玄才
上杉謙信37才
織田信長33才
豊臣秀吉30才
北条氏政29才
徳川家康25才
武田勝頼21才
北条氏直 5才
8月
信玄が西上野最大の城である箕輪城を攻略
3年前の岩櫃城の攻略と合わせて、武田氏は関東西北部へ着々と領土を広げていった。
1567
永禄10
 
昌幸の二男、真田信繁(真田幸村)が生まれる
真田昌幸(武藤喜兵衛)の二男である真田信繁(真田幸村)が生まれる。
幸隆55才
信綱31才
昌輝25才
昌幸21才
信尹21才
信之 2才
信繁 1才生
村上義清67才
北条氏康53才
武田信玄47才
上杉謙信38才
織田信長34才
豊臣秀吉31才
北条氏政30才
徳川家康26才
武田勝頼22才
北条氏直 6才
3月
幸隆は上野国の白井城を攻略
上野国での領土を拡大
8月
信玄、生島足島神社に起請文を奉納
信玄、配下の将士に信玄への忠誠を誓わせる起請文を提出させ、生島足島神社(現在の長野県上田市)に奉納。
10月19日
信玄が幽閉させていた嫡子義信は幽閉先で自害
今川氏から嫁入りしていた義信の正室は駿河へ送り返される。
1568
永禄11
2月
武田氏、上杉氏の飯山城を攻撃
信玄自らも北信へ攻め込んで上杉氏の飯山城を攻める。
  村上義清68才
北条氏康54才
武田信玄48才
上杉謙信39才
織田信長35才
豊臣秀吉32才
北条氏政31才
徳川家康27才
武田勝頼23才
北条氏直 7才
1569
永禄12
 
足利氏、織田討伐を武田氏にも依頼

足利氏は織田氏が天下統一を目指して動いていることに危機感を感じて、反織田の大名に向けて織田討伐を打診する密書を送り、武田氏も密書が届いた。

幸隆57才
信綱33才
昌輝27才
昌幸23才
信尹23才
信之 4才
信繁 3才
村上義清69才
北条氏康55才
武田信玄49才
上杉謙信40才
織田信長36才
豊臣秀吉33才
北条氏政32才
徳川家康28才
武田勝頼24才
北条氏直 8才
10月6日
三増峠の戦い
幸隆の三男である武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)も戦いに加わっている。
12月6日
信玄が駿河国の蒲原城を攻略する
信玄は蒲原城を攻略を幸隆(一徳斎)と信綱へ知らせている。
1570
元亀元
 
上杉輝虎は上杉謙信に改名
この頃、上杉輝虎は上杉謙信に改名した。
(昔はは長尾景虎と名乗っていた時期もあった。)
幸隆58才
信綱34才
昌輝28才
昌幸24才
信尹24才
信之 5才
信繁 4才
村上義清70才
北条氏康56才
武田信玄50才
上杉謙信41才
織田信長37才
豊臣秀吉34才
北条氏政33才
徳川家康29才
武田勝頼25才
北条氏直 9才
4月
信玄が高坂昌信に上野国のことは信綱に託すよう命令
信玄が高坂昌信(春日虎綱)に、上野国のことは信綱に託して、伊豆侵攻へ合流するよう命じる。
10月
家康、信玄と断交し、謙信と和を結ぶ
徳川家康は武田信玄と断交し、上杉謙信と同盟を結ぶ。
 
信玄、西上作戦を開始する
足利義昭の要請に応えて京を目指し、西方への侵攻を始める。
1571
元亀2
10月
北条氏康が病死
(北条氏康享年57才)
幸隆59才
信綱35才
昌輝29才
昌幸25才
信尹25才
信之 6才
信繁 5才
村上義清71才
北条氏康57才没
武田信玄51才
上杉謙信42才
織田信長38才
豊臣秀吉35才
北条氏政34才
徳川家康30才
武田勝頼26才
北条氏直10才
12月
北条氏は上杉氏と断交、再び武田氏と同名を結ぶ。
上杉氏との関係が悪化していた北条氏は武田氏と同盟を結んだ。
1572
元亀3
3月
幸隆が白井城(上州群馬郡)を攻略
幸隆は上杉謙信の重臣である上杉憲景の白井城(上州群馬郡)を攻略。
これを受けて信玄は幸隆に、箕輪城にて春日虎綱の指示を待つように命じる。
幸隆60才
信綱36才
昌輝30才
昌幸26才
信尹26才
信之 7才
信繁 6才

村上義清72才
武田信玄52才
上杉謙信43才
織田信長39才
豊臣秀吉36才
北条氏政35才
徳川家康31才
武田勝頼27才
北条氏直11才

12月
「三方ヶ原合戦」
遠江三方ヶ原の戦いで、信玄が織田・徳川連合軍を敗る
昌幸は足軽大将として騎馬15騎、足軽30人を引き連れ参戦
1573
元亀4
1月
信玄、家康を深追いせず、長篠城に入る
信玄は三河の野田城を攻略したのち、長篠城に入る
幸隆61才
信綱37才
昌輝31才
昌幸27才
信尹27才
信之 8才
信繁 7才

村上義清73才没
武田信玄53才没
上杉謙信44才
織田信長40才
豊臣秀吉37才
北条氏政36才
徳川家康32才
武田勝頼28才
北条氏直12才

1月1日
義清、越後で逝去
村上義清は越後の根知城で逝去。
(村上義清 享年73才)
3月
上杉方が白石城を攻略
幸隆は上野で上杉軍との攻防を続けた。
4月12日
信玄が伊那の駒場(現在の飯田市の南方)にて病死
(武田信玄 享年53才)
 
信玄の四男である勝頼が武田家を継ぐ
 
7月
織田信長は宇治槙島城に挙兵した足利義昭を攻め滅ぼす
これにより室町幕府は滅亡した。
1574
天正2
5月19日
真田幸隆が上野吾妻の地にて病死
(真田幸隆 享年62才)
幸隆62才没
信綱38才
昌輝32才
昌幸28才
信尹28才
信之 9才
信繁 8才
上杉謙信45才
織田信長41才
豊臣秀吉38才
北条氏政37才
徳川家康33才
武田勝頼29才
北条氏直13才
11月
信綱、四阿山(白山権現)別当職が安堵される
 
1575
天正3
 
この頃、武田家と北条家の関係が再び悪化し両氏は断交
 
信綱39才没
昌輝33才没
昌幸29才
信尹29才
信之10才
信繁 9才
上杉謙信46才
織田信長42才
豊臣秀吉39才
北条氏政38才
徳川家康34才
武田勝頼30才
北条氏直14才
 
「長篠合戦」
武田勝頼、織田・徳川連合軍に大敗。
この戦いで真田信綱と真田昌輝が戦死。
(真田信綱 享年39才、真田昌輝 享年33才)
5月21日
昌幸が真田の家督を相続
兄2人長篠合戦でが戦死したため、幸隆の三男である武藤喜兵衛が真田家を継いだ。(昌幸29才)
真田氏の家督を継いだ武藤喜兵衛は、真田昌幸に改名。
1576
天正4
1月
武田勝頼は岩櫃城の城代に海野幸光・輝幸を任命
勝頼は吾妻郡の拠点である岩櫃城の城代に海野幸光・輝幸を任命する。この頃、昌幸は吾妻郡の統括を担当していた。
昌幸30才
信尹30才
信之11才
信繁10才
上杉謙信47才
織田信長43才
豊臣秀吉40才
北条氏政39才
徳川家康35才
武田勝頼31才
北条氏直15才
9月
北条氏が上野国への侵攻侵攻を着々と進める
この頃、昌幸は北条氏が上野国を着々と侵攻していることを報告した。
昌幸からの報告を受けて勝頼は北条氏政を警戒し、昌幸に北上野の防備強化を命じています。
1577
天正5
8月
勝頼は昌幸に対し、織田信長の行動が活発であることを伝える
 
昌幸31才
信尹31才
信之12才
信繁11才
上杉謙信48才
織田信長44才
豊臣秀吉41才
北条氏政40才
徳川家康36才
武田勝頼32才
北条氏直16才
1578
天正6
2月13日
上杉謙信が越後にある春日山城で病死
(上杉謙信 享年49才) 

昌幸32才
信尹32才
信之13才
信繁12才

上杉謙信49才没
織田信長45才
豊臣秀吉42才
北条氏政41才
徳川家康37才
武田勝頼33才
北条氏直17才
3月
「御館の乱」
謙信には実子はなく、景勝と景虎という2人の養子がいたため、2人の間で相続争いが起こる。(御館の乱)
1579
天正7
7月
景虎が自害し御館の乱が決着、景勝が上杉の家督を相続
上杉景勝と上杉景虎の間で起こった上杉家の相続争いは景虎が自殺したことで決着し、景勝が上杉家を継ぐことになった。
武田勝頼は景勝を応援した。
昌幸33才
信尹33才
信之14才
信繁13才
織田信長46才
豊臣秀吉43才
北条氏政42才
徳川家康38才
武田勝頼34才
北条氏直18才
 
北条氏が上杉内乱に乗じて、上野国での領土拡大
北条氏が上杉氏内部の混乱に乗じて、上杉領であった利根郡のほぼ全域を手中にし、沼田城を攻略。
 
武田勝頼と上杉景勝は盟約を結ぶ
吾妻郡を領する昌幸にとっては朗報。
 
勝頼の妹が景勝へ嫁ぐ
武田勝頼は妹である菊姫を上杉景勝と結婚させた。
9月
北条氏政と徳川家康が同盟を結ぶ
織田徳川連合と北条氏が手を結んだことで、武田氏は東西からの脅威にさらされることになった。
1580
天正8
3月
昌幸が改めて高野山蓮華定院を真田郷住民の宿坊と定める
昌幸は以前から真田郷(小県郡)住民の宿坊であった高野山蓮華定院を改めて真田郷住民の宿坊と定める。
昌幸34才
信尹34才
信之15才
信繁14才
織田信長47才
豊臣秀吉44才
北条氏政43才
徳川家康39才
武田勝頼35才
北条氏直19才
5月
真田氏が沼田城を攻略
真田昌幸の配下である矢沢頼綱が上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略。
1580(天正8)年~1590(天正18)年については、昌幸の伯父である矢沢頼綱が城代を努めていたと考えられる
1581
天正9
2月
武田勝頼が新府城の築城を開始
昌幸が普請奉行を務める。
昌幸35才
信尹35才
信之16才
信繁15才
織田信長48才
豊臣秀吉45才
北条氏政44才
徳川家康40才
武田勝頼36才
北条氏直20才
2月
沼田の旧領主が沼田奪還を決行したが、失敗
沼田の旧領主の血を引く沼田平八郎景義が、沼田奪還のため進撃したが、昌幸が景義の叔父を使って景勝を謀殺。
9月
新府城がほぼ完成
築城のスピードの早さは武田氏の立場の苦しさを表してる。
11月
海野兄弟に謀反の疑いがあり、昌幸が討伐
真田氏の監督下で岩櫃城主を務めていた海野幸光と、沼田城主の海野輝幸は、謀反の疑いで昌幸に討伐される。
12月24日
武田氏、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府城に移動
勝頼は武田氏が63年間にわたって本拠地にしていた躑躅ヶ崎館から新府城に本拠地を移した。
1582
天正10
1月
武田方の木曽氏が織田方に寝返り、勝頼は挙兵
武田家の配下にあった木曽義昌が織田氏に寝返る。この動きが武田氏内部に広がることを恐れた勝頼は挙兵する。
昌幸36才
信尹36才
信之17才
信繁16才
織田信長49才没
豊臣秀吉46才
北条氏政45才
徳川家康41才
武田勝頼37才没
北条氏直21才
2月
織田氏の信濃侵攻で、武田氏は織田氏への寝返りが続出
木曽義昌を討つために武田勝頼は、諏訪上原城に陣を進める。
これを知った義昌は織田信長に支援を要請。
信濃に侵攻した織田信忠らの軍勢は、武田方の下条信氏と小笠原信嶺を駆逐し、伊那谷を怒濤の勢いで北上。
これにより武田氏を裏切る者が続出。
勝頼の従兄にあたる穴山信君(梅雪)が徳川方に服属したことに衝撃を受けた勝頼は諏訪から新府城へ引き上げた。
この時、昌幸は勝頼を岩櫃城に迎え入れる準備をしていたが、小山田氏や長坂氏の進言で叶わず。
3月
織田方信濃侵攻の知らせで昌幸も挙兵
岩櫃城にいた昌幸は沼田城主の矢沢頼綱に兵を召集される。
3月2日
織田信忠は高遠城を攻略
織田信忠は勝頼の弟である仁科盛信を破り、高遠城を攻略
3月3日
織田信忠、諏訪大社の上社を焼き、高島城を攻略
織田信忠は諏訪に入り、諏訪大社の上社を焼き、高島城を攻略
武田氏、会議にて新府城から出ることを選択
勝頼は会議で、小山田氏の意見に従い新府城から出て、城に火を放つち、小山田信茂の居城である岩殿城へ向かう。
昌幸は岩櫃上へ勝頼を迎えることを進言したが実現せず、妻子を連れて岩櫃城へ向かう。
3月7日
織田信忠が甲府まで侵攻
勝頼は完全に窮地に立たされる。
3月11日
「天目山の戦い」武田勝頼自害、武田氏が滅亡
結局、小山田氏や長坂氏は勝頼を裏切り、武田勝頼とその嫡子である信勝は天目山にて自害。
(武田勝頼 享年37才)
武田家が滅亡。
武田氏の領地を織田軍が占領、昌幸は信長の配下に入る。
3月12日
昌幸、北条氏から勧誘される
昌幸は武蔵国にある鉢形城の城主である北条氏邦から、北条氏直への服属を勧められる。
3月13日
信長、飯田で勝頼の首実検を行う
信長は飯田で勝頼の首実検を行いました。
3月15日
昌幸ら小県郡の諸将は織田氏の家臣になる
真田、矢沢、祢津、室賀の各氏など武田氏の家臣は織田信忠へ服従を申し入れる。
3月20日
信長、諏訪で徳川家康と領地の分配などを話し合う
信長は諏訪で家康らと会い、領地の配分などについて話し合いました。
信濃の多くの武将が信長の家臣になる
信濃の多くの武将が、鷲峰山法華寺についた信長と面会し、服従を申し入れる。
4月
昌幸、信長に馬を上納する
昌幸は織田信長の配下に入り、織田信長に馬を上納することで織田氏への服属を重ねて表した。
 
沼田城は滝川一益に明け渡す
武田氏滅亡後、沼田城は織田信長の重臣である滝川一益に明け渡していたが、本能寺の変直後に奪還している。
6月2日
「本能寺の変」
織田信長は本能寺にて明智光秀の謀反により自害。
(織田信長 享年49才)
信長の嫡子である信忠も二条城にて戦死。
6月6日
秀吉、光秀を討つために備中高松を出発。
信長の急逝を知った秀吉は、毛利方にばれない様に和睦に持ち込み、光秀を討つために畿内方面へ向かった。
6月13日
「山崎の戦い」
羽柴秀吉が山崎にて明智光秀を討伐。
 
「天正壬午の乱」
信長が本能寺で戦死したことを受けて、信濃はいわば「草刈り場」と化した北条・徳川・上杉という周辺諸強豪がこぞって信州へ侵入し、領土拡大に励んだ。
昌幸もこの動乱に巻き込まれ、生き残りに奔走する
7月
昌幸、北条氏の家臣になる
昌幸は北条氏の配下に入ること北条氏にを申し出る。
9月
昌幸、徳川氏の家臣になる
徳川方の先鋒として働いていた佐久の依田信蕃と昌幸の弟である加津野信昌(信尹)の説得により、昌幸は徳川氏の配下に入る。 このころから昌幸が上田地方の統一に着手し始める。
10月19日
真田昌幸が祢津城を攻めるが陥落せず
真田昌幸が北条方である祢津昌綱を攻めるが、祢津氏の本拠地である祢津城は陥落せず。
10月29日
徳川と北条が和睦する
和睦の条件は真田氏にとって受け入れがたいものだった。
1583
天正11
1月
昌幸、小県郡内の反徳川勢力を鎮圧
徳川方に背いた依田窪地方の諸侍を、徳川方の真田昌幸・真田信尹(加津野信昌)らの間で丸子にて鎮圧。
昌幸37才
信尹37才
信之18才
信繁17才
豊臣秀吉47才
北条氏政46才
徳川家康42才
北条氏直22才
2月22日
岩尾城で激戦
徳川方である依田信蕃は岩尾城を攻めるが、信蕃は弟である依田信幸とともに戦死。
この戦いに昌幸も参加していたと思われる。
2月23日
岩尾城が陥落
その後、徳川家康は信蕃の嫡子である康国に松平姓を与え、小諸城主に任命。
 
昌幸、虚空蔵山で上杉景勝の兵を破る
昌幸が信濃国埴科郡の虚空蔵山まで進軍してきた上杉景勝の兵を破る。
9月
祢津昌綱は再度、徳川氏の配下に入る
 
 
昌幸が上田城を築き始める
この年、丸子方面を平定。
1584
天正12
4月
「小牧・長久手の戦い」
徳川家康と羽柴秀吉が小牧・長久手のの付近で合戦を起こした。

昌幸38才
信尹38才
信之19才
信繁18才

豊臣秀吉48才
北条氏政47才
徳川家康43才
北条氏直23才
7月
室賀信俊を昌幸は上田城に招き寄せ謀殺
これにより、小県郡は真田氏により統一された。
 
昌幸、家康と断絶
徳川家康は北条氏と和を結ぶため、昌幸に沼田城を北条方へ明け渡すことを命じるが、昌幸はこれを拒絶し、真田氏は徳川氏と断絶した。
このころ、祢津昌綱は上杉氏の配下に入る。
1585
天正13
7月
昌幸、二男信繁(幸村)を人質として上杉氏に送る
昌幸は徳川氏と対決するにあたり、後ろ盾がひつようだった。
そこで、昌幸は羽柴氏と友好的である上杉景勝の家臣になった。
昌幸は、上杉氏のもとへ二男である信繁(幸村、17才)を人質として送った。
昌幸39才
信尹39才
信之20才
信繁19才
豊臣秀吉49才
北条氏政48才
徳川家康44才
北条氏直24才
7月26日
上杉氏、配下に真田氏を援護するよう命令を出す
上杉氏、海津城主である須田満親らに昌幸を支援する様に命じました。
8月2日
「第一次上田合戦」始まる
徳川家康は鳥居彦左衛門や大久保忠世らを上田に出兵させ、第一次上田合戦が始まる。
徳川軍8500人、真田軍1000人。
この戦いに昌幸の長男である信幸も参戦していた。
昌幸は徳川軍と戦をしている最中、羽柴秀吉に援助を仰ぐ書状を出した。
8月2日
真田方大勝利
第一次上田合戦の中で最も激戦であった神川付近での戦いで徳川軍は大勢の死傷者を出し、昌幸は大勝利をおさめる。
徳川方は丸子城も攻めるが陥落せず。
8月3日
徳川方、八重原から尾野山城・丸子城を攻めるも成果出ず
徳川方は八重原まで陣を後退させ、丸子城や尾野山城も攻めたが陥落せず。
8月20日
徳川方、信濃の諸将に出陣を命じる
徳川方は小笠原氏・下条氏・飯島氏・松岡氏といった信濃の家臣達に出陣を命令した。。
徳川方、再び丸子城を攻めるも陥落せず
丸子城付近の丸子河原で再び徳川方と真田方が衝突しましたが、丸子城は陥落せず、徳川方は撤退した。
9月
北条氏が沼田城を攻撃
真田氏が上田から援軍を送れないこの時を狙って、北条氏が沼田城を攻めるが、真田氏や矢沢氏へ上杉氏からの支援があり陥落せず。
9月下旬
徳川方、佐久・諏訪方面の安定を図る
真田氏を攻める徳川方に援軍が到着
小諸城に駐留していた徳川方に、援軍である井伊氏5000人の部隊が到着した。
9月29日
北条氏の沼田城を攻撃部隊が撤退
矢沢氏を中心とした真田氏が北条氏の攻撃から守りきった。
これには上杉氏からの支援が発揮された。
11月
徳川方の撤退により「第一次上田合戦」集結
徳川方の重臣である石川数正が徳川氏を裏切り秀吉方になり、徳川方の情報が秀吉方に筒抜けになる事態が発生。
これにより突然、徳川方は全軍を小県郡から遠江に撤退する。
秀吉は昌幸に家康を来春討つことを伝える。
11月17日
昌幸、徳川方撤退に困惑
徳川方が遠江に撤退した直後、昌幸には徳川方の撤兵理由が分からず、困惑している事を上杉氏に伝えている。
11月19日
秀吉、昌幸に石川数正が徳川方から寝返ってきた状況と、家康を来年正月15日に討つことを伝える。
 
昌幸、秀吉に家臣になることを誓う
昌幸は秀吉に対して臣従を誓う書を送った。
 
この年、上田城は一応完成する。
上田城の完成時期ははっきりしていませんが、およそこの頃ではないかと推定されています。
1586
天正14
5月
北条方が沼田城を攻撃
北条氏は再び大軍で沼田城を攻めるが、矢沢氏はこれも撃退する。

昌幸40才
信尹40才
信之21才
信繁20才

豊臣秀吉50才
北条氏政49才
徳川家康45才
北条氏直25才
 
昌幸が願行寺の後任住職について指示を出す
昌幸の上田城下町整備に関わる最古の確実な文書(願行寺文書)
 
昌幸、佐久郡へ侵攻
この頃、昌幸は徳川軍がいなくなった佐久郡に攻め入る。
 
昌幸、二男信繁(幸村)を秀吉へ差し出す
この頃、上杉氏のもとへ人質として出されていた昌幸の次男である信繁は、このころ大谷吉隆を介して秀吉の家臣となった。
7月17日
家康、再び真田討伐に乗り出し挙兵
家康は昌幸を討つために出兵し、駿河まで兵を進めた。
8月7日
家康、真田討伐を延期
家康は秀吉からの説得で昌幸討伐を延期した。
8月3日
秀吉、真田への態度を一変
秀吉は家康の家臣である水野惣兵衛に「家康自身が動いて真田氏討伐をするよう」働きかけた。
ついで、秀吉は上杉景勝に「真田は裏表のある卑怯者なので成敗しなければならない。おまえは真田への支援をしないように。」と指示する。
9月25日
秀吉、真田討伐を中止
秀吉は「真田は裏表のある者だが、成敗は一応やめる」と上杉景勝に伝える。
10月27日
家康、秀吉の配下になる
家康は大坂城に登城し、秀吉の家臣となった。
11月初旬
秀吉、信濃の諸大名を徳川支配下とすることを決定
秀吉は地理的条件やこれまでの経緯を鑑みて、信濃大名を徳川氏の配下にすることを決めた。
11月4日
秀吉は上杉氏に対し、家康に家臣を移す様に命令

秀吉は上杉氏に信濃の真田・小笠原・木曽などの所領を家康に渡すよう命じる。
秀吉は上杉氏を通じて真田氏を説得
秀吉は上杉氏に「その方の執り成しで真田征伐をやめるのだから、そのことを真田によく言い聞かせて徳川氏に領地を召し出しださせるように。」と念を押している。
12月19日
秀吉、「豊臣秀吉」となる
羽柴秀吉は太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉を名乗る。

1587
天正15

1月4日
秀吉、昌幸に上洛を命じる
秀吉は上杉景勝に真田氏を上洛させるように命じる。
昌幸41才
信尹41才
信之22才
信繁21才
豊臣秀吉51才
北条氏政50才
徳川家康46才
北条氏直26才
3月18日
昌幸、家康に謁見し、徳川氏の家臣になる
昌幸は秀吉の命により、小笠原貞慶とともに駿府の家康のもとへ挨拶に行き、昌幸は家康の配下に入る。
1588
天正16
 
北条氏政、秀吉からの上洛命令を断る
秀吉は北条氏政に上洛するよう促すが、北条はこれに従わず、北条はその事を家康に相談する。
北条はこの時、沼田を上洛の引き替え条件にして手に入れようとした。

昌幸42才
信尹42才
信之23才
信繁2才

豊臣秀吉52才
北条氏政51才
徳川家康47才
北条氏直27才
1589
天正17
2月13日
信幸は家康に謁見するため駿府へ行く
信幸は徳川家にの配下に入る。
この頃、昌幸は信幸を大名として一本立ちさせたようで、沼田・吾妻郡の統治を信幸が担当するようになった。
昌幸43才
信尹43才
信之24才
信繁23才
豊臣秀吉53才
北条氏政52才
徳川家康48才
北条氏直28才
7月10日
秀吉が沼田領土問題を裁決
秀吉は北条氏との懸案であった沼田領土問題を決着させるため、沼田城とその周辺の領土を北条方に明け渡すことを昌幸に命令。
昌幸はこれに従い、昌幸の所領である沼田城を含む上野の3分の2を北条に明け渡す。
その代替地として家康は真田に伊那郡箕輪の地を与える。
沼田城からほど近い場所にある名胡桃城を含む上野の3分の1と吾妻郡はそのまま真田氏の領地となった。
11月3日
北条方が名胡桃城を占拠、協定違反
北条方の兵が、真田氏の名胡桃城を攻略。
これにより名胡桃城の城主である鈴木主水は責任を感じて切腹。
昌幸、これを秀吉に訴え、これに対し秀吉は真田氏に支援する意志を伝える。
これが秀吉による小田原攻めの発端となる。
11月24日
秀吉、北条氏を討伐することを決定する
その後、すぐ真田氏にも、その旨が伝えられる。
1590
天正18
2月
秀吉は小田原征伐に出発する
この戦いに真田昌幸と信幸は、前田利家と上杉景勝の先鋒として参戦。
信繁は秀吉とともに小田原へ随行。
昌幸44才
信尹44才
信之25才
信繁24才
豊臣秀吉54才
北条氏政53才没
徳川家康49才
北条氏直29才
3月18日
真田・前田・上杉連合軍は北条方の大道寺政繁を破る
真田は碓氷峠にて北条方の大道寺政繁を破る。
4月上旬
西牧城と厩橋(前橋)城を陥落
着々と上野国の北条氏拠点の攻略を進める
4月20日
真田・前田・上杉連合軍は北条政繁を破る
真田・前田・上杉連合軍は北条政繁の松井田城(上野国)を攻略する。
4月24日
真田・前田・上杉連合軍は着々と北条方を攻略
真田・前田・上杉連合軍は箕輪城(上野国)を攻略する。次いで忍城も攻略。
7月5日
小田原の北条氏が降伏
秀吉方の圧倒的な兵力につる包囲網により、北条氏は降伏し、小田原城は陥落した。
北条氏政が切腹し、北条氏は滅亡。これにより秀吉による天下統一が成就。
7月11日
北条氏政が切腹
北条氏政が切腹。(北条氏政 享年53才)
北条氏は滅亡。
これにより秀吉による天下統一が成就。
7月16日
北条方の忍城が攻略。
北北条氏勢力で、最後まで抵抗していた忍城が攻略された。
7月29日
秀吉、昌幸に沼田領を与える
真田氏は以前の働きにより秀吉の直臣と判断され、小県郡(上田領)と吾妻郡はそのまま真田氏の所領。それを家康も了承。
 
北条氏滅亡後、徳川氏による武将の領地の配置転換が行われる
北条氏滅亡後、信濃の諸将は徳川家康に従い、関東各地に移される。
それにより、松本へ石川氏、諏訪へ日野根氏、小諸へ仙石氏など、秀吉配下の諸大名が配置される。
 
この頃から信濃諸大名による大規模な築城・改造が行われる
北条氏滅亡後のこの頃、信濃諸大名による大規模な築城・改造が行われた。
慶長初年頃までに松本城などの信濃の代表的諸城郭の完成を見る。
(昌幸もこれら周囲の動きに刺激されて上田城の大規模な整備事業を進めたものとみられる。)
 
信幸、家康養女である小松姫と結婚
信幸は本多忠勝の娘で家康の養女である小松姫と結婚。
1591
天正19
 
秀吉による朝鮮出兵の計画が動き出す
秀吉は肥前名護屋城を築城。
全国の大名が動員されたものと思われ、真田氏も何らかの負担を課されたと考えられる。

昌幸45才
信尹45才
信之26才
信繁25才

豊臣秀吉55才
徳川家康50才
北条氏直30才没
11月4日
北条氏直 病死
北条氏直 病死(北条氏直 享年30才)
1592
文禄元
1月
「文禄の役」開戦
秀吉の命令により、大名諸公が朝鮮に出兵した。
信幸は上州吾妻郡の田村雅楽助に朝鮮出兵を命じた。
700人。
この時の真田氏の動きは定かではなく、朝鮮半島に上陸したのかどうか定かではないが、肥前名護屋城に信幸の陣跡もあることから、名護屋にて秀吉の命を受けた活動をしていた可能性もある。
昌幸46才
信尹46才
信之27才
信繁26才
豊臣秀吉56才
徳川家康51才
1593
文禄2
 
朝鮮出兵は休止し、「文禄の役」終結
日本側と明側の双方の担当者が和平交渉を成立させるため、双方の幹部に相手が降伏したという偽りの報告をしたため、時間が経過する内に双方の幹部の言い分のぶつかり合いになり、休戦状況は崩壊した。
昌幸48才
信尹48才
信之29才
信繁28才
豊臣秀吉58才
徳川家康53才
1594
文禄3
 
信繁が大谷吉継の娘である利世と結婚
これにより、昌幸の長男と二男は徳川方と豊臣方それぞれの幹部の娘と結婚したことになった。
 
秀吉の伏見城普請に真田氏も動員される。
真田氏は人足役1680人分を請け負った。
4月
昌幸に諸大夫の官職が授けられる
豊臣秀次により、昌幸に諸大夫の官職が授けられる。
 
信幸に従五位下 伊豆守の官職が授けられる
官職を授かることは豊臣家への忠誠度を表すものでもあった。
信繁(幸村)に従五位下 左衛門佐の官職が授けられる
官職を授かることは豊臣家への忠誠度を表すものでもあった。
1595
文禄4
1月
この年の豊臣秀吉朱印状に「上田 さな田安房守居城」の記述
これが「上田」という名称が城郭名および町名として確実な史料に残る最古のもの。
昌幸49才
信尹49才
信之30才
信繁29才
豊臣秀吉59才
徳川家康54才
 
この年の豊臣秀吉朱印状に「上田 さな田安房守居城」の記述
これが「上田」という名称が城郭名および町名として確実な史料に残る最古のもの。
1596
文禄5
9月
秀吉、来朝した明使節と会見
明側使節との会見の結果、明側に降伏した認識が無く、逆に秀吉を日本国王として認めてやると言う、明側が上であると言う立場を主張してきたため、秀吉は激怒し、再び朝鮮半島にに出兵することを決めた。
昌幸50才
信尹50才
信之31才
信繁30才
豊臣秀吉60才
徳川家康55才
1597
慶長2
2月
「慶長の役」開戦
秀吉の命令により、大名諸公が朝鮮に出兵した。
信幸は上州吾妻郡の田村雅楽助に朝鮮出兵を命じた。
700人。
この時の真田氏の動きは定かではなく、朝鮮半島に上陸したのかどうか定かではないが、肥前名護屋城に信幸の陣跡もあることから、名護屋にて秀吉の命を受けた活動をしていた可能性もある。
昌幸51才
信尹51才
信之32才
信繁31才
豊臣秀吉61才
徳川家康56才
 
信之の長男、真田信吉 誕生
後の沼田藩主
 
信之の次男、真田信政 誕生
後の沼田藩主、松代藩主
1598
慶長3
4月
前田利家は草津で湯治を行う
草津は真田領土内にあるので、前田氏の湯治に関与していると思われる。
昌幸52才
信尹52才
信之33才
信繁33才
豊臣秀吉62才没
徳川家康57才
8月18日
秀吉、伏見城で病死
秀吉が伏見城で病死した。
(豊臣秀吉 享年62才)
このとき信幸は伏見城にいた。
11月
「慶長の役」終結
秀吉の死去を受け、撤退を行っていた日本軍は、この頃ようやく撤退を完了する。
事実上の日本軍の敗北。
1599
慶長4
 
秀頼が大坂城に入城
秀頼を前田利家と石田三成が補佐。

昌幸53才
昌幸53才
信之34才
信繁33才

徳川家康58才
3月
利家、逝去
前田利家が逝去。(前田利家 享年63才)
利家の嫡子である利長は家康に従う意向を示したため、豊臣方の力が弱まり、家康に主導権が移り始めた。
1600
慶長5
3月
家康が伏見城から大坂城西の丸に移った
それに伴い真田氏も伏見から大阪に移る
昌幸54才
信尹54才
信之35才
信繁34才
徳川家康59才

 

家康と他の大老の対立が深まる
家康の影響力が強くなり、これまでの合議制による豊臣政治が崩壊。
家康以外の大老は各所領に帰国し、徳川氏との対立を鮮明にした。
6月16日
家康、上杉討伐に向かう
家康は上洛の命令に従わない会津の上杉景勝を討伐するとして、大坂から関東へ約6万人の大軍を率いて向かう。
昌幸、信幸、信繁は家康に従い出陣。
家康は自分が大坂から遠ざかると、石田三成が挙兵し、豊臣対徳川の軍事的衝突が始まることを予見していたと言われている。
7月初め
三成、徳川討伐に向けて出陣
石田三成は佐和山から大坂へ移り、増田長盛・長束正家・前田玄以らかつての五奉行衆と秀頼を擁立して兵をあげる。
7月19日
「伏見城攻撃」
石田三成ら西軍は、家康の留守居役である鳥居彦左衛門が守る伏見城を攻撃。
7月20日
昌幸・信繁の真田隊、下野の犬伏宿に着陣
秀忠隊、宇都宮に着陣
7月21日
昌幸のもとへ三成から密書が届く
下野の犬伏にて陣していた昌幸へ、豊臣五奉行衆から7月17日付の密書が届く。
真田父子による密議の結果、昌幸と信繁は豊臣方へ、信幸は徳川方へ分離することなる。
信幸は嫡子である信政を人質として江戸へ送る。
家康、秀忠隊と合流するため、江戸を出発
7月23日
昌幸と信繁(幸村)、西軍に加わることを決め、移動を開始
昌幸、信繁は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発。
 
昌幸と信繁(幸村)、上田への岐路の途中、沼田に寄る
昌幸と信繁が犬伏から上田へ帰る途中、沼田城に立ち寄ろうとしたが、信幸の妻である小松姫に入城を拒否される。事前に使者などにより信之から指示があった可能性あり。
7月25日
「小山評定」が開かれる
この会議に参加した者は徳川方、つまり東軍として石田三成率いる西軍と対峙するため、西へ進軍することになった。
これに信幸も参加。
8月10日
秀忠隊、真田征伐を行うため西へ出発
秀忠は真田征伐のため、宇都宮を出て小諸に向かう。
8月21日
信幸、沼田を警護するため、沼田へ出発
信之は会津と上田の中間に位置する沼田で国境(会津口・信濃口)の警備を指揮するために、沼田に向け出発。尾瀬は当時、信濃と会津を結ぶ重要な土地で、上田の真田氏と会津の上杉氏の情報の分断を図る必要があった。
8月28日
秀忠は松井田宿に到達
8月23日
徳川方、岐阜城を陥落させる
豊臣恩顧の大名で構成された徳川方の先発隊は岐阜城を陥落させる。
さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも徳川軍は勝利する。
8月24日
秀忠、信之に昌幸・信繁(幸村)討伐への参加を命令
秀忠は沼田で警備していた信之に対し上田城攻めを行うので参陣せよと命令した。
8月28日
秀忠、松井田に着陣
東軍先発隊は、合渡川の戦いで勝利
東軍先発隊は、犬山の戦いで勝利
9月1日
家康、西へ向かう
家康が約3万人の兵を率いて江戸城を出て、東海道を西へ進み始める。
秀忠、軽井沢宿に着陣
9月2日
秀忠、小諸城に着陣
小諸城が秀忠隊の本拠地となった。
9月3日
昌幸、秀忠に降伏の意志示す
昌幸は信幸を介して、秀忠に降参の意志を示した。
9月4日
「第二次上田合戦」始まる
昌幸の降参は嘘であることが判明。
秀忠は森忠政に上田で籠城する真田氏への攻撃を命じる。
秀忠隊(徳川方)3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だった。
9月5日
兄弟対決を嫌った信繁(幸村)が砥石城から撤退
兄弟対決を嫌った信繁(幸村)が砥石城から撤退したため、徳川方は戸石城を攻略、信幸が在城。
秀忠は砥石城を背にする染屋に着陣する。
9月6日
秀忠、稲の刈り取り作業を命令し、真田方を挑発
秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発した。
上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきた。
真田方、徳川方を翻弄する
徳川軍は上田城を攻めるが、真田の策略に陥って敗退。
砥石城までも真田軍に奪還される。
9月7日
秀忠は一時的に小諸に退却
秀忠が上田攻撃を中止し、小諸に退却。
9月11日
「第二次上田合戦」秀忠が西へ向かい始め、終結

秀忠は西方での決戦に間に合わなくなることを危惧し、上田城攻略をあきらめ、小諸城を出て大門峠を越えて、諏訪経由で木曽へ向かう。
信幸と森忠政は上田城への押さえとして小諸城に残る。
第二次上田合戦は真田氏の勝利に終わる。

9月13日
秀忠、諏訪に到着
9月15日
「関ヶ原合戦」
この1日で大勢は決し、裏切りが続出した石田三成が率いる西軍は、徳川家康が率いる東軍に敗れる。
信繁(幸村)の正室利世の父である大谷吉継は関ヶ原にて戦死。
9月16日
秀忠、関ヶ原合戦に間に合わず
秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着。
結局、秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
9月17日
佐和山城が陥落
佐和山城が陥落し、裏切りが続出した三成が率いる西軍は、家康が率いる東軍に敗れた。
五女の夫である宇田頼次は父頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦したが、戦死した。
9月19日
秀忠、美濃国赤坂宿に到着
秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着。
9月20日
秀忠、大津城にいる家康隊に合流
秀忠は何日か家康に面会してもらえなかったと伝えられています。
12月
西軍の昌幸と信繁(幸村)、九度山に幽閉されることになる
家康は西軍として上田城に籠城し、将軍秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた昌幸・信繁(幸村)に切腹を言い渡した。これに対し、信之は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をした。
家康は昌幸と信繁に対して死罪を免除、高野山での幽閉を命じる。
12月13日
昌幸と信繁(幸村)、九度山に向かう
昌幸、信繁は上田を出発して、家来16人を連れて幽閉先の高野山へ向かう。高野山で滞在場所を数カ所転々と移動し九度山に落ち着く。上田城は廃城。
昌幸の正室である山之手殿は、上田に残り出家して寒松院を名乗り、大輪寺での生活を始める。
 
昌幸と信繁(幸村)、高野山付近での住居を転々とする
高野山付近で滞在場所を数カ所転々と移動し、九度山に落ち着く。
 
信幸、上田領を昌幸から受け継ぐことを幕府から許される
上田領(65000石)は徳川方についた信之(昌幸の長男)に与えられる。(沼田領、さらに加増分の30000石を合わせ95000石)
信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前から幸の字を消して、信幸を「信之」に改めた。
12月下旬
上田城は破壊される
徳川方により上田城の中心部は破却されたため、藩主は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあることになった。
これ陣屋支配体制という。
上田藩主館は幕末まで藩主の公私における居場所となった。
関ヶ原合戦直後から、信幸が沼田から移ってくるまでは、諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが上田城の城番を幕府から任された。
1601
慶長6
1月
信幸は三の丸に建てられた館に入る
上田城は破壊されて、使い物にならないため、三の丸に作られた上田藩主館に入る。
昌幸55才
信尹55才
信之36才
信繁35才
徳川家康60才
 
信繁(幸村)の長男、真田大助(幸昌)誕生
この頃、信繁の嫡子である大助(幸昌 ゆきまさ)が生まれる。
8月
信幸、寺社に安堵・寄進を集中的に行う
信之は領内の諸士や寺社へ土地の宛行い・安堵・寄進を行った。
11月
昌幸、嫁である小松から好物を送ってもらう
嫁である小松殿から昌幸の好物である鮭の子が九度山に届き、昌幸は小松殿に礼状を送った。
   

1603
慶長8

 
家康、朝廷より征夷大将軍の地位を賜り、江戸幕府が開かれる
徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。
昌幸57才
信尹57才
信之38才
信繁37才
徳川家康62才
1404
慶長9
7月17日
徳川家光が誕生
徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生。
昌幸58才
信尹58才
信之39才
信繁38才
徳川家康63才
1605
慶長10
4月16日
徳川氏は将軍を世襲で維持することを世間に知らしめる
家康は将軍をやめ、秀忠が将軍になる。
将軍職を徳川氏の世襲で受け継いでいくことを世に知らしめた。
昌幸59才
信尹59才
信之40才
信繁39才
徳川家康64才
 
上田の城下町が整備され始める。
北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理が信之によって始められる。
1606
慶長11
 
上田城下町の区画整理を完了
現在に続く原町・海野町の町並みが確定する。
昌幸60才
信尹60才
信之41才
信繁40才
徳川家康65才
1607
慶長12
 
信之、沼田城に5層の天守を建造。
沼田城の天守は、関東で数少ない天守の1つで、関東では5層の天守は江戸城の天守と沼田城にしかなかった。
昌幸61才
信尹61才
信之42才
信繁41才
徳川家康66才
1609
慶長14
1月
方広寺が起工される
豊臣秀頼は秀吉の権威を継承する象徴として方広寺を起工する。
   
1611
慶長16
6月4日
昌幸、病気の悪化で逝去
真田昌幸が九度山にて亡くなる。
(真田昌幸 享年65才)
長男 信之は昌幸を弔おうことを大規模な葬儀を計画するが、徳川氏重臣である本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得され断念する。
昌幸65才没
信尹65才
信之46才
信繁45才
徳川家康70才
1612
慶長17
 
昌幸家臣、一周忌を済ませ上田へ帰国
昌幸の家臣は一周忌をすませ、九度山から上田へ帰る。信繁のもとに残った家臣は少数。
信尹66才
信之47才
信繁46才
徳川家康71才
 
片倉守信(真田大八)が誕生。
信繁の次男である大八(のちの片倉守信)が生まれる。
 
信繁(幸村)は出家して「好白」を名乗り始めま
1613
慶長18
 
昌幸の正室である寒松院(山手)が逝去
昌幸の夫人である寒松院(信之と信繁の生母)が逝去。大輪寺に葬られる。
信尹67才
信之48才
信繁47才
徳川家康72才
8月
和歌山藩である浅野幸長が38才で病死
浅野幸長 享年38才
真田氏の理解者だった幸長に変わって、その弟の長晟が家康の特命により和歌山藩主になり、これ以後は真田氏に対する監視は厳しくなったと思われる。
1614
慶長19
初夏
方広寺がほぼ完成にする
方広寺には当時最大の大仏が安置された。
信尹68才
信之49才
信繁48才
徳川家康73才
7月21日
鐘銘事件
京都東山に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の開眼供養のための鐘銘(釣鐘の銘文)に家康がクレームをつける。
8月3日には落慶供養(大仏開眼供養)を執り行う予定だったが延期。
後に幕府はこれを豊臣攻めの名目とする。
7月26日
家康が落慶供養(大仏開眼供養)の延期を秀頼に申し入れる
8月3日に方広寺の落慶供養(大仏開眼供養)を執り行う予定だったが延期。
7月29日

淀殿直属の使者として大野治長の母である大蔵卿局と正栄尼が駿府城に着き、家康と面会。

9月20日
徳川方との交渉窓口だった片桐且元の追放を決定
豊臣方は徳川方との交渉を担当していた片桐且元を追放し、徳川幕府との戦が回避できない状態となった。
10月1日
且元、大坂城方脱出
自らの身に危険が迫っていることを察知した且元は、大坂城から300人の軍勢に守られながら退去し、居城である茨木城に入る。
10月2日
豊臣方、戦力集めを開始
豊臣方は、秀吉から信頼されていた大名や牢人に味方をするよう呼びかけ、戦に向けた戦力集めを本格的に始めた。
 
徳川方も豊臣方との戦に備え、諸大名に出陣を命じる
幕府は信濃・甲斐・関東などの諸大名に大阪出陣の準備し、江戸に参陣するよう命じる。
これに対し、信幸は病気で参陣できないことを幕府に伝える
10月4日
幕府は真田氏にも出陣命令
幕府は信之に嫡子である信吉を参陣させるよう命じ、信吉は信政らと幕府方として参陣する。
10月9日
信繁(幸村)と大助、大坂城へ向かう
信繁とその嫡子である大助は、九度山を出発し大阪に向かう。
10月11日
家康が大坂に向け出陣
家康が駿府城を出発し、大坂へ向かう。
真田信尹が家康に従軍。
10月13日
信繁と大助が大阪城に入る
 
信繁(幸村)は真田丸を建造
大阪城に入った信繁は、豊臣幹部から許可をもらい、大坂城で一番弱い部分に真田丸を築く。
10月23日
秀忠が大坂に向け出陣
秀忠は大阪へ向かうため、江戸を出発。
信幸の長男信吉と次男信政が秀忠隊に随行。
信之は戦争未経験の息子達に、矢沢・木村・黒田・大熊ら戦争経験者を補佐役として付けた。
11月上旬
大坂城に集まった牢人は10万人を超えた
11月12日
豊臣方の槙島重利が堺を襲撃
豊臣方の槙島重利が堺を襲撃し、鉄砲や弾薬を奪った。この時、豊臣方から追放され徳川方になった片桐且元は忠誠を表すため、これを撃退する救援隊を送りましたが、槙島隊に破れた。
11月15日頃
徳川軍が大坂城を囲むように大きな群れとなって現れ始めた
11月17日
秀忠が大坂に到着
秀忠は大阪天王寺に到着。徳川軍の陣列が定まり、信吉と信政は酒井家次の指揮下で、青屋口住吉において布陣する。
11月中旬
「大坂冬の陣」開戦
この頃、大阪冬の陣が始まる。
11月18日
家康と秀忠は茶臼山に設けられた家康の本陣で、会議を開いた
この会議で天王寺・今宮・穢多ヶ島(えたがしま)・伝法・岡山・今福・守口など13カ所に前線基地になる城を築いて、時間を掛けてしっかりした包囲網を作りながら攻めていくことを決められた。
11月18日
豊臣方の穢多ヶ島砦が陥落
明石全登と大野治房が守る豊臣方の穢多ヶ島砦に、徳川方の蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の各隊が攻め入った。この時、明石全登が大坂城に出向いていて留守だった為、穢多ヶ島砦は比較的簡単に徳川方によって陥落しました。
11月26日
今福での戦い
徳川方は今福に前線基地の城を作るため、佐竹義宣隊が今福に、上杉隊が鴨野に進撃。
今福に進軍した佐竹隊は木村重成と後藤基次など豊臣方からの反撃に遭い、先鋒である渋江政光が討ち死にした。
一方、鴨野を攻めた上杉隊は、豊臣親衛隊七隊長の一人である渡辺糺からの反撃に遭ったが、これを撃退し、今福で苦戦していた佐竹隊の支援も行った。
豊臣方は大阪城内へ一時退却。
11月29日
豊臣方の博労淵砦・野田砦・福島砦が陥落
蜂須賀至鎮・池田忠雄・石川忠総の徳川方の各隊が、豊臣方である薄田兼相が守る博労淵砦を攻撃。兼相は前夜から砦を留守にしていたので砦内の統率がとれず、徳川方は比較的簡単に博労淵砦は陥落した。
つづいて、大野治胤が守る野田砦と福島砦も徳川方によって陥落した。
11月30日
豊臣方、大坂城総構え内にほぼ全軍を入れる。
豊臣方は船場と天満に火を放って、総構えの外にいた兵を全て大坂城内へ入れた。
大坂城の総構えの外にに設営されていた豊臣方による砦は、徳川方により全て撤去された。 これにより、真田丸だけが総構えより外に出ている唯一の豊臣方の軍事施設になった。
12月2日
徳川方、砲撃を行うため前身
大坂城を包囲している徳川方は大砲の射程距離を有効に生かす為に、城に向かって前進し始めた。この時、家康は「急進してはならぬ。直接攻撃に備えて堀を作り、土塁を築いた上で大砲で攻撃せよ。」 と命令し、真田丸正面まで前進した前田隊も砲撃用の簡易砦を築き始めた。
これに真田隊が挑発。
12月4日
「真田丸攻防戦」
真田丸を攻めた徳川方は多数の死傷者を出して退却。
徳川方の損失は、前田隊約300騎、越前隊約480騎が討ち死にし、一般兵の戦死者数は1万人とも1万5000人とも言われる程、甚大なものになった。
12月5日
大坂城内で織田頼長の家臣が喧嘩騒ぎを起こす
大坂城内で織田頼長の家臣が喧嘩騒ぎを起こした。徳川方の藤堂隊が、この騒ぎに便乗して防護柵を破って城内に進入したが、長宗我部隊によって撃退され、徳川方による進入は成功せず。
12月11日
徳川方、信繁(幸村)を勧誘
真田丸に籠もる信繁(幸村)に対し、徳川方の使者である信尹は信繁に10万石の領地を与えることを持ちかけたが、信繁(幸村)はこれを断る。
12月13日
家康が茶臼山に着陣
徳川方は真田丸を攻撃するが、信繁はこれを撃退
12月14日
徳川方が信繁(幸村)に降伏を勧める
本多正純が信繁に降伏を勧めるが、信繁はこれに応じず。
12月16日
徳川方による砲撃、大坂城の天守と千畳敷御殿に玉が命中
淀殿ら豊臣方幹部が徳川氏との和睦の検討を始める。
12月19日
徳川方と豊臣方は和議を結ぶ
徳川方と豊臣方は和議を結ぶ。徳川方は撤兵
12月20日
家康、埋め立て奉行を任命
家康は松平忠昭、本多忠政、本多康紀を大坂城の堀の埋め立て奉行に任命した。
12月21日
和議が正式に成立
豊臣方と徳川方は誓約書を交換して和議が正式に成立した。
12月22日
家康は茶臼山を出発し、夕方には京都の二条城に入る
信繁はこの時に家康を討つ絶好のチャンスだと秀頼に進言したが、淀殿の反対により実行されず。
12月24日
和議の条件だった堀の埋め立てが開始
和議での合意として、徳川方は大阪城の三の丸の堀を埋め立てるが、徳川方の策略で続けて二の丸の堀まで徳川方の手で埋められていった。
1615
慶長20
1月3日
家康、駿府へ向かう
大坂城の堀の埋め立て作業が進む中、家康は京都の二条城を出発し駿河の駿府城に向かった。
信尹69才
信之50才
信繁49才没
徳川家康74才
1月24日
大阪城の堀の埋め立て作業が完了
大坂城の堀は本丸の周囲のみとなる、
1月24日
信繁(幸村)、姉へ手紙を送る
信繁は大阪城内より、上田にいる姉の村松へ書状を送る。
2月10日
信繁(幸村)、婿に手紙を送る
信繁は大阪城内より、娘すえの夫である石合十蔵に書状を送り、決死の覚悟を伝える。
3月15日
豊臣方と徳川方の交渉が決裂
秀頼の使者である青木一重と淀殿の使者である常高院・二位の局・大蔵卿・正栄尼が家康に会う為に駿府城に着いた。
常高院ら豊臣方の使者は家康に、秀頼に対する移封の免除を申し入れたが、この申し出自体が徳川方に豊臣方が従う姿勢が見られない行為だとして、徳川方は再び大坂城を攻めることになった。
4月4日
秀頼、決意表明を行う
秀頼は会議を開き、豊臣方に集まった者を前にして「家康が来たら潔く決戦を交え、力尽きれば諸君と共に戦死するのみ。」と決意を述べました。
この会議で織田信長の甥である織田頼長が、豊臣方の軍隊の統率役に名乗り出たが、出席者の反対に遭い激怒した頼長は父である有楽と共に豊臣方から脱退し、大坂城を出て京都へ去った。
4月5日
秀頼、大坂城外を巡視
秀頼が大坂城から出て、大坂城南方の阿倍野や天王寺などを巡視した。前衛に後藤・木村隊、秀頼の麾下として長宗我部・真田隊、後衛は大野治房隊だった。これが最初で最後の豊臣秀頼による大坂の陣での城外活動である。
4月6日
家康、再び大坂攻めを決意
家康は大坂に再び攻め入ることを命令。信吉と信政もこれに従い、出陣する。
4月18日
家康、京の二条城に入城
4月21日
秀忠、伏見城に入城
4月22日
4月22日、家康と秀忠は二条城で本多正信・本多正純・土井利勝・藤堂高虎らと戦略を練りました。
4月26日
徳川方の先発隊が大坂に向けて出発
豊臣方が大和郡山周辺で牽制
大野治房隊約2000人が暗峠(くらがりとうげ)を越えて大和郡山の城下に進入して火を放ったり、27日には大和郡山周辺の村を焼き払うなどした。
4月28日
樫井の戦い
豊臣方と浅野長晟の軍事衝突がおこる。豊臣方が敗北。
4月30日
道明寺での戦いの作戦会議が行われる
5月1日
豊臣方の平野と天王寺へ進軍
5月5日
家康と秀忠が着陣
5月6日
「大坂夏の陣」開戦、道明寺の戦い
豊臣方は大坂城付近より出撃し、徳川方を迎え撃とうとするが、打ち負かされ撤退。この時、信繁は道明寺付近で伊達政宗隊と交戦し、退却している。後藤基次が戦死。
5月7日
信繁(幸村)、徳川の本陣を追い回す
信繁は嫡子である大助を大坂城へ戻らせる。
信繁は家康の本陣を追い回し、家康の首を狙いましたが、徳川方に援軍が到着し、形勢が逆転。信繁(幸村)が撤退しました。
信繁(幸村)、戦死
信繁が安居神社で休んでいたところ、本多忠直の家臣である西尾久作に討たれ戦死。(真田信繁(真田幸村)享年49才)
5月8日
大坂城が落城
豊臣秀頼、淀殿らが自害。
信繁の嫡子である大助は秀頼の後を追って自害。
大阪夏の陣は徳川軍の勝利。
この戦いで信吉は27の大坂方の首を取る。
5月28日
片桐且元が急死
片桐且元は大坂城落城の20日後である5月28日に急死
1615
元和元
 
幕府は一国一城令を出す
 
幕府は武家諸法度を施行する
城郭の築城は厳禁とし、修築に関しても厳重な許可制になる。
1616
元和2
4月17日
家康が駿府城で逝去
徳川家康 享年75才
信之にとって家康は義父にあたる。(家康は正室小松の養父)
信尹70才
信之51才
徳川家康75才没
7月
秀忠が家康六男である松平忠輝を改易。
幕府が高田城主である松平忠輝を改易する。
幕府は信之などに高田城を番するように命令する。

1617
元和3

3月9日
家康、東照大権現となる
南光坊天海により、家康に東照大権現の神号と神階正一位が贈られた。
信尹71才
信之52才
 
3月
信之、居城を沼田から上田に移す
沼田城は信之の嫡子である信吉が城主となる。
1620
元和6
2月24日
信之の正室である小松が逝去
小松 享年46才
小松は常福寺(現在の芳泉寺)に葬られる。
小松は死後、大蓮院と称された。
信尹74才
信之55才
 
1622
元和8
2月
信之、大英寺を建立
信之は大蓮院3回忌にあたり、上田に大英寺を建立。(のちに松代へ移す。)
信尹76才
信之57才
 
10月
幕府、真田氏に上田から松代(松城)への移封を命じる
幕府により、信之は松代に移封される。(松代10万石、沼田3万石で計13万石となる。)信之58才。
小諸から仙石氏が上田へ移封される。これにより小県郡(上田地方)の兵農分離が完了する。
1626
寛永3
8月
将軍家光が京都へ上洛
将軍家光が京都へ上洛。
信之らが守護として随行。
信尹80才
信之61才
 
9月6日
御水尾天皇の二条城へ行幸
1632
寛永9
5月4日
真田幸隆の四男である真田信尹が逝去
真田信尹 享年86才
信尹86才没
信之67才
 
1634
寛永11
6月
将軍家光が京都へ上洛。
信之の次男である信政が名代として従う。
信之69才  
10月28日
信之の嫡子で沼田城主の信吉が逝去
真田信吉 享年38才
1635
寛永12
  
信吉の嫡子である熊之助が沼田城主になる
信之70才  
1638
寛永15
 
信吉の嫡子で沼田城主である熊之助が逝去
真田熊之助 享年7才
信之73才  

1639
寛永16

7月
信吉の弟である信政が沼田城主になる
信之74才  

1647
正保4

2月
信之の三男である信重は松代にて逝去
信之74才  
1657
明暦3

2月22日

真田幸道が誕生(真田信政六男)

信政の六男である真田幸道(さなだ ゆきみち)が生まれる。

信之92才  
7月23日
信幸、隠居
信之が隠居し、一当斎を名乗り、松代城北部にある柴村に住み始める。
松代(10万石)は信政が継ぐ。
沼田(3万石)は信吉の子である信利が継ぐ。
1658
明暦4
2月5日2月5日
松代城主で二代藩主でもある信政が逝去
真田信政 享年63才
信政の子である幸道と信利の間で家督相続が起こる。
信之93才没  
信政の子である幸道と信利の間で家督相続争いが起こる
1658
万治元
6月14日
幸道と信利の間で家督相続争いが起こる
幸道と信利の間で起こった家督相続争いは、幸道が真田家を継ぐことで決着が付く。
10月17日
真田昌幸長男である真田信之が逝去
真田信幸 享年93才
長国寺に信之の霊屋が建てられる。
1663
寛文3
 
真田信繁(真田幸村)次男である片倉守信(真田大八)が逝去
片倉守信 享年59才
   
1670
寛文10
 
真田信弘が誕生
真田勘解由信就の七男として真田信弘が生まれる。
   
1681
天和元
 
沼田城主の真田信利が幕府から改易される
沼田領内での悪政と両国橋建造の遅延の責任を、幕府から問われ改易。
   
1711
正徳元
 
松城を松代に名称を改める。
   
1714
正徳4
 
真田信安が生まれる。
   
1727
享保12
 
真田幸道が逝去。
   
1736
元文元
 
真田信弘が逝去。
   
1740
元文5
 
真田幸弘が生まれる。
   
1742
寛保2
 
大型台風による大洪水が起きる。それは「戌の満水」と呼ばれ、千曲川とその支流が流れる各地に甚大な被害が出て多数の死傷者を出した。
   
1752
宝暦2
 
真田信安が逝去。
   
1770
明和7
 
真田幸専が生まれる。
   
1791
寛政3
 
真田幸貫が生まれる。
   
1815
文化12
 
真田幸弘が逝去。
   
1828
文政11
 
真田幸専が逝去。
   
1835
天保6
 
真田幸教が生まれる。
   
1847
弘化4
5月8日
善光寺地震が起きる。御開帳で賑わう善光寺の町の直下で起きたこの地震は、周辺地域も含めて約7000人の死者を出したと言われている。
   
1848
嘉永元
 
上田藩主である松平忠優が幕府老中になる。
   
1850
嘉永3
 
真田幸民が生まれる。
   
1852
嘉永5
 
真田幸貫が逝去。
   
1853
嘉永6
 
ペリー来航。
上田藩主である松平忠優は海防掛かりになる
   
1858
安政5
 
幕府が日米修好通商条約調印。
調印直後、松平忠優(忠固)は堀田正睦とともに老中職を罷免される。
   
1862
文久2
 
参勤交代制が緩和される。江戸詰の藩士が多数国元へ帰る。
   
1867
慶応3
 
15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った。
   
1868
明治元
 
戊辰戦争。北越戦争に松代藩も新政府軍として出兵した。
   
1867
慶応3
 
大政奉還
15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った。
   
1868
明治元
 
戊辰戦争
松代藩は新政府軍として北越戦争にも参戦した。
   
1869
明治2
 
真田幸教が逝去
 
   
 
版籍奉還
藩主は知藩事になる。
   
1871
明治4
 
廃藩置県
 
   
1903
明治36
 
真田幸民が逝去。
 
   
1904
明治37
 
日露戦争 勃発
 
   
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