基本データ
読み仮名
いわびつじょうあと
別名
 
所在地
群馬県吾妻郡東吾妻町平沢
遺構
 
区分
 
備考
JR吾妻線群馬原町駅で下車。
経歴
変遷

南北朝時代には吾妻氏の居城でした。
岩櫃城の登山口にある善導寺は吾妻太郎により創建されました。

上野国吾妻郡の鎌原宮内少輔は海野氏一族でした。
1561(永禄4)年、鎌原氏は武田氏の家臣になり、上杉氏の配下である斎藤越前入道憲広と支配権争いをしていました。
斎藤氏はこの岩櫃城を本拠地にしてしました。

1563(永禄6)年9月上旬、幸隆は長男信綱・三男昌幸・矢沢頼綱ら約3000人の兵で岩櫃城を攻めました。
斎藤氏は長尾憲景(白井城主)や沼田万鬼斎(沼田城主)からの支援により真田氏からの攻撃に耐え、幸隆は岩櫃城を落とすことができず斎藤氏と和睦をしました。
幸隆は吾妻郡における武田方の本拠地である長野原城に常田隆永を任せて、小県に引き揚げました。
幸隆は鎌原宮内と海野左馬充に斎藤氏への内部工作を任せました。
鎌原氏は斎藤憲広の甥である斎藤弥三郎、海野氏は斎藤氏の重臣で羽尾氏の息子である海野幸光と輝幸を誘いました。

9月下旬、斎藤氏が長野原城や箱岩城を攻撃し、この戦いで常田隆永は敗れ、隆永の長男俊綱が討ち死にしました。
これにより、真田氏と斎藤氏の和睦は敗れ、再び真田氏は斎藤氏討伐に動きました。

1563(永禄6)年10月、幸隆は約500人のわずかな兵を率いて岩櫃城に向かい、長男信綱には約2000人の兵を与えて、憲広の長男である斎藤城虎丸が守る嵩山城に向かわせました。

幸隆は、須賀尾峠や三島を経由し、岩櫃城近くにある類長ヶ峰に陣を張りました。
信綱の兵は暮坂峠経由で白井や沼田から来る援軍に備えさせ、さらに大戸真楽斎ら約200人の兵は長野業盛(箕輪城主)が佐藤氏への援軍を出してくることに備えさせました。

幸隆は、斎藤氏側にいる内応者が動くのを待ちました。

斎藤氏は真田氏が動かないことに疑念を抱き、角田新右衛門に様子を探るように命じました。
しかし、新右衛門は真田氏の内応者になっていた斎藤弥三郎に説得され、新右衛門も真田氏の内応者として動くようになり、真田方に岩櫃城内の様子を密告し、真田氏から城内に火を放つよう申しつけられました。
10月13日夜、岩櫃城内から火の手が上がるのを確認した幸隆は攻撃を開始し、吾妻川を渡り、岩櫃城内へ侵攻しました。

この時点で、富沢伊予守など真田氏への内応者による裏切りが続出した斎藤氏の陣営は総崩れになり、もはや真田氏をはね除ける力はありませんでした。

幸隆によって岩櫃城は攻略され、岩櫃城主である斎藤憲広は越後の上杉氏のもとへ逃げました。

岩櫃城は岩殿城(山梨県大月市)や久能山城(静岡県静岡市)とともに「武田領の三堅城(名城)」「関東三名城」などと呼ばれ、難攻不落の城として伝わっています。

武田氏滅亡後、岩櫃城は真田氏による吾妻郡支配の拠点になりました。

大坂の陣の時に、徳川方への配慮を重んじた信之により破壊されました。

構造

岩櫃城は、山の上部が切り立った崖になっている岩櫃山の中腹に作られた山城です。
山の西から南、そして東に向かって吾妻川が流れ、川沿いの斜面は川によって削られて急になっており、難攻不落の城といして東吾妻での拠点として重要な城でした。

岩櫃城の中枢である本丸、そして一番下がって二の丸があり、この二の丸から放射状に竪堀が何本か掘られているのが、この城の大きな特徴です。
竪堀は、ここから兵が出撃したり、敵兵が進入した場合はここを通ったところを上から攻撃することを想定して作られました。

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