名胡桃城
プロフィール
読み仮名
なぐるみじょう
別名
 
所在地
群馬県利根郡みなかみ町下津城平
遺構
 
区分
 
備考
上越新幹線上毛高原駅で乗換、JR上越線後閑(ごかん)駅で下車。
経歴
変遷1

沼田市街地から利根川上流に約6キロメートル登った河岸段丘上に築かれた城です。
沼田城と川を挟んだ場所にある戦国時代では上杉・武田(真田)・北条の三者がこの周辺を奪い合う上で重要な城の1つでした。

変遷2

1589(天正17)年7月10日、秀吉が沼田領の帰属問題に対して決定を下しました。それは、利根川を挟んだ東側は北条氏の領地にして、西側を真田氏の領地にするものでした。
昌幸は秀吉の判断に従い、沼田城を含む沼田領の3分の2を北条氏に明け渡しました。その代替地として家康は真田に伊那郡箕輪の地を与えました。

名胡桃城を含む上野の3分の1と吾妻郡はそのまま真田氏の領地となり、父幸隆の代から培ってきた上野での基盤は一応失わずに済んだ格好になりました。

上洛して秀吉の家臣になることの引き替えとして沼田を手にした北条氏ですが、沼田領引き渡しから3ヵ月を過ぎても上洛することはありませんでした。

1589(天正17)年11月3日、北条方で沼田城を任されていた猪俣邦憲の軍隊が真田氏の名胡桃城を攻略し、吾妻郡まで侵攻する事件が起こりました。
名胡桃城を真田氏から任されていた鈴木主水の補佐をしていた中山九郎兵衛が猪俣邦憲からの誘いに乗り、北条氏による名胡桃城乗っ取り作戦が決行されました。
北条方は鈴木主水に対して、昌幸から上田への呼び出しが掛かったかの様な手紙を送り、鈴木が居なくなったところを中山が手引きをして北条方の軍勢が名胡桃城に入りました。
鈴木が矢沢氏が居る岩櫃城に立ち寄って、上田へ呼び出されたことを伝えると、それを聞いた矢沢氏が不審に思い、鈴木に名胡桃城へ戻るように言いましたが、その時はすでに北条氏に乗っ取られた後でした。
これにより名胡桃城の城主だった鈴木主水は責任を感じて切腹しました。
昌幸からの訴えに対し秀吉は真田氏に支援する意志を伝え、これが秀吉による小田原攻めの発端となりました。

11月24日、小田原攻めが決定されました。

事件が起きた翌年の1590(天正18)年2月、秀吉は小田原攻めを行うために出発しました。
これに次男信繁(幸村)も小田原へ秀吉に随行しました。豊臣軍は総勢約20万でした。
この戦いに真田昌幸と信幸は、北条氏を北西から攻める前田利家・上杉景勝の北陸連合軍に加わり、その先鋒として参戦しました。
3月18日、北陸連合軍は碓氷峠にて北条方の大道寺政繁を破り、28日には大道寺氏の本拠地である松井田城を攻め始めました。
4月に入り、西牧城と厩橋(前橋)城を陥落させました。
4月20日、北陸連合軍は北条政繁の松井田城を陥落させ、次いで4月24日には箕輪城を攻略しました。
北陸連合軍は北条氏一族が陣取る城が密集している武蔵国に侵攻し、川越城・松山城・鉢形城城・八王子城を陥落させ、忍城を包囲しました。
7月5日、秀吉軍がついに小田原城を陥落させ、北条氏政が切腹し、北条氏は滅亡しました。
7月16日、北陸連合軍が包囲していた忍城が陥落しました。

最期まで豊臣秀吉に従わなかった北条氏が滅亡したことで、秀吉による天下統一が達成されました。

(信繁(幸村)がどのような形で北条討伐に参加していたのかは不明ですが、この頃、次男信繁(幸村)は大谷吉隆を通じて秀吉の家臣になり大坂にいたようで、秀吉に随行して小田原にいたという説があります。別に父兄と合流して北陸連合軍に加わっていたという説もありますが、本サイトでは秀吉随行説を採用しています。)

現状

現在、各曲輪や空堀の跡が残っていますが、国道が城の一部を横断してしまっています。
2005年度より整備が始まりました。

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