沼田城跡公園
基本情報
読み仮名
ぬまたじょう
別名
 
所在地
群馬県沼田市西倉内町594
遺構
 
種別
 
備考
JR上越線沼田駅で下車。
経歴
沼田城の変遷1

沼田城は1532(天文元)年、沼田顕泰(ぬまたあきやす)によって利根川と薄根川が合流する断崖絶壁の上に造られた平山城です。
沼田城がある付近は、関東と越後・信濃・会津を結ぶ街道が交差する交通の拠点でもあったので、昔から激しい争奪戦が繰り広げられてきた所でした。
上杉氏にとっては越後を守り関東への足がかりとして、北条氏にとっては上杉氏を関東から追い出す為に重要でした。

沼田顕泰は元々北条氏の家臣でしたが、1560(永禄3)年8月に長尾景虎(のちの上杉謙信)が上野に侵攻した際に景虎の家臣になり、1578(天正6)年3月に起こった御館の乱までの18年間は上杉氏の関東出兵の拠点として機能しました。

北条氏の支配下でしたが、その後、武田氏の上野国攻略で最前線にいた真田氏によって陥落しました。
武田氏滅亡により、滝川一益が一時入城しますが、本能寺の変後は再び真田氏の城になりました。
豊臣秀吉の裁定によって、沼田城は北条氏に引き渡されました。
沼田城に隣接している名胡桃城は真田氏の城ですが、ここに北条氏が攻め込む事件が発生、秀吉はこれを小田原の北条氏を攻める理由して、北条討伐が行われました。

この後は、上田は昌幸、沼田は信幸という体制ができ、これは関ヶ原合戦後に昌幸が次男信繁と共に紀伊国九度山に幽閉されるまで続きました。

関ヶ原合戦後、徳川氏から父昌幸の領土だった上田を与えられ、信之は居城を沼田から上田へ移しました。
沼田は信之の長男である信吉に任せました。

信吉の死後は、信吉の長男である熊の助が後を継ぎましたが、3代城主「熊の助」は幼くして亡くなってしまったため、幼い信吉次男に代わって信之二男である信政が4代城主になりました。

沼田城の変遷2

松代藩初代城主である信之が隠居したため、信政が沼田藩主から松代2代藩主になり、代わって信利が5代城主になりました。
沼田藩主になった信利ですが、松代藩主である信政がなくなると、その後継ぎになるべく、信政の六男と家督争いを始めました。
結局、松代藩の家督は信政の六男である幸道に継がれることになりました。

信利は3万石でしたが、144000石として領民に重税をかけました。
両国橋の掛け替え工事に使う御用木を受注しましたが、調達ができずに幕府から責められました。

結局、延長した期限にも御用木が間に合わず、しかも沼田領民からの悪政の訴えも幕府の耳に届いていたため、信利は改易されました。
その直後、5層の天守が聳えていた沼田城は破壊されました。
沼田は幕府直轄の天領になり、重税から解放されました。

沼田城の現在の状況

現在、公園として整備され、鐘楼が復元されています。幕府により破壊された状況をとどめており、城の主要な堀は埋まっています。
本丸の石垣の一部は現在露出しているため、本丸の石垣の下部は比較的良い状態で残っている可能性があり、発掘をすれば天守台も下部が発見される知れませんし、大量の瓦の破片も出土する可能性もあります。

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