大阪城公園
プロフィール
読み仮名
おおさかじょうこうえん
別名
大坂城、金城、錦城
(近代になって地名が「大阪」に改まる前は「大坂」と表記されました。rokumonsen.comでは、史跡案内として大阪城天守閣や大阪城公園など現在の大阪城を指す場合は「大阪」を用いますが、歴史上に出てくる城郭として豊臣氏や徳川氏によって築かれた大坂城を指す場合は「大坂」を用いることにしています。)
所在地
大阪市中央区大阪城1番1号
遺構
大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、桜門、金蔵、金明水井戸屋形(国重要文化財)
区分
 
備考

本丸には、徳川時代の天守台の上に大坂夏の陣の屏風をもとにて想像で建てられた大坂城天守閣が建ち、大阪のシンボルになっている。大坂城天守閣は博物館の名称であり、豊臣秀吉、大坂城、大坂の陣などについて展示を行っている。(本来、学術用語で天守のことを天守閣とは呼ばない。)

経歴
大阪城(大坂城)の変遷

1583(天正11)年、徳川氏や北条氏など一部勢力を残してほぼ天下統一を果たした羽柴秀吉は、石山本願寺の場所にかつてない規模の城郭を建造し始めました。それが大坂城です。
本丸、二の丸、三の丸、そして大坂城の弱点である南側を守るように総構えが築かれ、城内には金箔が施された豪華な建物が建ち並びましたが、5層7階の天守は一際豪華だったと言われています。

1585(天正13)年、真田昌幸は徳川方に上田城攻められる時、上杉氏に次男真田信繁(幸村)を人質として差し出しましたが、第一次上田合戦終結後に上田へ呼び戻しました。そして、信繁(幸村)を今度は大坂城の秀吉の下へ人質として送ったのです。
秀吉の家臣だった信繁(幸村)は秀吉の死後、1600(慶長5)年に起きた関ヶ原合戦では父昌幸とともに西軍に入り、九度山へ幽閉されました。
1614(慶長19)年10月、豊臣秀頼の下、徳川氏との戦いに参加することになった信繁(幸村)は大坂城に乗り込み、大坂城の守りで一番弱い場所に真田丸を築き籠もり、大阪冬の陣は何とか乗り越えました。しかし、夏の陣が始まる前に真田丸などは破壊されたため、圧倒的に有利な徳川方の前に豊臣方は力尽き、1615(慶長20)年5月7日、信繁(幸村)は討ち死にしました。

大坂の役後、秀吉によって築かれた大坂城は徳川氏によって大幅に改造されました。
秀吉が築いた大坂城の上にたくさんの盛土を行い、秀吉時代を凌駕する規模で高石垣が築かれ、その上には三層の櫓が騒然と並び、本丸中央には秀吉の大坂城天守よりも遙かに大きく感じる天守が建てられました。
大坂には大名は置かれず、幕府の城代が大坂城で執務を行いました。
徳川時代の天守は1665(寛文5)年に落雷により焼失しています。

現在、大阪城公園として見ることができる城は徳川時代のものであり、秀吉時代の石垣などの城は地中深く埋没しています。

現在、建っている大阪城天守閣は1931(昭和6)年に鉄筋コンクリートで建てられたものです。

大阪城天守閣の概要

大阪城天守閣は、当時の大阪市長であった關一(せき はじめ)によって建設が提唱され、徳川時代の天守台の上に鉄筋コンクリートを用いて造られ、1931(昭和6)年に竣工した、いわゆる復興天守です。(これ以後、町興しに復興天守を作る動きが各地で起こりました。)
大阪城天守閣は、「大坂夏の陣屏風図」に描かれている大坂城の天守を参考して、徳川時代の天守台に合うように新たにデザインされました。

大阪城天守閣は博物館の名前であり、館内では大坂城や秀吉の歴史、大坂冬の陣、大坂夏の陣、さらに真田氏ゆかりの品々も展示されています。

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