真田丸跡
プロフィール
読み仮名
さなだまるあと
別名
 
所在地
大阪府大阪市天王寺区餌差町
遺構
 
区分
 
備考
 
経歴

1614(慶長19)年10月、豊臣秀頼の下、徳川氏との戦いに参加することになった真田信繁(幸村)は大坂城に乗り込みました。
信繁(幸村)は大坂城の弱点である南側の防御力を高めるために総構え南東に出丸を築きました。これが真田丸です。

真田丸は大坂城南面の平野口付近に、総構えから張り出すように作られました。空堀・水堀・柵をめぐらし、櫓も建てられたと伝えられています。
ここで信繁自らが指揮を執って、徳川方を撃退していったと思われます。

1614(慶長19)年12月4日、大坂城への砲撃を命令された前田隊は大坂城の付近に砲撃用の施設を作っていました。そこに真田信繁(幸村)が守っている真田丸の中から挑発があり、前田隊の一部がそれに乗ってしまたため、他の部隊もこぞって真田丸を攻め始めました。その様子を見ていた井伊直孝と松平忠直と藤堂高虎の各隊も、遅れをとる訳にはいかないと、我先に総構えや真田丸に攻め込んでいきました。
結局この戦いは午後には信繁(幸村)の作戦に乗せられた徳川方の惨敗が確定的になり、徳川方は各陣へと撤退を始めました。

それから約20日後、豊臣方は徳川方と和睦し、真田丸など本丸の堀を除いて破壊されました。

真田丸があった場所は、現在住宅街・学校・公園などになっており、遺構は確認できません。明星学園付近が主な跡地であると推定されています。

トップ真田氏史跡探訪真田氏史跡リスト近畿地方大阪府大阪市>真田丸跡
 
copyright (C) 2000-2007 rokumonsen.com All right reserved.
サイトインフォメーション rokumonsen.com トップページ 真田氏史跡探訪 トップページ 史跡リスト 真田氏イベントガイド 周辺観光情報 交通ガイド 天気ガイド 桜ガイド 史跡マップ sanada-maru.com