真田信之 沿革1
幼少の時期

真田信幸は1566(永禄9)年に真田昌幸(武藤喜兵衛)の長男として生まれました。母は後に弟信繁(幸村)も産んだ山手殿です。

1579(天正7)年、信幸という名前を武田信玄から賜って元服しました。

第一次上田合戦で徳川氏と交戦

1585(天正13)年7月下旬、家康は自分の命令に逆らった昌幸を討伐する為に、鳥居元忠らに出撃命令を下しました。
8月26日、上杉氏海津城主である須田満親らに昌幸を支援する様に命じました。
8月末、徳川方が上田小県に到着しました。
徳川方の主力部隊は鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉・柴田重政らが主力部隊で、さらに信濃の地侍である保科正直・屋代秀政・諏訪頼忠・依田康国・下条頼安・知久頼氏・室賀満俊らに加え、旧武田家臣である岡部長盛・三枝昌頼らも動員し、約7000人とも8500人とも言われる軍勢が集まりました。
一方、真田方は2000人(うち騎馬は約200騎)だったので、この戦いでの徳川方にはかなり油断があったようです。 (真田方は農民約3000人動員説あり)
真田方は更に兵力があったようですが、北条氏による沼田城攻撃に備えるため、上田に戦力を集中することは困難で、沼田城も守らなければならないと言うことでも上杉氏からの支援が不可欠でした。

上田小県へ侵入した徳川軍は丸子城を避ける様にして八重原から長瀬河原を通って国分寺方面へ進入しました。
それに対して真田軍は、上田城に昌幸、戸石城に信幸、丸子城と矢沢城に主要部隊を配置して、合戦に備えました。
この時、上杉氏からの援軍も海津城から地蔵峠を越えて、上田付近に到着していました。

8月2日、第一次上田合戦の中で最も激戦である神川合戦が起こりました。
徳川軍は八重原より進軍し、神川付近で信之隊と一戦交えますが、信之は逃げたふりをして徳川方を上田城へ誘いました。
徳川方は、事前に統率が取れていた弓隊と鉄砲隊を後退させ、代わりに人数が圧倒的に多い一般部隊を前方に出し、一挙に上田城に攻め込むことにしました。
真田軍の作戦とも知らずに、3つある入口から上田の城下町へ侵入した徳川軍は勢いに任せて進軍し、大手門を突破し、二の丸(本丸とも)の周囲までの来ましたが堀が深く、門構えも堅固な為に進むことが出来なくなりました。

徳川軍が門を打ち破ろうとしている時に、かねてより準備していた撃退作戦が開始されました。門の入り口付近では通路の両側から大木が降ってくるように仕掛けてあり、大木を束ねていた綱が切って落とされ、徳川軍は大木に潰されました。これと同時に上田城の周囲に集まった徳川軍に向かって、城内から銃や弓による一斉射撃が行われ、さらに至る所から伏兵による攻撃が始まり、統率が取れずに有効な反撃ができないでいる徳川軍は大混乱になりました。この時、城内などから女性や子供も含めた農民も、一斉に徳川方へ投石攻撃を行ったようです。
昌幸はこのタイミングを見計らって追撃部隊を城内から投入し、指揮官のコントロールがきかなくなった徳川軍は撤退し始めました。城下町の路地は混乱した大軍が急いで退却するには大変狭いものであり、混乱に拍車が掛かりました。
徳川方の退路の途中にある科野大宮社付近にも実は真田方の部隊が待ちかまえており、この攻撃を受けた徳川方は完全に総崩れ状態となり、烏合の衆となった徳川方は後方からの真田方による追撃を受けながらも無我夢中で神川を逃げ渡り始めました。
科野大宮社付近で待ちかまえていたのは信幸の部隊だったという伝承もあります。

昌幸は神川の上流には事前に簡易的なダムを造って水を溜めておき、徳川方が川を渡っている途中で溜めてあった水を放流させたため大勢が流され、これによっても徳川軍の損害は甚大でした。(ダムを作ったと言うのは作り話で、もともと増水していて、そこを徳川方が無鉄砲に渡り始めたため、溺死者が多く出たという説もあります。)

昌幸は神川が望める黒坪の河岸段丘上に旗を立て、対岸の徳川方が撤退する様子を見ながら真田方の兵士に労いの言葉をかけ、勝ちどきをあげて上田城へ引き上げました。

信之は戦いに勝利したことを沼田城を守っていた城代に手紙で伝え、その中で信之は去る2日に国分寺で一戦を遂げた事と徳川方を1300人も討ち取った事を書いています。
(徳川方である大久保彦左衛門忠教は徳川方の死者は300人だったと書き残しています。)
真田方の死傷者は40~300人程だったと言われています。
徳川方である大久保忠教(大久保彦左衛門)は自身の回顧録「三河物語」で、この時の味方の状況について「ことごとく腰も抜け果て、下戸に酒を強いたような」と表現しています。

8月3日、前日の神川合戦で惨敗した徳川方は体勢を立て直すため八重原まで陣を後退させ、真田氏の家臣である丸子三左衛門が守る丸子城や尾野山城も攻めましたが、真田氏への援軍である上杉方が前面に出てきたこともあって陥落しませんでした。
8月20日、徳川方は小笠原氏・下条氏・飯島氏・松岡氏といった信濃の家臣達に出陣を命令しました。
同日、丸子城付近の丸子河原で再び徳川方と真田方が衝突しましたが、丸子城は陥落せず、徳川方は撤退しました。

9月、真田氏が上田から十分な援軍を送れないこの時を狙って、北条氏直の大軍が沼田城を攻めました。
真田氏は上杉氏に支援を要請し、上杉氏は人質として信繁と一緒に越後に来た矢沢頼幸を沼田に派遣し、さらに援軍も送りました。

9月29日、北条氏直の軍勢は撤退し、真田氏は上杉氏からの支援を得ながら沼田を守ることができました。

9月下旬、徳川方は小諸城に陣を移して、佐久・諏訪方面の安定を図りました。
小諸城に駐留していた徳川方に、援軍である井伊氏5000人の部隊が到着しました。

昌幸は上田城に籠城している最中に羽柴秀吉へ支援を要請し、秀吉はこれに応える手紙を昌幸に送っています。これに対して、秀吉は11月17日付の手紙で昌幸への支援を約束しています。

11月13日、家康の重臣である石川数正が徳川方を裏切って秀吉方になり、徳川方の情報が秀吉方に筒抜けになる状況が発生しました。
家康は石川市の寝返りの影響で体制を建て直さなければならなくなり、真田攻めをさせていた全軍を小県郡から遠江に引き上げさせました。

11月17日、徳川方が遠江に撤退した直後、昌幸には徳川方の撤兵理由が分からず、困惑している事を上杉氏に伝えています。

秀吉は11月19日付けの手紙で、昌幸に石川数正が徳川方から寝返ってきた状況と、家康を来年正月15日に討つことを伝えています。
同日、昌幸は秀吉に対して臣従を誓う書を送りました。

農民までも動員した真田方にとって徳川方は間違いなく強敵であり、石川氏の一件が無ければ再び徳川方が攻めてきた可能性が大きく、その場合はかなりの苦戦を強いられたと思われます。
石川氏出奔にも助けられ、戦力の違いを考えると、結果的に真田方の大勝利になりました。徳川方の損害が1300人という信之が書いた数字はやや誇張されている可能性がありますが、開戦前には予想できなかった事が起きたことは間違いなかったと言えます。

第一次上田合戦後、昌幸は上杉氏に人質として出していた弁丸(信繁、幸村)を取り戻し、秀吉に人質として出したと言われています。

徳川氏の家臣になる

1589(天正17)年2月13日、信幸は家康がいる岡崎に行き、徳川家康の家臣になりました。(信幸24才)
「雨降。信州真田むす子出仕候」(家忠日記)この日、岡崎は雨が降っていたようです。
この頃、昌幸は信幸を大名として一本立ちさせました。信幸は沼田城を任され、沼田・吾妻郡の統治を担当するようになりました。以後、昌幸は上田城で小県郡、信幸は沼田城で吾妻郡の支配を行う体制がしばらく続きました。

 
 
 
 
 
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