真田信之 沿革2
徳川氏の家臣になり、小松姫と結婚する

1590(天正18)年、長男信幸は本多忠勝の娘で家康の養女である小松姫と結婚し、真田氏は徳川氏と縁戚関係を結びました。 (信之25才、小松殿17才)

1590(天正18)年2月、北条討伐では前田氏・上杉氏と共に真田氏も豊臣方として参戦し、松井田城などを陥落させました。

1592(文禄元)年、朝鮮出兵が開始され文禄の役が起こり、信幸も兵を名護屋まで派遣したようですが不詳です。

1594(文禄3)年、信幸は従五位下伊豆守の官職を賜りました。この時、弟信繁(幸村)にも官職が与えられました。

同じ年の1594(文禄3)年、弟信繁(幸村)が大谷吉継の娘と結婚しました。これにより、信幸は徳川方の幹部、弟信繁は豊臣方の幹部の家族から正室を娶ったことになり、これは今後の2人の立場に多大な影響を与えていく事になります。

1597(慶長2)年、信幸の長男である信吉(のぶよし)が生まれる。(母は側室)

1597(慶長2)年、信幸の次男である信政(のぶまさ)が生まれる。(母は正室小松殿)

1598(慶長3)年8月13日、秀吉が伏見城で病死しました。(秀吉62または63才)
このとき信幸は伏見城にいました。
秀吉は遺言で、息子の秀頼を後継者とした形で五大老(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家)と五奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による合議制での政治を執り行うよう命令しました。
秀吉の死により朝鮮出兵は中止され、慶長の役は終わりました。
秀吉の死後、家康は独断での行動が目立ち始め、五大老や五奉行奉行の中で孤立を深めていきました。

1599(慶長4)年、秀頼が大坂城に入城し、秀頼を前田利家と石田三成が補佐しました。この頃、真田氏は昌幸と幸村は家康がいる伏見にいました。
1599(慶長4)年3月、五大老の中で最も秀吉から信任されていた前田利家が逝去しました。(前田利家 享年63才)
利家の嫡子である利長は家康に従う意向を示したため、豊臣方の力が弱まり、家康に主導権が移り始めました。

五大老のうち上杉景勝だけが家康に反抗する姿勢を示し、領地である会津に戻りました。

石田三成の決起に伴い、信之は東軍、父弟とは西軍へ

徳川方である信幸にも徳川氏から上杉討伐の号令が下りました。
信幸は江戸まで兵を率いて将軍秀忠のもとへ参陣し、1600(慶長5)年7月19日、他の徳川家臣とともに徳川本隊として江戸を出発しました。

1600(慶長5)年7月20日、徳川本隊として宇都宮へ着きましたが、翌日の21日に父昌幸へ石田三成から密書が届きました。それは徳川方が近畿地方を留守にしている間に豊臣方が挙兵したので、家康を討伐するために西軍へ加わって欲しいというものでした。密書を届けた使者から昌幸の娘婿である宇田頼次と信繁(幸村)の義父である大谷吉継が西軍に入ったという事を昌幸は聞きました。
昌幸は使者を通じて信幸にすぐに犬伏へ来る様に命じました。
昌幸は信幸・信繁(幸村)を犬伏のとある民家の離れに呼び、真田父子3人で今後の行動について話し合いました。

真田父子3人で話し合った結果、昌幸は過去の経緯から家康に対して信頼感を持つことができず、さらに娘の嫁ぎ先から三成が妻を娶っているので三成と親戚関係を結んでいた事もあり豊臣方になることを選択し、長男信幸は正室である小松殿が本多忠勝の娘で徳川家康の養女であることや、徳川氏の家臣として沼田領の領主になったという経緯もあったため、徳川方につきました。次男信繁(幸村)は豊臣氏の家臣であり、正室である竹林院の父である大谷吉継が石田三成からの説得で豊臣方になったことともあり、父昌幸ともに豊臣方になりました。
その結果、昌幸と信繁(幸村)は豊臣方へ、信幸は徳川方へと別れて、それぞれ西軍と東軍に入り、親子で敵対する陣営に別れてでも、武士としてそれぞれの立場を保ちつつ真田氏の家系と領地は守らねばならないと判断したのです。

信幸は会談後すぐに秀忠のもとを訪ねて、父弟が西軍に入った事を報告し、自らは東軍に入る意志があるを伝えました。

同じ1600(慶長5)7月21日、大坂から江戸に着いた家康は、上杉氏を牽制するために江戸を出発し北上しました。

7月23日、西軍に加わることを決めた昌幸と信繁は上田へ戻るため、下野の犬伏を出発しました。
昌幸と信繁は犬伏から上田へ帰る途中で沼田城に立ち寄ろうとしましたが、信幸の妻である小松殿は2人を城に入れるとそのまま占領されてしまうのではと危惧し、昌幸らは入城を拒否されました。
沼田城への入城を拒否された昌幸・信繁(幸村)は、武力で沼田城を攻略することなく、上田へ帰りました。
この話は小松殿が勇敢で頭が切れる才女として現在にまで伝わっていますが、恐らく事前に手紙や使者などで信幸から「父弟が沼田に寄った時は城内に入れないように」という指示が来ていたのではないかと思います。
この時、信繁(幸村)が腹いせに沼田城下へ火を放とうとしたところ、昌幸がそれを止めたという伝承もあります。

家康は上杉討伐の先発隊である秀忠と合流し7月24日に下野の小山に着陣しました。
信幸は着陣した家康に謁見し、東軍に加わったことを報告した上で、嫡子である信政を人質として江戸へ送ることを確約し、忠誠を誓いました。 この時、家康は東軍に入った信幸を大いに褒め称え、今後の立場を保証することまで確約しました。
会津や越後などの監視をする為に沼田へ戻った信幸は、4歳だった信政を人質として江戸に送りました。
家康は7月27日付けの書状で、昌幸の領地である小県郡を信幸に与えることを約束しました。

7月25日、徳川氏率いる東軍は小山の地で、後に小山評定と呼ばれることになる会議を開き、石田三成を中心とする西軍に対して合戦を挑むことを話し合いました。
福島政則・池田輝政らが、先発隊として兵を西に兵に進め始めました。
家康は江戸に戻り、諸大名に向けて自分へ味方するように連絡を取りつつ、周囲の状況を伺っていました。
このことは、家康が福島政則らかつて秀吉恩顧であった大名を完全に信頼しきっていた訳ではなく、大坂を出発した時から上杉や伊達の行動を注意深く見守りつつ、味方の中にも分裂の要素が多分にあった事を物語っています。

8月10日、石田三成が大垣城に入城し、東軍との衝突に備えました。

8月21日、信之は会津と上田の中間に位置する沼田で国境(会津口・信濃口)の警備を指揮するために、沼田に戻るため出発しました。

福島らの東軍先発隊の活躍を知った家康は、上杉氏への牽制で宇都宮に留めておいた徳川秀忠隊に西へ向かうように命令しました。
秀忠は家康の後継者であり、事実上の徳川方本隊であったと思われます。
秀忠は東西決戦が行われるであろう尾張方面に向かう途中で、信濃の諸大名で唯一西軍に加勢した真田昌幸・信繁(幸村)を征伐をすることになりました。
この時、沼田に居た信幸にも昌幸・信繁(幸村)討伐に参加するように命令が出ました。
秀忠に従い討伐に参加した主な武将は、譜代大名である榊原康政・大久保忠隣・大久保忠常・本多忠政・酒井家次・奥平家昌・菅沼忠政・牧野康成・戸田一西・小笠原忠成・石川康長・諏訪頼水・西尾吉次らを中心に、信濃の外様大名である森忠政・仙石秀久・真田信幸らも加わりました。
家康から秀忠の補佐役を命じられていた本多正信は真田討伐について反対しましたが、これを秀忠は聞き入れなかったと言われています。

8月23日、福島政則・池田輝政ら東軍先発隊が岐阜城を落としました。
そして、先発隊は大垣北方の赤坂まで兵を進めて、家康が来るのを待ちました

8月24日、沼田で警備していた信之に上田城攻めを行うので参陣せよと命令し、秀忠隊は真田昌幸・信繁(幸村)がいる上田城を目指して宇都宮を出発し、中山道を西へ進み、8月28日には松井田に到達しました。

同じ日、東軍先発隊は、合渡川の戦い、犬山の戦いに勝利しました。

 
 
 
 
 
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