真田信之 沿革3
関ヶ原の戦いで東軍が勝利

福島政則ら東軍先発隊の快進撃や西軍への内部工作の進展、そして上杉と伊達が動かない事など、自分に有利な状況が整ったと感じた家康は9月1日になって、ついに江戸城から約30000人の兵を率いて東海道を西へ進み始めました。

9月1日、秀忠隊は碓氷峠を越え軽井沢に着き、9月2日には道案内役の信幸と共に小諸城に着陣しました。
真田信幸と本多忠政を上田へ派遣して降伏を勧告しました。
忠政は小松殿の兄であり、信幸にとって義兄でした。
信濃国分寺で真田方と徳川方による会議が行われました。

9月3日、上田城で籠城している昌幸が信幸を介して秀忠に降伏してきましたが、翌日9月4日に昌幸の降伏は嘘であることが判明し、時間稼ぎであることを知った秀忠は森忠政に真田氏への攻撃を命じました。
これにより、秀忠が率いる東軍本隊と真田昌幸・信繁(幸村)父子による第二次上田合戦が始まりました。 (秀忠22才)
攻める徳川秀忠隊の3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だったと言われています。

信幸は秀忠から信繁(幸村)が守る戸石城への攻撃を命じられ、あわや兄弟対決になろうかという場面でしたが、9月5日に兄弟対決を嫌った信繁が(幸村)が戸石城から上田城へ退却し、それは回避されました。
信幸はまず、信繁(幸村)が退却した戸石城に隣接した伊勢崎城に入り、続いて戸石城に入りました。
これに伴い秀忠は味方である信幸が入った戸石城を背にして、上田城と向かい合う位置にある染屋に陣を構えました。

9月6日、秀忠は稲刈り部隊に牧野康成を任命して、稲の刈り取り作業を始め、上田城にに籠もる真田方を挑発しました。
上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきました。
真田方の兵を追って、刈田をしていた康成の嫡男である忠成の部隊が、挑発に乗って上田城の城壁近くまで押し寄せました。
この瞬間を狙っていた真田方は城内から一斉射撃を始めました。

上田城内から真田の部隊が出てきたのを見て、人数で勝る秀忠隊はこの挑発に乗ってしまい、上官が攻撃を制止してももはや止めることはできませんでした。
秀忠軍は上田城の周りへ押しかけましたが、城内からの一斉射撃を受け大きな損害を出しました。

昌幸と信繁(幸村)は徳川方を挑発する様に40~50騎を率いて上田城外へ偵察に出ました。
これを知った秀忠は依田肥前守の鉄砲隊に攻撃させ、昌幸と信繁(幸村)は交戦せずに城内へ引き揚げました。

真田氏の策略によって徳川方は混乱に陥って敗退し、戸石城までも真田軍に奪還されるなど、上田城周辺で激しい攻防戦が繰り広げられました。
人数で圧倒的有利な状況であるはずの徳川方が混乱し、敗走する部隊が出る中で徳川方の槍の達人7人が真田氏との戦闘で目立つ戦果を収めたようで、この武者達には「上田七本槍」と言う異名がつきました。

徳川方は大混乱に陥り、多くの死傷者を出して神川を越えて撤退し始めました。

本多正信は軍令違反をした部隊を厳しく処分し、大久保忠隣の旗奉行である杉浦文勝、牧野康成の旗奉行である贄掃部(にえ かもん)に切腹を命じました。
文勝は命令に従い自害しましたが、掃部は康成から逃亡を黙認されました。これにより康成は軍列から外され、後にこの責任を問われて領地を没収されました。
9月7日になると秀忠は上田攻撃を中止し、小県郡から小諸城に退却しました。

真田氏に対しては、最小限の抑えの部隊を残して西を目指すべきという本多正信などの意見と、真田氏に恥をかかされたため上田城を陥落させるまで戦うべきだという意見で、秀忠隊は2つに割れました。
その後も再度の大規模な攻撃を検討しましたが断念し、9月11日(8日説も有)、石田三成側との本戦に間に合わなくなることを危惧した秀忠は真田氏討伐をあきらめ、西に向けて小諸城を出発しました。
秀忠軍は真田の勢力が支配している和田峠を避け、大門峠を越えて諏訪経由で木曽へ向かいましたが、仙石秀久・石川康長・日根野高吉・森忠政・真田信幸らは上田城への押さえとして小諸城に残りました。

徳川方は家康による第一次上田合戦に続いて、その息子秀忠による第二次上田合戦に際しても、上田城周辺に押し寄せて一斉射撃で叩かれるという同じ失敗を犯したのです。

9月13日、秀忠隊は諏訪に到着しました。

9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する「関ヶ原合戦」が起こりました。

次男信繁(幸村)の妻利世の父大谷吉継は関ヶ原にて戦死しました。

9月16日、秀忠隊は木曽福島の山村良勝の館に到着しました。

9月17日、佐和山城が陥落し、裏切りが続出した三成が率いる西軍は、家康が率いる東軍に敗れました。
五女の夫である宇田頼次は父頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて奮戦しましたが、戦死しました。

この時点で、秀忠隊は関ヶ原から遠く離れた木曽にいました。真田討伐に手こずり失敗した秀忠は結果として関ヶ原合戦に間に合いませんでした。

9月19日、秀忠隊は美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)に到着しました。
結局、秀忠が大津城にいる家康隊に合流したのは9月20日でした。秀忠は何日か家康に面会してもらえなかったと伝えられています。

父昌幸と弟幸村が九度山に幽閉、父が逝去

昌幸と信繁(幸村)は西軍として上田城に籠城し、大軍である東軍秀忠隊の攻撃をかわしましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗退し、戦後処理は徳川氏主導のもとに行われました。
西軍の諸大名から没収された領地は、徳川氏譜代大名や東軍に入った外様大名(豊臣恩顧大名)に分け与えられました。
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の3カ国66万石の一大名になりました。

家康は西軍として上田城に籠城し、将軍秀忠が率い東軍と戦闘を繰り広げた昌幸・信繁(幸村)に切腹を言い渡しました。これに対し、信之は徳川氏から自分へ与えられる恩賞を辞退し、正室小松殿とその父本多忠勝、さらに井伊直政と榊原康政を通じて助命嘆願をしました。これに秀忠が最も抵抗をしましたが 、本多正信からの勧めもあり家康は助命嘆願を受け入れて、秀忠も康政から説得されて、昌幸・信繁(幸村)の切腹は回避されました。
家康は1600(慶長5)年12月上旬、昌幸と信繁に対して下された死罪を免除し、高野山での幽閉を命じました。

1600(慶長5)年12月13日、昌幸は近い立場にあった16人の家来、信繁(幸村)とその妻子や家来らと共に上田を出発しました。
昌幸の妻である山之手殿は、その後出家して寒松院を名乗り、上田の北に位置する大輪寺で生活し始めました。

幽閉先の高野山についた昌幸たちは、高野山蓮華定院など滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に落ち着きました。
一方、関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた信幸に対し、幕府は本領である吾妻郡・沼田領に加え、家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。
9万5000石の大名になった信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前で昌幸から受け継いだ幸の字(諱)を変えて、信幸を「信之」に改めたのです。

2度にわたって徳川氏の攻撃をかわした上田城は昌幸が去った後、本丸や二の丸などの中枢部が徳川氏によって破壊され、信之が入城するまでの間は幕府の命令により佐久や諏訪の領主である諏訪氏・依田氏・大井氏・伴野氏などが城番を務めました。

1601(慶長6)年になって真田信之に上田城は引き渡されました。
上田城の中枢部は利用できる状態ではなかったため、信之は現在の上田高校の地に居館を構えて藩政にあたりました。
城主が城の戦略的な中枢部ではなく、城下の屋敷で政治を執ることを陣屋支配と言います。

1603(慶長8)年2月、家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開き、翌年の1604(慶長9)7月17日に徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川3代将軍家光)が誕生し、そのまた翌年の1605(慶長10)4月16日に家康は将軍を秀忠が将軍に譲り、全国に徳川幕府の将軍は世襲制であり、豊臣氏への政権委譲はあり得ないことをアピールするなど、徳川氏の政権基盤の安定化が着々と進んでいきました。
同年7月、家康は孫の千姫を秀頼と結婚させました。

上田城に入った信之は、北国街道の整備とも関連して、宿場町でもあった上田城下町の区画整理を1605(慶長10)年から始めました。
1605(慶長11)年には上田城下町の区画整理を完了し、現在に続く原町・海野町の町並みが確定しました。
信之は沼田城の整備にも力を注ぎ、1607(慶長12)、沼田城に5層の天守が建造されました。

信之は九度山に住む昌幸と信繁のもとへ金銭や物資を送っていましたが、それでも九度山での昌幸と信繁(幸村)の生活は病気と借金に苦しみながらのものでした。
信之からだけでなく、地元の和歌山藩主である浅野幸長からの贈与を受けても足りず、臨時に必要になったお金の催促や、馬を送って欲しいと嘆願する手紙を数度にわたって、昌幸は国元の親戚筋に書いています。

浅野幸長は昌幸・信繁(幸村)が九度山へ来る1ヵ月ほど前に、関ヶ原合戦での戦功により甲斐の国から移ってきました。
幸長の父長政と昌幸は同世代で、共に秀吉の下に仕えていた事もあり、仲が良い付き合いがあった可能性があります。幸長は高野山で幽閉生活を送っている昌幸・信繁(幸村)に対しを複雑な感情を抱いていたいたことでしょう。
昌幸・信繁(幸村)が国元と書状を取り交わしたり、金の無心をする場合は、徳川氏の機嫌を損ねない範囲で融通を利かせていたと言われています。

家康からの赦免を心待ちにして苦しい幽閉生活を過ごしていた昌幸は1611(慶長16)年6月4日、かねてより患っていた病気が悪化し、九度山にて逝去しました。(真田昌幸 享年65才)

信之は昌幸を弔うことを計画しましたが、本多正信から「昌幸は徳川家にとっては憚(はばか)り多き人であるから、遠慮して葬儀は当面見合わせては如何(いかが)」と、徳川氏に遠慮してあきらめるように説得され、大規模な葬儀の挙行は断念せざるを得ませんでした。
幕府と豊臣の対立の中で、自分の父親をきちんと弔うことができない厳しい現実に、信之は直面したのです。

昌幸が亡くなった翌年の1612(慶長17)年、昌幸の家臣は一周忌をすませ、少数の家臣を信繁(幸村)のもとに残し九度山から信之がいる上田へ帰りました。
信之は九度山で昌幸に仕えていた家臣達に「昌幸御在世中相詰め、別して奉公奇特に候。いよいよ向後身上の儀取り立つべく候。」と感謝を伝え、信之の家臣としての役職と領地を与えました。

同年、信繁の次男である大八(のちの片倉守信)が生まれました。大八は後に仙台藩で信繁(幸村)の男系の血筋を引き継ぐことになります。

1613(慶長18)年、信之の生母である寒松院が逝去し、信之は上田の大輪寺に墓を建てました。

 
 
 
 
 
トップ真田氏データベース真田氏一族藩主系真田信之>沿革3
 
ろくもんせんどっとこむ トップページへ 真田氏データベース トップページへ ルーツ 家紋 歴代藩主 一族 系図 年表 親戚 家臣 勢力範囲 合戦遍歴 関連伝説 真田十勇士 有力者データベース 用語データベース サイトインフォメーション トップへ