真田信之 沿革4
大坂の陣では再び難しい立場になる(冬の陣)

1614(慶長19)年10月1日、片桐且元を追放し徳川幕府との戦が回避できない状態となった豊臣方は、翌日の2日には秀吉から信頼されていた大名や牢人に味方をするよう、戦に向けた戦力集めを本格的に始めました。
世の中の流れが徳川氏に向かっていたこの時点で、豊臣からの誘いに乗る大名は全くいませんでした。
これとは逆に主を持たない牢人は報償と名声を得る為に大坂城に集まり始めました。

 

幕府でも豊臣攻めのために兵を召集し始め、幕府は信濃・甲斐・関東などの諸大名に対して江戸に参陣するよう命じました。
この頃、真田氏の当主である信之は病床の身であり、出陣できる状態ではありませんでした。小松が実家である本多氏に信之が出陣できる状況でないことを伝え根回しをしてもらった結果、10月4日に出た出陣の命令書には「貴殿ご病気の場合は御息河内守(信吉)殿にご数人をつけて早々に出府されたい」という但し書きが付き、これにより真田氏の面目が保たれました。
長男信吉は次男信政や矢沢頼幸・鎌原重宗ら重臣と共に幕府方として参陣することになりました。(1614年は信之49才、信吉22才、信政18才)

息子2人は小松殿の弟である本多忠朝隊に入りました。この時、小松は2人に随行する矢沢頼幸に「何事についても、くれぐれも気をつけてくれるように」と申しつけました。

1614(慶長19)年10月9日、豊臣方として徳川氏と戦う決意をした弟信繁とその嫡子である大介(幸昌)は九度山を出発して大坂に向かい、4日後の10月13日には大坂城に到着しました。

10月11日、家康が駿府城を出発し、大坂へ向かい始めました。
この時、父昌幸の弟、信之の叔父である加津野信昌(真田信尹)が家康に随行しています。

10月23日、信幸の長男信吉と次男信政が秀忠隊に随行して江戸を出発しました。
信之は戦争未経験の息子達に、矢沢・木村・黒田・大熊ら戦争経験者を補佐役として随行させました。

大坂城の総構えの一部に真田丸が完成し、11月中旬には徳川方が大坂城の周囲に結集、本格的な衝突が始まりました。

11月15日の頃には徳川軍が大坂城を囲むように大きな群れとなって現れ始めました。そこに秀忠軍本隊が11月17日に天王寺へ到着し、これにより徳川軍の集結がほぼ完了しました。
信吉と信政は徳川氏の重臣である酒井家次の管轄下で、青屋口住吉において布陣しました。

12月4日、真田丸周辺で激戦が行われましたが、信吉隊はこの戦いには巻き込まれませんでした。

12月16日、徳川方からの砲撃によって天守と千畳敷御殿に玉が命中し、これに驚いた豊臣上層部は12月19日に徳川方と和議を結び冬の陣は終わりました。

 
大坂の陣では再び難しい立場になる(夏の陣)

1615(慶長20)年4月6日、家康は大坂に再び攻め入ることを命令し、信吉と信政もこれに従い出陣しました。
この時も、真田信之は病気により出陣できず、代わりに長男信吉と次男信政が出陣しました。
信吉は、井伊直孝の管轄下で本多忠朝が指揮する二番隊に所属しました。

4月26日、徳川方の先鋒が京都を出発し大坂夏の陣が始まりました。

5月7日午後、豊臣方の真田信繁(幸村)隊は大谷・渡辺・伊木の各隊の協力を得ながら松平忠直隊に突入し、毛利隊は本多隊・小笠原隊に続いて秋田・立花隊も撃破しました。

信繁(幸村)は2000の兵で松平直忠隊を突破したあと、家康隊を蹴散らして本営に突入しました。信繁(幸村)は家康の間近まで迫りましたが、事態を知った徳川方の救援部隊が到着して形勢は逆転し、信繁(幸村)は本陣から撤退しました。

信繁(幸村)は徳川方からの抵抗に疲れ安居神社で休息をしていたところ、松平忠直の家臣である西尾久作(西尾仁左衛門)に見つかり討たれました。(真田信繁(真田幸村)享年49才)

この戦いで信吉は27(29と言う説も有)の大坂方の首を取りました。
信吉隊は徳川内部での信用を得るべく最前線で戦闘を繰り広げた結果32人の戦死者を出しています。

 
大坂の陣に出陣できず、謀反の疑いを掛けられた信之

大坂の陣の間、信之は弟信繁(幸村)が豊臣方になった事で関ヶ原合戦の時と同じような苦しい思いを再び味わう事になりました。
信繁(幸村)が豊臣方で活躍している噂が出れば出る程、徳川幕府での信之の肩身は狭くなっていったのです。
持病である瘧(おこり=マラリアの一種)により出陣できない信之は、豊臣方である弟信繁(幸村)の援護をしているのでないかという疑念を持たれました。
信之は病で疲れている体をおして江戸城の将軍秀忠へ拝謁して大坂の陣を後方で支援することを願い出たり、出発前の息子達に叱咤激励をするなど、周りに気を遣っていたようです。

大坂の役の後、徳川方の信之が豊臣方の信繁(幸村)に兵や物資を送って支援をしたのではないかとの疑惑が持ち上がりました。この時、信之は自らの命にかけて疑惑を否定し、家臣の宮下藤右衛門が疑惑の一切を被って浪人になりました。

徳川政権の下で真田氏を継いだ信之
1615(元和元)年、幕府は一国一城令を出しました。
1615(元和元)年、幕府は武家諸法度を施行しました。その中で、城郭の築城は厳禁とし、修築に関しても厳重な許可制になりました。

1616(元和2)年4月17日、義父である徳川家康が駿府城で逝去しました。(徳川家康 享年75才)

同年7月、幕府が高田城主である松平忠信を改易しました。これに伴い幕府は信之などに高田城を番するように命令しました。

1617(元和3)3月、信之は居城を沼田城から上田城に移し、沼田城は長男信吉に任せました。これは父昌幸が自らを上田城主、信之を沼田城主にしたことを手本にしたと思われます。

1617(元和3)年、信之が病気を患った体をおして将軍秀忠の上洛に随行しました。

1620(元和6)2月24日、前年から病気が悪化していた信之の正室である小松殿が、療養していた江戸から草津へ当時の為に向かう途中、武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣市)で容体が急変し亡くなりました。(小松 享年47才)
大蓮院として常福寺(現在の芳泉寺)に葬られました。

1622(元和8)2月、信之は大蓮院3回忌にあたり、上田に大英寺を建立しました。(現在上田にある宝泉寺の前身)

 
 
 
 
 
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