真田信之 沿革5
徳川政権により上田から松代へ移封される
1622(元和8)年10月、信之は幕府から松代(松城)藩への移封を命じられ、上田藩には小諸藩から仙石氏が移ってくることにました。
松代への移封については、海野氏の時代から代々一族で守ってきた土地から離れる事に抵抗がありました。

信之は幕府から移封を命じられた帰り道、鴻巣にある小松殿の墓に立ち寄りました。信之は墓前で移封のことを、亡き妻に報告したに違いありません。そして、信之はこの地から国元に移封に納得した事を手紙で「我らこと、もはや老後に及び、万事要らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ、松城(のちの松代)へ相移る事に候」と伝えています。

この後あまり経たないうちに、信之は小野お通(真田信政の長男である真田信就の母)にも移封についての気持ちを手紙で伝えています。「もはや浮世にいらぬと存じ候へ共、子供のためと存じ、露の命の消えぬまでとて、世を渡り、あさげの煙心細さ、御押し測りて下されべく候」

信之は松代(松城)に移り、大連院の廟所である大英寺も松代へ移しました。
信之は松代10万石、沼田3万石で計13万石になりました。(信之57才。)
松代に移った信之は松代藩内に「侍は申すに及ばず末末にも哀憐を加え召し使うべきこと。」「実なるものを好めば家中その風になるものなり。驕りある者一旦は勇者のように見ゆるなり、よくよく勘弁のこと。」「常に法度多きはよろしからざること。」などの藩政の基本方針を示すとともに、奉行制度を拡充させて藩内政治の基礎固めを推し進めました。

松代は上田と同様に北国街道が通っているところでもあり、城下町の整備もしました。

沼田3万石は引き続き長男信吉に任せ、松代10万石のうち、1万石を次男信政に、7千石を三男信重に分け与えました。

1626(寛永3)年8月、将軍家光が京都へ上洛し、これに伴う9月6日の御水尾天皇の二条城行幸では、信之らが守護を務めました。

1634(寛永11)年6月、将軍家光が京都へ上洛し、この時は信之の次男である信政が名代として随行しました。

1634(寛永11)年11月28日、信之の嫡子で沼田城主の信吉が逝去。(信吉42才)

1635(寛永12)年、信吉の嫡子である熊之助が沼田城主になりました。

1638(寛永15)年、信吉の嫡子で沼田城主である熊之助が逝去しました。

1639(寛永16)年7月、信之の二男で信吉の弟である信政が沼田城主になりました。
信政が治めていた松代藩の支藩である埴科藩1万石を三男信重が引き継ぎ、これまでの7000石とともに埴科藩17000石は三男である真田信重が治めました。(埴科藩については建藩の年月日や領地の範囲など詳細は不明です。)

1647(正保4)年2月、2代埴科藩主である三男信重は松代にて亡くなりました。
信重には嫡子がいなかったため、埴科藩は松代藩に統合され廃藩になりました。

隠居後に家督の相続争いが勃発

1657(明暦3)年7月23日、信之(92才)が35年間務めた松代藩(10万石)の家督を次男信政(61才)に譲り隠居し一当斎を名乗り、松代城から鬼門の方角にある柴村に住みました。この時、将軍である徳川綱吉はまだ11才という若さだったので、幕府のためにも信之の隠居を引き留める声が多かったようです。
8月10日(9月説も有)、沼田藩(3万石)はそれまで藩主だった次男信政から長男信吉の次男である信利(23才)に譲られました。

 
 
 
 
 
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