真田信之 沿革6
隠居後に家督の相続争いが勃発

1658(明暦4)年2月5日、松代2代藩主である次男信政が亡くなりました。(真田信政62才)
松代藩を継いだ次男信政が病死したことにより、信政の子である右衛門佐(うもんのすけ、のちの幸道)と沼田藩主である信利の間で松代藩を巡る家督相続騒動が起こりました。

信政は生前に幕府幹部宛に遺書を出しており、そこには右衛門佐(幸道)に家督を譲ることが書かれていました。遺言書は信之に相談無く書かれたもので、信之は不愉快だったようですが、右衛門佐に家督を継がせるように動きました。

真田氏内部は右衛門佐派と信利派に分かれ、互いに幕府幹部への激しい工作合戦が繰り広げられました。

信利派の主なメンバーは、母松仙院の甥である老中・酒井忠清(厩橋15万石)、信利の妻の実家である山内忠豊(高知20万石)、親類の高力高長、信政の長男で分家として勘解由家を立ち上げていた真田信就などでした。
右衛門佐(幸道)派の主なメンバーは、祖父信之と信政が松代藩主になった時に松代へ移った家臣団でした。

右衛門佐(幸道)派の家臣達は、信利が家督を継いだ場合は切腹するという連判状まで用意しました。

右衛門佐(幸道)信利の間で起こった家督相続は、1658(万治元)年6月14日、幕府が松代3代藩主を信政の六男である右衛門佐(幸道)にする命令を出したことにより決着がつきました。

晩年は金銭に関してはケチだったと言う逸話も残っています。

信之、逝去
1658(万治元)年10月17日、93才で信之は逝去しました。
真田氏の菩提寺である長国寺に信之の霊屋が建てられました。
隠居所があった場所には大鋒寺が建てられ、信之の墓と霊屋があります。

側近の鈴木右近忠重が、生前にその約束があったようで、信之の後を追って切腹しました。

 
 
 
 
 
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